『禍津神にならぬために』
『禍津神にならぬために』
社務所の静寂の中、恋問持子は湯呑みに残った冷めた茶を一気に飲み干すと、ふう、と白いため息を吐き出した。
その黄金の瞳が、今度は部屋の隅で静かに控えている黒髪の巫女――風間楓へと真っ直ぐに向けられた。
「楓。……ここからは、お前の話だ」
持子の声に、微かな緊張が走る。傲岸不遜な魔王の顔に、畏敬と、そしてほんの少しの呆れが入り混じった複雑な表情が浮かんでいた。
「一月十五日、小正月。わしらは雪に連れられ、年賀祈祷という名目でこの氷川神社へとやってきた。……だが、それは単なる祈願などではなかったな」
持子は自身の細い指先をじっと見つめる。
「わしの中に宿る三国志の暴君『董卓』の深すぎる業。そして、わしの極黒の魔力に当てられ、変質しつつあった鮎や美羽の闇……。それを制御し、わしらが『禍津神』へと堕ちるのを防ぐため、あの助平とかいう宮司が、わしらに修練を託したのだ。……日常の裏側に口を開ける『神域』を舞台とした、あの地獄のような修行をな」
持子はブルッと身震いし、己の両腕をさすった。
「楓。お前が初めてわしらの前に立ち塞がった時のこと……今でも思い出すだけで背筋が凍るわ。玉砂利の上を歩いているというのに、一切の音を立てない『無足』の歩法。上下動の全くない、武術の理を極めた完璧な重心移動。お前が舞った神楽は、一分の隙もない、まさに『暴力的なまでの美』であった」
持子の瞳孔が僅かに収縮する。あの時の圧倒的なプレッシャーを思い出し、声のトーンが一段低くなった。
「お前は、神に仕える身でありながら、一切の慈悲を持っていなかった。わしらが少しでも魔の道に堕ちる兆しを見せれば、その首を即座に刎ね飛ばす……。お前が突きつけてきたあの冷徹な『死の宣告』。あれは、紛れもない本物の修羅の眼だったぞ」
「……」楓は無言のまま、静かに持子の言葉に耳を傾けている。
「そこから始まった四つの神術修行。……永遠にも感じられる密度で叩き込まれたあの試練は、まさに己の魂を削り、組み直す作業であった」
持子はゆっくりと立ち上がり、語り始めた。
「第一の神術、【舞】。神楽舞を通じて、わしの中で荒れ狂う魔力を濾過し、整流する試練。あの時、わしのドス黒い闇の底に、初めて『白く輝く光の芯』が通ったのを感じた。極黒の魔力が、純粋な神術の種へと昇華された瞬間だ。……そして鮎、お前はわしの溢れる闇を受け止め流す『調律者』となり、美羽、貴様は光を掠め取り闇を逃がす『錨』としての役割に目覚めたな。わしら三人の魔力が、初めて完璧な循環を描いたのだ」
鮎と美羽が、誇らしげに、しかし当時の苦しさを思い出してか、少しだけ顔を引きつらせて頷く。
「だが、地獄はそこからだ。第二の神術、【禊】! あの極寒の滝行! 氷点下の滝壺に叩き落とされ、わしの完璧な美貌が凍りつくかと思ったわ! ……だが、あの死の淵で、わしの魂にこびり付いていた傲慢や依存、『肉体への執着』が物理的に剥ぎ取られていった。楓、お前が直接霊力を流し込んでくれたおかげで、わしらは宇宙の理と一体化するような『悟りの境地』を垣間見たのだ」
持子の顔に、深い精神性を帯びた、清廉な光が宿る。
「そして第三の神術、【刀】。真剣を用い、魂に根付く黄泉の繋がりを断ち切る実戦。……楓、お前が抜いたあの神話級の武器『生太刀』の恐怖は凄まじかった。わしの心に巣食う董卓の幻影が、死への恐怖としてわしを縛り付けようとした」
持子は右手を虚空に伸ばし、見えない柄を握るようにギュッと力を込めた。
「だが、わしは負けなかった。幼き日に高倉の爺さんから教わった合気武道、小樽で見た柳生新陰流の極致『合撃』! 己の中の亡霊を、恐怖ごと正面から斬り捨てたのだ! あの時、わしは前世の呪縛を断ち切り、新たな覇道を歩む『意志の刃』を確かに手に入れた!」
持子の声が熱を帯び、社務所の空気を震わせる。
「最後の神術、【鎮魂】。鎮守の森で、わしが過去に奪ってきた数万の亡霊が放つ業火に焼かれた。己の罪の重さに、心が押し潰されそうになった……。だが、わしはそれらを切り捨てるのではなく、『一生かけて背負う』と決めたのだ」
持子の瞳に、再び涙が滲む。
「業火の中で、わしは雪の幻影を見た。あの女は、わしのどんな罪も、どんなバケモノじみた業も、何一つ知らぬくせに『丸ごと肯定する』と笑ってくれた……! その絶対的な愛の記憶があったからこそ、わしは怨念を浄化し、負の歴史を力へと変える『真の器』へと至ることができたのだ!」
持子は両手を広げ、天井を仰ぎ見た。
「魔王、従者、巫女、そして雪……! あの修行を経て、わしらの絆は運命共同体として完全に一つに結ばれたのだ!」
圧倒的なカリスマと、感動的なまでの演説。
