エピローグ:朝焼けの誓いと、騒がしき日常
✴︎エピローグ:朝焼けの誓いと、騒がしき日常の帰還
フゥゥゥゥゥッ……。
大手町の高層ビルの屋上に、夜の終わりを告げる冷たい風が吹き抜けた。
平安の朱塗りの回廊と現代のコンクリートが入り混じったグロテスクな異界はすでに完全に崩壊し、足元にはいつもの無機質で平坦なヘリポートが広がっている。
東の空が白み始め、厚い雲の切れ間から、眩いばかりの黄金色の朝陽が帝都の街並みを照らし出そうとしていた。
「……終わったな」
恋問持子は、ボロボロになった衣服の裾を夜風に揺らしながら、眼下に広がる東京の街を見下ろした。
かつて長安を恐怖で支配した暴君・董卓の魂を持つ彼女にとって、この街は今世で手に入れた「自分の箱庭」だ。不器用な彼女なりに、その箱庭を護り抜いたという確かな実感が、黄金の瞳に静かな充足感を与えていた。
「……ええ。終わりましたね、先輩」
その隣に並び立つ風間楓が、静かに頷く。
激戦の疲労でその端正な横顔は青白く、いつもは隙一つ見せない彼女の巫女服も、あちこちが破れて煤けている。
カツッ、カツッ。
楓は少しだけ持子に歩み寄ると、東京の朝焼けを見つめたまま、ふと、いつもの冷徹なトーンとは違う、ひどくか細い声で口を開いた。
「……先輩。私は、日本神話における荒ぶる神・スサノオの娘であり、大国主の正妻……『須勢理毘売命』の転生体です」
その唐突な告白に、持子は驚くことなく、ただ静かに「ああ」とだけ応えた。
楓が息をするように神話級の宝具を召喚する姿を見れば、彼女がただの天才霊能者ではないことなど、とうに察しがついていたからだ。
「……でも、私にはまだ、前世の記憶は一切覚醒していません」
楓は、自らの両手をそっと胸の前で握りしめた。その手が、微かに震えていることに持子は気づいた。
「……恐ろしかったんです。裏社会の記録において、神や強力な怨霊の『前世の記憶』を完全に目覚めさせた転生体は、数えるほどしかいません。そして……その覚醒を果たした者のほとんどが、強大すぎる前世の魂に今世の人格を押し潰され、自我を失って発狂するか、全く別の『化け物』へと成り果ててきました」
ギュッ、と。楓が胸元の巫女服をきつく握る。
「だから、私は……いつか須勢理毘売命の記憶が覚醒した時、今の『風間楓』という人間がいなくなってしまうのではないかと、ずっと……ずっと怖かった」
普段の、あの孤高で毒舌で、誰よりも冷静な後輩の姿からは想像もつかない、等身大の少女の怯え。
「祖父の助平から「お前はすせり姫の生まれ変わりだ」
と言い聞かせられて育ち、その強大すぎる神の力を自覚しながらも、彼女はたった一人で「自分が自分でなくなる恐怖」と戦い続けてきたのだ。
「……でも」
楓はそこで言葉を区切り、ゆっくりと持子の方へ向き直った。
「持子先輩の……前世の暴君の記憶と、今世の不器用で優しい『恋問持子』という人間が、決して反発することなく同居している姿を見て……分かりました。前世の記憶がどれほど強大でも、覚醒するまでの今世の記憶や、仲間を想う気持ちは……絶対に、この身体と心に残るのですね」
持子は何も言わず、ただ黄金の瞳で楓を見つめ返している。
「……先輩を見ていたら、前世の記憶が蘇るのも、悪くないような気がしてきました。私が、私であることに変わりはないのだと、そう思えたから」
楓の切れ長で美しい瞳の縁に、キラキラと光るものが浮かんでいた。
あの修羅の巫女が、ポロポロと、大粒の涙をこぼしていた。
「……ただ、先輩」
楓は涙声になりながらも、必死に持子の黄金の瞳を真っ直ぐに見つめ、懇願するように言った。
「もしも……もしもいつか、私の前世の記憶が完全に蘇って、神としての傲慢さで悪いことや、いけない事をしてしまいそうになったら。その時は……」
楓の声が、震え、途切れる。
「その時は、先輩が……私を思い切り叱って、止めてくださいね……っ」
その言葉の裏にある、不器用なほどの深い信頼と親愛。
持子は、フッと優しく、王としての包容力に満ちた笑みを浮かべた。
「……当たり前だ」
バサッ。
持子は長い腕を伸ばし、涙を流す楓の華奢な身体を、静かに、そして力強く抱きしめた。
「ッ……先輩……」
「わしを誰だと思っている。長安を支配し、そして今世ではこの帝都を束ねる魔王だぞ。貴様がどんな神の魂に染まろうと、貴様はわしの可愛い後輩であり、わしの自慢の尖兵だ。……道を踏み外せば、何度でも力ずくでわしの隣に引きずり戻してやる」
持子の大きく温かい手に背中を撫でられ、楓の張り詰めていた糸が完全に切れた。
「……っ、う、あぁぁん……っ」
楓は持子の胸に顔を埋め、子供のように声を上げて泣きじゃくった。神の宿命も、戦いの重圧も全て忘れ、ただの一人の少女として。
持子は何も言わず、朝陽に照らされる中で、静かに後輩の涙を受け止めていた。
――それは、絵画のように美しく、尊い時間。
二人の絆が、魂の次元で完全に結びついた、感動的なフィナーレ。
……になるはずだった。
バーーーンッッ!!
