深夜のSOSと紅蓮の疾走
深夜のSOSと紅蓮の疾走
午前零時。
日本の首都、東京。その喧騒が嘘のように静まり返った、恋問持子の高級マンションの一室。
リビングを照らすのは、窓から差し込む僅かな月明かりと、最新型の空気清浄機が放つ淡いブルーのLEDランプだけだった。
最高級のレザーソファの上では、ピンク色の髪を散らした本多鮎が、持子の長い腕を抱き枕代わりにして、だらしなくも幸せそうな寝息を立てている。その足元のカーペットには、まるで丸まった仔猫のように、花園美羽が持子の膝に頭を擦り付けて眠っていた。
平和で、どこか甘やかな気の抜けた空気。
かつて長安を恐怖で支配した暴君・董卓の転生体である持子にとって、この「何事も起きない退屈な夜」こそが、今世で手に入れた最も愛おしい宝物でもあった。
だが、その平穏な空気を、鮎の影に潜んでいた吸血鬼の元女王・ルージュが突然打ち破った。
「……んんっ!? な、なんですの、この悍ましい気配は……!」
影からヌルリと這い出したルージュは、ブルブルと震えながら窓の外、帝都の中心地の方角を見つめた。
「た、大変ですわ! とてつもなく強大な怨霊……いえ、規格外の巨大な化け物が現れましたわ! 起きてくださいませ、持子様、鮎様、美羽様!」
ルージュは必死に持子たちの肩を揺すったが、深い眠りに落ちている三人は、微動だにしない。
「んぇ……むにゃ……楓ちゃん、もっとぉ……」
「……肉まん、うまうまですにゃ……」
「……ふははは……余の天下だ……」
「だぁぁぁっ! 誰も起きてくれませんわ!! 起きて! 起きてくださいませっ!」
焦ったルージュは、バシバシと持子の頬を軽く叩き、力一杯その身体を揺さぶった。
「……う、ん……。ルージュ、貴様……夜中に何の騒ぎだ……」
眠りを妨げられ、不機嫌極まりない声と共に、持子が微睡みの中から重い瞼を開く。
「ですから! 帝都の中心で、とんでもないバケモノが――」
ルージュが泣きそうな声で訴えようとしたその時、ガラスのテーブルの上に無造作に置かれていたスマートフォンが、けたたましい振動音を鳴らし始めた。
持子が白磁のような指先で画面をタップし、発信者の名前を確認した瞬間――持子の黄金の瞳から、睡魔と不機嫌さが完全に吹き飛んだ。
画面に表示されていたのは、『風間楓』の三文字。
普段、よほどの緊急事態でもない限り、あの孤高で毒舌な後輩から電話を掛けてくることなどあり得ない。
嫌な予感が背筋を駆け抜け、持子は通話ボタンを押した。
「……楓か? 何事だ。こんな時間に」
受話器を耳に当てた持子の表情が、徐々に険しいものへと変わっていく。
電話の向こうから聞こえてきたのは、いつもの冷徹で皮肉めいた声ではなかった。
鼓膜を打つのは、――あの修羅の巫女が初めて見せる、微かに震えるような、切実な息遣いだった。
『……先輩、助けてください。……今すぐ、大手町へ』
ブツッ、と。
一方的に通話が切れる。
その一言が、持子の中の「王」としての本能に、消えることのない業火を点火した。
「……起きろ、鮎、美羽。夜遊びの時間だ」
持子の低く、凄みのある声に反応し、鮎と美羽がバツンッと跳ね起きた。
状況を把握するのに数秒もかからなかった。持子の口から「楓からのSOS」が伝えられた瞬間、二人の脳内で何かが決定的に弾け飛んだ。
「楓ちゃんが、私を呼んでる……! 待ってて楓ちゃん、今すぐ助けに行ってあげるからぁっ!」
鮎の瞳に、狂戦士特有の昏いハイライトが宿る。傍らでは、ルージュが「ひぃっ、また夜のピクニックですの!? あんな得体の知れないバケモノのところへ行くなんて冗談ではありませんわ! せっかく楓様にいただいたパステルカラーの春服が血と泥で汚れてしまいます!」と悲鳴を上げている。
「うるさいですよルージュ! 楓ちゃんのピンチに駆けつけないなんて選択肢はありません! アンタの索敵魔法もフル稼働させますからね!」
「あうぅっ……! 扱いが雑ですわぁっ!」
「楓ちゃんのピンチですにゃ……! あの生意気でドSな後輩に恩を売れるチャンスですにゃぁっ!」
美羽は腰に巻いた特注の戦術ベルトに、五行と聖・闇の力を宿した『七本の属性短刀』が確実に納まっているかを確認し、獣のような笑みを浮かべた。
「行くぞ、お前たち! 鮎、車を出せ!」
「了解です、持子様!」
三人と一匹は一瞬にして戦闘用の衣服に着替えると、マンションを飛び出し、地下駐車場へと駆け込んだ。
そこに鎮座するのは、鮎が最近購入したばかりの、艶やかな真紅のボディを誇るマツダの新型CX-5。
エンジンが轟音を立てて目覚める。鮎の凄まじいドライビングテクニックによって、赤い車体は深夜の首都高を紅蓮の矢となって突き進み、完全封鎖された帝都の中心地・大手町へと猛然とダイブしていった。




