殺してと願った女に、魔王は口付けを与えた
黄金の慈悲と死の接吻
スイートルームの静寂を、本多鮎の嗚咽だけが満たしていた。
精神の皮を剥がされ、ドロドロとした本性を白日の下に晒された鮎は、もはや抵抗する力も残っていなかった。
「……そうよ。……壊れてるの」と、鮎は掠れた声で呟いた。涙で濡れた睫毛が震える。
「私は……美しいものを壊すことしかできない。愛し方も知らない……ただの、醜い怪物なのよ……ッ!」
彼女の瞳から、ボロボロと大粒の涙が溢れ落ち、シーツに黒い染みを作っていく。
自らの内に蠢く妖の存在を突きつけられ、自分の心の醜悪さを、最も愛し、最も嫉妬した相手に見透かされた絶望がそこにはあった。
もう、生きていることさえ恥ずかしかった。この綺麗な世界に、自分のような異物が存在していることが許せなかったのだ。
「お願い……持子……」
鮎は、見えない力に縛られたまま、首をもたげて持子を見上げた。その瞳には、狂気じみた懇願の色が宿っていた。
「私を……殺して。あんたの手で、私を終わらせて」
それが、彼女の望む唯一の救済だった。己を食い破ろうとする妖ごと持子に壊されるなら、この圧倒的な「美」と「力」に飲み込まれて消えるなら、それは至上の喜びだ。
「……」
持子は無言で鮎を見下ろしていた。
黄金の瞳が、静かに揺らぐ。そこには侮蔑も憐憫もなく、ただ深淵のような凪があった。
「……よかろう」
持子は短く告げると、ゆっくりと顔を近づけた。
長い黒髪がカーテンのように垂れ下がり、鮎の視界を覆う。
「え……?」
鮎が息を呑む間もなかった。持子の唇が、鮎の震える唇に重なったからだ。
「——んッ!?」
鮎の目が驚愕に見開かれる。殺されると思っていた。痛みが走ると思っていた。
だが、そこにあったのは——甘美なまでの、幸福だった。
脳が溶けるような熱。全身の神経が痺れるような快楽。
憧れ続けた持子の温度が、香りが、自分の中に侵食してくる。
(あぁ……幸せ……)
鮎の身体から力が抜けていく。恐怖も、嫉妬も、自己嫌悪も、すべてが白く塗りつぶされていく。
見開かれていた鮎の瞳が、ゆっくりと、安らかに閉じられていった。
口付けを終え、持子はゆっくりと唇を離した。その顔は、聖母のようでもあり、死神のようでもあった。
「——『死の接吻』。……わしの慈悲だ」
その言葉が、遠くから聞こえる鐘の音のように響いた。
鮎は、最後の力を振り絞って、うっすらと瞼を開けた。
そこに広がっていたのは、ホテルの天井ではなかった。
(……きれい)
黄金の世界だった。視界の全てが、持子の瞳と同じ、眩い黄金色に輝いていた。暖かく、どこまでも広がる光の海。
だが、その中心に——
(……あ)
見てしまった。黄金の輝きの奥底に鎮座する、底なしの「極黒」を。
それは、ただの少女ではない。時代を超えて血と欲望を啜り続けてきた、本物の「怪物」だった。
自分のような小悪党や、寄生する妖などが束になっても敵わない、絶対的な支配者。
(ああ、そうか……。私が怪物だなんて、思い上がりだったんだ)
本物の怪物を前にして、自分の存在が砂粒のように崩れていくのを感じた。
自我が、記憶が、感情が、そして心を侵蝕していた妖の呪縛さえもが、黄金と黒の渦に飲み込まれて消えていく。
(私が……消えていく……)
恐怖はなかった。あるのは、長い長い苦しみから解放される安堵だけ。
壊したかった自分が、跡形もなく壊されていく。
(やっと……死ねるんだ……)
本多鮎の意識は、黄金色の幸福の中で、プツリと途絶えた。
書き直し




