『魔王に拾われた泥棒猫は、呪いの歌を歌う』(イラスト有り)
✴︎1 まばゆいカクテル光線が、ステージの中央に立つ
小さなシルエットを無慈悲に照らし出していた。
都内の中規模なライブハウス。フロアを埋め尽くすのは、淡いピンク色のペンライトを握りしめ、熱気と期待に顔を上気させた数百人のファンたちだった。彼らが待っているのは、かつて「国民の妹」ともてはやされた、ふんわりとした茶髪にマシュマロのような可憐な体躯を持つ清純派アイドル――花園美羽の復帰ステージである。
だが、ステージの中央でマイクスタンドを握りしめる美羽の胸の内に、かつてのようなファンへの媚びや、あざとい「〜ですぅ」という虚飾は一切存在していなかった。
(……気持ち悪い。どいつもこいつも、私の被った『可愛い妹』の仮面に群がるだけの羽虫ども)
美羽は内心で冷たく毒づきながら、静かに息を吸い込んだ。
修学旅行の小樽で起きた、あの決定的な破滅。高級オルゴール堂で高額な商品を盗もうとして失敗し、330万円という途方もない器物破損の罪を背負った絶望。
退学と人生の終わりを覚悟したあの日、彼女の前に現れた圧倒的な絶対君主・恋問持子は、その天文学的な借金と罪を丸ごと買い取った。
『嘘つきのまま、私に一生依存させてください』
そう誓った日から、美羽の魂は完全に持子という魔王の所有物となったのだ。
スノーの社長である立花雪からの再デビューの条件は、「アイドルとしての嘘を捨て、歪んだ執着を歌で示せ」という苛烈なものだった。
(見せてあげるわ。あなたたちが愛した『国民の妹』の、本当の泥ドロの腹の中を)
ドンッ、と。
可愛らしいポップスとは無縁の、不協和音めいた重く冷たいピアノのイントロが鳴り響いた。
ピンク色のペンライトが、戸惑うようにピタリと止まる。
美羽は、装飾の一切を排した漆黒のドレスの裾を握りしめ、血を吐くような声で歌い始めた。
『綺麗に並んだショーケース ガラスの向こうの煌めきは
誰かのための値札 私には一生買えない光
だから私は微笑んだ あどけないふりをして誤魔化して
その隙に指先を滑らせるの』
その瞬間、会場の空気が物理的に「ビリッ」と震えた。
美羽の抱える窃盗癖という『業』、そして持子への醜くも純粋な『隷属』の欲求。アイドルとしての嘘を脱ぎ捨てた彼女の歌声は、呪いのような異様な熱量(魔力)を帯び、空間そのものを共鳴させていたのだ。
客席の前列にいたファンたちの顔から、血の気が引いていくのが見えた。
『一枚五百円の肉を詰めるように 他人の愛を胃袋に詰め込んで
それでも心は飢えたまま
私のポッケに隠した盗品たち
どれだけ集めても 私はずっと空っぽだった』
「な、なんだよこれ……」
「美羽ちゃん……? いや、気持ち悪い……声が、頭に響いて……吐き気が……」
美羽の歌声は、綺麗事や希望を歌うものではない。人間の底知れぬ醜さ、損得勘定、取り繕うことのできない卑しさを、鋭いナイフのように観客の鼓膜へ、そして精神へと直接突き刺していく。
『浄化なんてされたくない 真っ白になんてなりたくない
嘘つきのまま 泥棒猫のまま
あの美しい人の足元に這いつくばって
永遠に黒い影を舐め続けたい——!』
歌声が悲鳴のような高音へと達した時、美羽の中に溜まっていたドロドロの闇の魔力が、目に見えない瘴気となってフロアに降り注いだ。
耐えきれなくなった数人の観客が、口元を抑えてフロアの後方へと逃げ出す。ピンク色のペンライトは次々と床に落とされ、光を失っていった。
「ふざけんな! 昔の美羽ちゃんを返せ!」
「なんだよこの気味の悪い歌! 宗教かよ!」
「金返せ! 泥棒猫!」
怒号、悲鳴、そして圧倒的な拒絶。
生配信されていたモニターのコメント欄も、「放送事故」「完全に病んでる」「引退しろ」「耳が腐る」といった凄まじい罵詈雑言で埋め尽くされ、大炎上を引き起こしていた。
曲が終わり、静寂すら訪れない騒然とした空気の中、美羽は荒い息を吐きながらステージを降りた。
大衆からの完全なる拒絶。清純派アイドル「花園美羽」が、社会的な意味で完全に死んだ瞬間だった。
「チッ……うるさい連中。私の本当の姿を見せてやったのに、逃げ出すなんて軟弱すぎるんですぅ」