鮎も美羽も、そして話を聞いていなかったルージュまでもが、持子の気高さに涙ぐみ、恍惚とした表情を浮かべていた。
『董卓と李儒、再び』
夜の冷気が、静かに部屋を満たしていた。
恋問持子は、湯呑みの縁を細い指でなぞりながら、ゆっくりと黄金の瞳を伏せた。その横顔には、魔王としての圧倒的な覇気と、等身大の少女としてのどこか寂しげな影が同居していた。
「……さて。次は、花の都パリでの話だ」
持子の静かな声に、鮎、美羽、楓、そして……真紅のドレスを纏い、鮎の影から半分だけ身を乗り出している吸血鬼の元・女王、ルージュが息を呑んだ。
「阿寒湖の死闘を越え、わしらはリュクス・アンペリアルの招待で春のパリへと降り立った。そこでわしを待っていたのは、華やかなファッション界の頂点と……千年の時を超えた、深すぎる『業』の再会であった」
持子はゆっくりと顔を上げ、虚空を見つめた。その瞳の奥には、パリの絢爛豪華なレセプションパーティーの光景が映っているようだった。
「リュクスの若き女帝、エレーヌ・リジュ。あの純白のドレスを纏った女と目が合った瞬間……わしの魂は、激しく共鳴した。あやつの魂の最深部には、かつて三国志の時代、暴君・董卓であったわしに絶対の忠誠を誓い、共に破滅の道を歩んだ冷徹な軍師『李儒』が眠っていたのだ」
持子の口角が、微かに、自嘲するように歪んだ。
「あやつは、地下墓所での撮影の後、泥にまみれることも厭わず、わしの足元に平伏して泣き叫んだ。『私のすべては、あなた様のものです』とな。……正直に言おう。あの豊満で美しい体を抱き寄せ、再びわしの完全な支配下に置いて貪り尽くしてやりたいという、暴君としての衝動が確かにあった」
鮎がビクッと肩を震わせるが、持子はそれを意に介さず、言葉を続ける。
「だがな。わしは、あやつの魂を透かして見てしまったのだ。あやつがいまの地位を築くために歩んできた血塗られた道と、それを優しく照らし、人間の心を繋ぎ止めていた『テオドール』という純白の男の光を。……かつてわしのために毒杯すら煽った有能な忠臣が、千年の時を経て、ようやく見つけたささやかな女としての幸せ」
持子は自身の胸元をギュッと握りしめた。その顔には、魔王の威厳ではなく、誰かを愛し、守りたいと願う『真の王』の慈愛が浮かんでいた。
「だからわしは、己の欲望を殺した。あやつと額を合わせ、魂のパスを繋いで命じたのだ。『お前の心と権力は臣下としてわしが預かるが、女としての生はあの男にくれてやれ』と。……すべてを奪い、闇に引きずり込むだけの王など、とうの昔に卒業したのだ。少しばかり『玉座の孤独』を感じはしたが……あやつの涙を見た時、わしはこれで良かったのだと、心から思えたのだ」
持子の瞳から、強さと優しさが入り混じった光が放たれた。それは、孤児であった自分を救ってくれた雪の愛情を知り、仲間との絆を知った『恋問持子』だからこその決断だった。
「そして……」
持子は唐突に視線を鋭くし、鮎の足元の影から顔を出しているルージュを、ジロリと睨みつけた。
「そこのお前だ、ルージュ。パリの地下墓所の最奥で、血の匂いと古き威厳を撒き散らしていた吸血鬼の女王よ」
「ひぃっ……!」ルージュがビクッと体を縮ませる。
「あの地下空間で、お前は確かに絶世の美貌と強大な魔力を持っていた。だからこそ、わしは自ら手を下すのをやめ、鮎にお前を調教させ、屈服させるよう命じたのだ。お前のような強力な下僕がいれば役に立つと思ってな。鮎がお前に魔力を注ぎ込み、『ルージュ』という名を与えたあの契約の瞬間……わしは、新たな強力な手駒を得たと確信したのだ」
持子はハァ、と、今日一番の深大なため息を吐き出した。
「……だが、まさかお前が、三百年も地下に引きこもっていたネオン恐怖症のポンコツだとは思いもしなかったわ! 昼間は鮎の影に引きこもって荷物一つ持たず、レストランの案内をさせればケバブ屋に連れて行き、挙句の果てには鮎のパスを伝ってわしの極上の魔力までチューチューと吸い上げおって! なんという図太い寄生獣か!」
「あうぅっ……! も、申し訳ございません持子様ぁ……! でも、持子様の闇の魔力、本当に芳醇で美味しくて……」
涙目で言い訳をするルージュに対し、持子は呆れたように額を押さえた。しかし、その黄金の瞳には、かつてのような冷酷な殺意はない。
「まあよい。美羽、楓。お前たちにも、こんな騒がしい新しい『仲間』が増えたということだ。……リジュのような洗練された忠臣もいれば、お前たちやルージュのような手のかかるバカどももいる。だが、それが今のわしが統べるべき『世界』なのだ」
持子はゆっくりと立ち上がり、天を突くようにその白磁の腕を振り上げた。魔王の絶対的な覇気と、少女の輝くような笑みが、空間を支配する。




