救済のあとに残ったもの
おかしい、長すぎる
✴︎捕食と産声
スイートルームの静寂に、荒い吐息だけが響く。
「……はぁ、はぁ……ッ」
持子の身体から、唐突にすべての力が抜け落ちた。
魔眼による最深部への精神干渉と、対象の魂を根絶やしにする禁断の捕食魔術。その絶大な出力の代償はあまりにも大きく、持子の魔力は完全に底をついていた。
ドサッ。
生命活動を停止したかのように微動だにしない鮎の身体の上に、持子は糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
全身から、滝のような汗が吹き出している。
それはただの暑さによるものではない。限界を超えた魔力回路のオーバーヒートによる排熱だ。制服のブラウスは肌に張り付き、スカートの中の下着までもがぐっしょりと濡れてしまっている。
「……ぬぅ。……気持ち悪い」
持子は不快感に顔をしかめた。
天下の魔王・董卓ともあろう者が、汗と体液にまみれて不潔であるなど許されない。
持子は鉛のように重い身体を無理やり起こすと、ピクリとも動かない鮎の身体からのろりと離れた。
そして、ふらつく足取りのまま、一度も振り返ることなくバスルームへと消えていった。
*
——どれくらいの時間が経っただろうか。
本多鮎の意識が、深い海の底から浮上するように戻ってきた。
目を開けると、そこは黄金の世界ではなく、見慣れたホテルの白い天井だった。
「……え?」
鮎は身体を起こし、自分の手を見た。
ある。指も、腕も、身体も。消え去ってはいない。
痛みもない。それどころか、身体が羽のように軽い。
今まで胸の奥に鉛のように詰まっていた、ドロドロとした黒い塊が、きれいさっぱりなくなっているような感覚。
(私……死んだんじゃ、なかったの?)
不思議だった。あれほどの絶望と、魂が解けるような圧倒的な力に飲み込まれ、確かに「終わり」を受け入れたはずなのに。
その時、バスルームのドアが開いた。
ガチャリ。
もうもうと立ち込める白い湯気。その向こうから、一人の少女が現れた。
「……ふぅ。生き返ったわ」
恋問持子だった。
彼女はバスタオルすら纏っていなかった。濡れた長い黒髪をかき上げながら、生まれたままの姿で、湯気の中から歩み出てくる。
水滴が、白磁のような肌を滑り落ちる。豊満でありながら引き締まった肢体。細くくびれた腰から、なだらかに広がる臀部のライン。
それは、ただ「性的」なだけではない。神々しいまでの、圧倒的な造形美。人間という種が到達できる、美の極致。
「——美しい」
鮎の口から、言葉がこぼれ落ちた。
それは、思考するよりも先に、魂が震えて出た音だった。
今まで、鮎は何度も持子に「きれい」と言ってきた。だが、それは全て嘘だった。嫉妬を隠すための仮面であり、皮肉であり、媚びだった。
心から、純粋に、混じりけなしにそう思ったことは一度もなかった。自分の汚れと比較してしまい、認めることができなかったからだ。
けれど今、鮎の胸には、何の引っかかりもなかった。
ただ、目の前の芸術品に感動し、涙が出るほど美しいと思えた。
「……ん? 何か言ったか?」
持子は、鮎の視線など気にも留めず、悠然と髪を拭いている。
鮎は呆然としながら、問いかけた。
「ねぇ……持子ちゃん」
「なんだ」
「私を……殺してくれなかったの?」
殺してと頼んだ。持子も「よかろう」と言った。なのに、なぜ私はここにいるの。
持子は、濡れた髪をバサリと背中に払い、黄金の瞳で鮎を見下ろした。
そして、ニヤリと、傲岸不遜な魔王の笑みを浮かべた。
「殺したさ」
「え……?」
「貴様の心に寄生していた『妖』と、それに喰われて肥大化していた『闇の心』だけをな。残らずわしが食い殺してやった」
鮎は息を呑んだ。
「……え? じゃあ、あの時……」
「馬鹿め。本来の貴様の脆い心に、傷一つつけぬよう引き剥がして喰らうのは、ひどく骨が折れたわ。おかげで魔力はすっからかんだ」
持子は肩をすくめると、ベッドの端に腰掛け、優雅に脚を組んだ。
「貴様はもう、空っぽだ。……これからは、その空いた器に、美しいものだけを詰め込むがよい」
その言葉を聞いた瞬間、鮎の目から再び涙が溢れ出した。
あの凄まじい魔力の奔流は、自分を壊すためではなく、自分の中の泥だけを正確に取り除くためのものだったのだ。
今度の涙は、絶望の涙ではなかった。
それは、生まれ変わったばかりの赤子が上げる、産声のような涙だった。
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