『弁慶に完敗したので、本気で修行することにしました』
『弁慶に完敗したので、本気で修行することにしました』
華やかなスポットライトと、名門・早稲田大学でのキャンパスライフ。本多鮎の日常は、端から見れば順風満帆そのものだった。
しかし、夜の静寂に包まれた自室で、鮎の心は晴れることなく重く沈んでいた。
脳裏にこびりついて離れないのは、増上寺での光景。身の丈二メートルを超える怨霊・武蔵坊弁慶との死闘である。
『……ッ!? なんで、力負けするんですか……っ!』
あの時、鮎は極黒の魔力を乗せた渾身の一撃を放ったはずだった。魔力の絶対量と、狂戦士のような膂力には絶対の自信がある。だが、弁慶はただ岩融を一振りしただけで、鮎の攻撃を赤子のようにあしらい、容易く弾き返したのだ。
圧倒的な『武術』の壁。自分はただ、力任せに鉄塊を振り回しているだけの素人にすぎない。
そして何より鮎の心を深く抉っているのは、あの一戦で美羽に背負わせてしまった十字架だ。
(美羽はきっと……あの時、私が死にかけるギリギリまでトドメの一撃を入れられなかったことを、ひどく悔やんでいるはずだ)
弁慶の絶対的な防御空間。それを崩すため、結果的に鮎は自らの命を囮にしてしまった。己の不甲斐なさが、あの小さな背中に「仲間を殺しかけた」という重い自責の念を抱かせてしまったのだ。
ルージュの影の中には、強力無比な「デュラハンの大剣」や、戦利品として手に入れた弁慶の長刀「岩融」が眠っている。だが、今の自分にはそれを真に扱う術がない。
(このままでは、いざという時に持子様をお守りできない。それに……あの子にも、もうあんな思いはさせない。大剣や薙刀の扱いを根本から叩き込んでくれる、本物の『師匠』が必要だ)
ピンク色の髪を揺らし、鮎の瞳に昏い、しかし強烈な決意の炎が宿った。
***
「ハァッ……、シッ!」
深夜の裏路地に、鋭い風切り音と妖の断末魔が溶けて消える。
昼間は歌手として歌の稽古に励む花園美羽だが、その発声練習は、実は体内の魔力循環を精密に制御するための高度な訓練を兼ねていた。夜になれば風間楓の元で「妖退治のアルバイト」に身を投じる、血の滲むようなスパルタな日々を送っているのだ。
ドサリと崩れ落ちる妖を一瞥し、美羽は短刀についた穢れを無造作に払った。
「……遅いですぅ。もっと、もっと速く、確実に仕留めないと」
暗闇の中で、美羽は自身の戦いを冷徹に分析し、そして悔しげに唇を強く噛み締めた。
脳裏をよぎるのは、同じく増上寺での死闘。
風間楓直伝の歩法『無足』で死角に潜り込み、弁慶の霊核を破壊したあの一撃。結果だけ見れば奇襲は成功した。だが、その『隙』はどうやって生まれたのか。
(……私が近づけたのは、弁慶が鮎先輩にトドメを刺そうと、完全に攻撃へと意識を向けた、あのほんの一瞬だけだった……ッ)
鮎が死にかける、そのギリギリの瞬間まで、美羽は弁慶の防御空間に踏み込むことすらできなかったのだ。もし踏み込みがコンマ一秒でも遅れていれば、鮎の脳天は間違いなく叩き割られていた。
(私の力不足のせいで……仲間を、殺しかけたですぅ……)
冷たい汗が美羽の背中を伝う。
普段は「泥棒猫」「駄犬」と罵り合い、持子を巡って牽制し合う仲だ。しかし、あの死線で背中を預け合った時、美羽ははっきりと自覚してしまった。
自分にとって、本多鮎は決して失いたくない『本当に大切な仲間』なのだと。
愛する持子のため、そして大切な仲間のためと言いながら、結果的に仲間の命を囮にするような真似しかできなかった自分が、ひどく許せなかった。
だからこそ、もっと効率よく。確実に。他人の犠牲を前提としない『純粋な暗殺術』を極めねばならない。
「もう二度と、誰かが死にかけるのを待つような真似はしない……。持子さんの隣に立つため、皆を護るためなら、私は……本物の影になるですぅ」
闇夜に溶け込む美羽の瞳は、暗殺者としての極意を渇望し、冷たく、そして鋭く光っていた。