薄暗い舞台裏の廊下。美羽は壁に背を預け、震える足を踏みしめながら、わざとらしい甘ったるい口調で強がった。だが、握りしめた小さな拳は白く血の気を失っており、大衆から「汚物」のように石を投げられたダメージが全くないわけではなかった。
「ふふっ、無様ですわね、泥棒猫」
冷笑と共に現れたのは、ピンク色の髪を揺らす本多鮎だった。かつてトップモデルとして君臨し、今は持子の第一下僕(忠犬)を自称する彼女は、勝ち誇ったように腕を組んで美羽を見下ろした。
「あんなおぞましい歌を白日の下に晒せば、そうなることくらい頭の足りない貴女でも分かっていたでしょうに。持子様の美しきハレムの末席を汚すだけのことはありますわね。この駄犬以下の泥棒猫が」
「……なんだと、この発情一番犬。持子様の残り香ばっかり嗅いでる変態のくせに、偉そうにキャンキャン吠えるな」
「なんですって! シャーッ!」
「ガウガウッ!」
いつものように低レベルな小競り合いを始めた二人だったが、その背後から、コツ、コツと冷静なヒールの音が響いた。
「そこまでにしなさい、二人とも。……まあ、見事なまでの大失敗(大炎上)ね」
タブレット端末を片手に現れたのは、スノーの社長・立花雪だった。眼鏡の奥の理知的な瞳は、大炎上を続けるSNSのタイムラインや、絶望的な数字を叩き出している視聴者数を冷徹に見つめている。
「雪社長……す、すみません。私……」
美羽が言い訳をしようと口を開きかけた、その時だった。
「謝る必要はない、美羽」
舞台裏の淀んだ空気を一変させる、絶対的な覇気。
長身を黒のレザージャケットに包んだ、黄金の瞳を持つ魔王・恋問持子が、静かに二人の前に進み出た。神が計算したとしか思えない完璧な黄金比の肉体から放たれる威圧感に、美羽も鮎も思わず息を呑む。
「持子様……でも、私、みんなに気持ち悪いって……誰にも受け入れてもらえなくて……っ」
大衆の悪意に晒された心の傷が、持子の顔を見た途端に決壊しそうになる。
だが、持子は鼻で笑った。
「当たり前だ。光の当たる場所で生きる温室育ちの雑兵どもに、貴様の抱える泥まみれの『業』の重さが耐えられるはずがなかろう」
持子はゆっくりと美羽に近づき、その華奢な顎を指先でクイッと持ち上げた。
黄金の瞳が、美羽の奥底にある闇を真っ直ぐに射抜く。
「大衆の無責任な愛など、魔王たるわしには不要だ。貴様はわしの借金ごと買い取った泥棒猫であり、わしの下僕だ。他人の物を盗むその汚い手も、腹黒い性根も、ドロドロの執着も、すべてひっくるめて『わしの所有物』である」
持子の背後に、常人には見えない漆黒の魔力の手がゆらりと立ち上がり、美羽の小さな体を優しく、しかし逃げ場のないほど絶対的に包み込んだ。
「誰も貴様を愛さぬのなら、わしがその業ごと喰らってやる。だから、泣き言をほざく暇があるなら、わしのためだけにその呪いの歌を磨き続けよ」
その圧倒的な支配と肯定の言葉に、美羽の瞳から堪えきれずに大粒の涙が溢れ出した。
大衆には拒絶された。社会からは石を投げられた。
しかし、彼女が本当に執着し、永遠にその足元で朽ちていきたいと願う「美しい神様」だけは、彼女の醜い本質を最高級の宝石のように愛し、肯定してくれたのだ。
「ああ……あぁっ、持子様……! 好き、大好きですぅ……! 私、一生、貴方様のポッケの中で生きる泥棒猫でいますぅ……!」
美羽は持子の足元に崩れ落ちるようにすがりつき、歓喜の涙を流した。
その光景を見ながら、雪はタブレットの画面をそっとスワイプした。
大炎上するメインストリームの裏側。深夜のアンダーグラウンドな掲示板や、傷を抱えた若者たちのコミュニティで、美羽の切り抜き動画が局地的に異常な再生数を記録し始めているデータを、雪の目は冷徹に、そして確かなプロデューサーとしての勝算を持って見逃してはいなかった。
「……光の道は閉ざされたけれど、這いつくばる泥の道は開けたみたいね。次からは、あの子の『毒』を求める壊れた人間たちだけをターゲットにするわよ」
雪の静かな呟きは、大失敗から始まる、狂信的なカルトシンガー誕生の確かな号砲だった。




