「汚れている」と泣く女を、魔王はどう裁くのか
何で、こんなに長くなるんだろう
スイートルームの空気が、重く、粘りつくようなそれに変わった。
「ひっ……! くるな、こないで……ッ!」
本多鮎は、シルクのバスローブを乱しながら後ずさった。
背中が冷たい窓ガラスに触れる。これ以上、下がる場所はない。
目の前に立つ恋問持子は、ただ静かに、実験動物を見るような冷徹な瞳でこちらを見つめていた。
(……ふむ。あの男たちを消し飛ばした時の感覚……まだ身体が覚えておる)
持子は自らの掌を見つめた。
自分の中に眠る、暴虐の魔王・董卓の魂。その記憶と力は確かにある。だが、この現代の少女の肉体で、その魔力をどこまで自在に操れるのか。何ができて、何ができないのか。
あの倉庫での戦いは、怒りに任せた暴発に近かった。
ならば、試さねばなるまい。
この、極上の被検体を使って。
「——捕らえよ」
持子が短く命じた瞬間。
グワシッ
「え……?」
鮎の足首が、何もない空中で「何か」に掴まれた。
見えない。何もいないはずなのに、確かに冷たく、強大な力を持った太い指のような感触がある。
「いやぁぁぁっ!? なに、なになに!? 離してぇぇッ!」
鮎が絶叫する。だが、その声は分厚い防音ガラスと壁に吸われ、部屋の外へは一ミリも漏れない。
持子は指先を指揮者のように振るった。
「騒ぐな。実験の邪魔だ」
その動きに呼応して、見えない『黒い霧の手』は鮎の身体を軽々と吊り上げ、部屋の中央に鎮座するキングサイズのベッドへと放り投げた。
ボフッ!
「がはっ……!」
「動くな」
さらに四本。新たな霧の手が出現し、鮎の両手首、両足首をベッドの支柱に強引に押さえつけた。
鮎には見えない。見えないからこそ、自分の四肢が勝手に縫い止められる現実に、根源的な恐怖が沸き上がる。
「い、いやぁ……! 何これ……? あんた、何なのよぉぉッ!」
「静かにせよと言ったはずだ」
持子はゆっくりとベッドに上がり、縛り付けられた鮎の身体に馬乗りになった。
そして、その顔を覗き込む。
至近距離。
震える鮎の瞳孔が開き、持子の黄金色の瞳と交差する。
(さて……次は『視る』ことだ)
持子は集中した。
あの倉庫の上役——単純な欲望で動く下衆の記憶を覗くのは容易かった。水たまりの底をさらうようなものだ。
だが、本多鮎はどうだ。
複雑に歪み、幾重にも仮面を被ったこの女の心。そう簡単にはいかない。
「……見せてもらおうか。貴様のその、腐りきった性根の奥底を」
持子の瞳が、妖しく輝きを増す。
魔力が視神経を通じて、鮎の脳髄へと侵入を開始する。
「あ……が……っ、や、やめ……」
鮎の身体が弓なりに反った。
痛覚ではない。もっと不快で、冒涜的な何か。土足で脳の中を歩き回られるような感覚。
(……硬いな。拒絶が強い)
持子は眉をひそめた。
鮎の精神は、強固な城壁に守られている。プライド、虚栄心、計算、嘘。それらが複雑に絡み合い、本心という核を隠している。
だが、持子は焦らない。魔王の覇気で、その防壁を一枚、また一枚と強引に剥がしていく。
(——見えた)
泥のような闇の奥。
そこに渦巻いていたのは、持子が予想していた単純な「憎悪」ではなかった。
『綺麗。綺麗。綺麗。悔しいくらい綺麗』
『壊したい。ぐちゃぐちゃにしたい。私の手で汚したい』
『ああ、持子ちゃん。大好き。愛してる。憎い。愛してる』
——愛。
それは、あまりにも歪で、ドス黒く変色した、狂気的な愛だった。
「ひっ……うぅっ……!」
鮎の目から、大粒の涙が溢れ出した。
見られている。
一番知られたくない、自分の醜悪な内臓をさらけ出されている。
(やめて……見ないで……ッ!)
鮎は心の中で絶叫した。
彼女は知っていた。自分が壊れていることを。
美しいものを愛すれば愛するほど、それを破壊衝動でしか表現できない自分。
本当は、ただ素直に「綺麗だね」と言いたかった。「友達になりたい」と言いたかった。
でも、できない。
自分が汚れているから。
嫉妬と自己嫌悪の泥沼に沈んだ自分が、光り輝く持子に触れれば、相手も汚れてしまう。だから壊すしかない。壊して、自分と同じ泥の中に引きずり下ろすしか、愛する方法を知らないのだ。
「……あ、あぁぁ……」
鮎の口から、漏れ出る嗚咽。
それは恐怖によるものだけではない。
愛する持子に、こんなにも気持ち悪い、膿んだ心を見られてしまった恥辱。
『嫌だ、見ないで! 私は汚い! 私は最低だ!』
『でも愛してる! 愛してるの! 誰よりもあんたを見ていたのは私なのに!』
『気づいてよ! 壊してよ! 私を裁いてよ!』
声にならない叫びが、持子の脳内に直接流れ込んでくる。
持子は、そのあまりにも重く、粘着質な感情の奔流に、わずかに息を呑んだ。
「……ほう」
持子は、見えない拘束を解くことなく、涙で顔をぐしゃぐしゃにした鮎の頬に、そっと手を触れた。
「……貴様、壊れておるな」
その言葉は、軽蔑ではなく、どこか奇妙な納得を含んでいた。