「ズッルゥゥゥゥゥゥゥイッッ!!!」
突如として、屋上に続く重厚な鉄扉が、ひしゃげるほどの勢いで蹴り飛ばされた。
「な、なんだ!?」
持子が驚いて振り返ると、そこには全身血まみれでボロボロの本多鮎が、般若のような顔で涙と鼻水を流しながら立っていた。
「持子様ぁぁっ! なんで、なんで楓ちゃんだけ抱きしめてるんですかっ!? 私もっ! 私も下で一生懸命あの骸骨と戦ったのにぃぃっ! 愛のフルスイング、頑張ったのにぃぃっ!!」
ドタドタドタッ! と地響きを立てて突進してくる鮎。
「にゃ、にゃああああああっ!! 抜け駆けですにゃ、楓ちゃん!!」
その背後から、花園美羽が猫のように素早い動きで飛び出してきた。
「あの生意気な後輩が、持子様に甘えているなんて許せないですぅ! 私も、私も持子様の膝の上でよしよしされる権利がありますにゃぁぁっ!」
「ちょっ、お前たち、待て! 今はそういう空気じゃ――」
持子が慌てて楓から身体を離そうとするが、時すでに遅し。
「持子様ぁぁぁぁっ! 愛してますぅぅぅっ!」
「にゃあああああんっ! 持子様ぁぁっ!」
ドゴォォォォンッ!!
鮎と美羽の二人が、持子の左右から弾丸のようなタックルをかまし、そのまま持子を屋上のコンクリートの床へと押し倒した。
「ぐふぁッ!? き、貴様ら、重い、痛い、傷口が開くわバカモノッ!!」
「えへへぇ……持子様の匂い、最高ですぅ……すー、はー、すー、はー……」
「にゃふふふ……肉まんより温かいですにゃ……すりすり……」
持子の腹の上で、ピンク色の髪と獣の耳が嬉しそうに擦り付けられる。
「まったく……あなた方、少しは空気を読みなさいな」
最後に、影の中から呆れたようにため息をつきながら、真紅のドレスを纏ったルージュの声が響く。
「まぁ、わたくしも索敵でかなり魔力を消費しましたし? 報酬として、持子様の極上の魔力を一口くらいいただいてもバチは当たらないとは思いますけれど……ふふっ」
ルージュの真紅の瞳が、影の中から妖しく、そして楽しげに光る。
「や、やめろルージュ! 貴様は後にしろ! こら、鮎、美羽、どけ! わしは王だぞ、王をクッションにするなァァァッ!」
持子の情けない悲鳴が、朝焼けの帝都の空にこだまする。
つい先ほどまでの、あの神聖で涙ぐましいエモーショナルな空間は、跡形もなく消え去っていた。
「……ふふっ」
一人ポツンと取り残された楓は、目尻の涙を指先で拭いながら、そのドタバタ劇を見て思わず吹き出した。
「本当に……騒がしくて、品がなくて、馬鹿な人たち」
楓は小さく呟きながら、ゆっくりと歩き出す。
そして、持子の上で団子状態になっている鮎と美羽の首根っこを、容赦なく両手でガシッと掴んだ。
「痛っ!? 何するのよ楓ちゃん!」
「にゃっ!? 首が、首が絞まるですぅ!」
「いつまで先輩に乗っかっているんですか、重いでしょう。ほら、どきなさい駄犬、猫」
いつもの、氷のように冷たく、毒のある声。
しかし、その口元には、かつてないほど柔らかく、温かい笑みが浮かんでいた。
「まったく、騒がしい奴らだ……。おい楓、お前も手伝わんか! この鮎の力が強すぎて引き剥がせん!」
「えー、私も持子様にハグされたいですよぉ! 楓ちゃんだけずるいずるいずるいー!」
「私のお魚(愛)はどこですかにゃー!」
「あらあら、仕方ないお転婆さんたちですわねぇ」
朝日が、少女たちの笑顔と騒ぎ声を、どこまでも明るく照らし出していく。
かくして、東京の霊脈を巡る理不尽な怨霊との死闘は、世界で一番騒がしくて、世界で一番温かい、彼女たちの「日常」の中へと溶けていった。
――極黒の魔王と東京霊脈戦線 こんどこそ 【完】
シリアスはつらいよー




