世界の広さと、魔王の目覚め
世界の広さと、魔王の目覚め
静寂に包まれた部屋の中、極黒の魔王・恋問持子は、静かに黄金の瞳を伏せていた。
彼女の言葉を待つのは、ピンク髪の忠犬・本多鮎、そして美羽、楓、さらに鮎の足元の影に潜む吸血鬼の元女王ルージュである。
「……わしは、南仏コート・ダジュールで、世界の本当の広さを知った」
持子の低く、威厳に満ちた声が響く。
「リュクス・アンペリアルの撮影で、世界最高峰のスーパーモデルたちと並び立った時のことだ。 彼女たちの言葉は一切分からなかったが、その眼差しに込められた敬意や、技術の意図は野生の勘で完璧に読み取れた。 幼少期から叩き込まれた合気武道の身体操作で重心を数ミリずらし、海風を完璧に孕んでみせたのだ。 わしは孤独な王ではなく、数多の才能と美学が交差する中でさらなる高みへ行けるのだと悟った」
至高の推しを懸けた死闘
持子は一度言葉を切り、その瞳に暗い怒りの炎を宿した。
「だが、その撮影の合間の夜、あの純血の『真祖の吸血鬼』エティエンヌが来襲した。 奴は強力な魅了の魔眼で雪を操り、わしの至高の推しを人質に取りおったのだ。 雪の首筋に牙を突き立てる素振りを見せられた時、わしは一ミリも魔力を解放することができなかった。 雪の命を最優先するため、わしは一切の魔力を込めず丸腰で奴の城へ赴く決断を下したのだ」
影の中でルージュが息を呑む気配がした。 持子は構わず続ける。
「転移した先は、血と死の匂いが充満する完全なる異界の古城であった。 わしは極黒の魔力の手を展開し、群がる数百の下級吸血鬼や大悪魔どもを蹂躙した。 敵の心臓から魔石をえぐり出して噛み砕き、強引に魔力を補給しながら進んだが、消費する魔力の方が遥かに大きかった。 毒矢を浴び、肉体を削られ、視界が赤黒く染まり魔力が枯渇しかけても……誰も自分を愛してくれなかった孤児院時代から救い出してくれた、雪を守りたいという愛だけがわしを突き動かしていたのだ」
聖剣と、王の決断
美羽と楓が息を呑んで聞き入る中、持子はかつて激痛に焼かれた右手の記憶を思い出すように、そっと自身の掌を見つめた。
「最上階の玉座の間へ辿り着いた時、わしの魔力は完全に底をつき、床に倒れ伏していた。 エティエンヌは闇の眷属を灰にする猛毒、『魔殺しの聖剣』を振り下ろしてきたのだ。 だが、わしは合気武道の『四方投げ』で奴の巨体を大理石の床に叩きつけ、逆にその聖剣の柄を鷲掴みにしてやった」
持子の声が、微かに、しかし確かな熱を帯びて震えた。
「聖なる力で右手が焼け爛れる激痛に耐えながら、わしは刃を奴の心臓に深く突き立てた。 そのまま押し込めば、完全に灰にすることができた。 殺して、魂ごと喰らい尽くしてしまおうとした。 ……だが、わしは刃を止めたのだ」
「なぜですか、持子様……」と、鮎が痛切な声で小さく問う。
「雪の声が、脳裏に響いたからだ。 吹雪の阿寒湖の夜、化け物であるわしを力強く抱きしめてくれた雪の温もり。 そして、無数の命を奪った前世の暴君としての血塗られた過去……。 殺戮を繰り返すだけの化け物にはもう戻らないと誓ったのだ。 無意味な殺戮は、わしの愛する推しが悲しむゆえな。 だからわしは奴を殺さず、雪のいるホテルへ転移魔法で帰還する道を選んだ」
真の覇道
持子は顔を上げ、四人を真っ直ぐに見据えた。
「ホテルに戻り倒れ込んだわしは、鮎とルージュが自身の生命力すら削って捧げてくれた魔力の激流により、完全に回復することができた。 鮎、ルージュ。あの時は大儀であった。 そして美羽、楓。 よく聞いておけ。本当の王の力とは、ただ敵を破壊し尽くすことではない。 大切な者を守り抜き、己の暴虐な業を乗り越えることこそが、真の覇道なのだ」
極黒の魔王の瞳には、かつての暴君のようなどす黒い殺意はなく、ただ深く澄み切った、気高き王の光だけが宿っていた。




