『ひび割れた蓋』
最終幕:解放と次の戦いへの布石
「……我は……」
石段の上に倒れ伏していた源義経が、ゆっくりと目を開いた。
その澄み切った瞳には、先程まで渦巻いていた漆黒の怨念も、狂気に満ちた殺意も、もはや微塵も残っていない。ただ、長い悪夢から覚めたばかりの少年のように、静かで穏やかな光が宿っていた。
「……目覚めたか、天才剣士よ」
見下ろす持子の声に、義経は上体を起こす。
ふと横を見ると、仁王立ちのまま機能停止していた巨大な鎧武者がサラサラと光の塵となって崩れ落ち、その中から、本来の僧兵の姿を取り戻した武蔵坊弁慶の霊体がふわりと現れた。
『……我が君。どうやら我ら、永き呪縛からようやく解き放たれたようですな』
「……弁慶。お前も、正気に戻ったのだな」
主従は顔を見合わせ、憑き物が落ちたように深く、安らかな笑みを交わした。
そして義経は、目の前に立つ極黒の魔王――恋問持子を見上げた。
己の絶望と怨念を、その圧倒的なまでの『王の覇道』で真っ向からねじ伏せた少女を。
「……見事な王よ。貴女の言う通りだ。裏切られたからとて、世を呪い、剣を振るうなど……ただの癇癪にすぎなかった」
「ふん。分かればよい。貴様らの無念、この魔王が見事に断ち斬ってやったわ」
「ええ。……良き戦いであった。心からの礼を」
義経は深々と頭を下げた。
弁慶もまた、持子たちに向かって武人としての敬意を示すように一礼する。
やがて主従の身体は淡い光の粒子に包まれ、夜風に乗って、真っ直ぐに夜空へと昇天していった。悲運の天才剣士と絶対の忠臣は、数百年越しの呪縛から解放され、ついに安らぎの地へと旅立ったのだ。
⸻
パァァァンッ……!!
敵が完全に消滅したのを確認した瞬間、増上寺を覆っていた楓の『絶対隔離結界』が、ガラスの砕けるような心地よい音を立てて解除された。
「……ふぅっ」
石畳に突き立てていた生太刀をスッと消滅させ、風間楓は大きく安堵の息を吐き出した。滝のように流れていた汗を手の甲で拭い、ペタンとその場に座り込む。
「終わりましたか。……やれやれ、本当に手間のかかる先輩たちですね」
いつものようにクールに毒づく楓だったが、その声色には確かな安堵と、隠しきれない賞賛の色が混じっていた。
楓は、ボロボロになりながらも立ち上がった持子、鮎、美羽、そして影から這い出してきたルージュを見回し、ふいっと視線を逸らしながら呟いた。
「……とはいえ。あの伝説クラスの化け物相手によく持ち堪えましたね。頭は筋肉でできてるくせに、しぶとさだけは……まあ、立派なものです。少しは見直しましたよ」
「ふははっ! なんだ楓、もっと素直に褒めてもいいのだぞ?」
「……調子に乗らないでください、バカ先輩」
ツンとそっぽを向く修羅の巫女に、持子は愉快そうに笑い声を上げた。
その横で、鮎が弁慶の遺した巨大な長刀『岩融』をヒョイと持ち上げていた。
「これ、凄い魔力ですね。持子様、極上の戦利品ですよ。……おいルージュ、これあんたの『マイルーム(影の中)』に入れときなさい」
「ひぃっ!? 嫌ですわ! なんでそんな汗臭そうなオッサンの武器を、わたくしの神聖なクローゼットに入れなきゃいけないんですの!?」
「いいから入れろ! 晩飯抜くわよ!」
「ヒンッ……! わかりましたわよぉ!」
ルージュは涙目で自分の影を大きく広げ、ズズズ……と巨大な岩融を飲み込ませた。
そして、ハッと自分の姿を見下ろし、この世の終わりのような悲鳴を上げた。
「あぁぁぁぁぁっ!! わたくしの……わたくしの新作のシフォンドレスがぁぁっ!!」
先程までウキウキで着ていた赤い差し色のドレスは、結界での防御の反動や土埃でドロドロに汚れ、あちこちが破けてしまっていた。
「いやぁぁっ! 嫌ですわ! 誇り高き吸血鬼の女王たるわたくしが、こんなボロ雑巾みたいな姿で歩くなんて絶対に嫌ですわ!!」
ルージュは地面をバタバタと叩いて駄々をこねた後、ガバッと鮎の足元にすがりついた。
「鮎様ぁっ! お願いです、新しい服を買ってくださいませぇ! 今度はフリフリのついた、もっと可愛いお洋服がいいですわ! 買ってくれるまでテコでも動きませんわよ!!」
「うっさいですねぇ! 自分で汚したんでしょうが! ……チッ、まあ、防御魔法頑張ったご褒美に、明日ネットでポチってあげますから離れなさい!」
高飛車な貴族のプライドをかなぐり捨てて「服買ってぇ!」と可愛らしくおねだりするルージュに、鮎はやれやれとため息をつきながらも、まんざらでもない様子でその金髪をポンポンと撫でた。
「ところで楓ちゃん」
すりすり、と。いつの間にか持子の腕に猫のようにすり寄っていた美羽が、小首を傾げて尋ねた。
「さっき楓ちゃんが言ってた『将軍守護結界』って、なんなんですぅ? にゃあ」
「猫ですか。バカですか……はぁ、仕方ありませんね。持子先輩たちの脳みそでも分かるように、バカ向けに説明してあげます」
楓はパンパンと袴の埃を払いながら立ち上がり、指を一本立てた。
「東京の地下には『霊脈』という、オカルト的なエネルギーの巨大な水道管が通っています。その水道管には常にパンパンに圧力がかかっていて、放っておくと暴発して東京が霊的な大爆発を起こします」
「ふむふむ」
「そこで、徳川家康が江戸の町を作った時、水道管の要所要所に『分厚いゴムの蓋』をしました。それが増上寺をはじめとする『将軍守護結界』です。……で、今回の黒幕は、義経たちの怨霊を利用して、その『蓋』を物理的にぶっ壊そうとしたわけです」
「なるほど!」
持子はポンッと手を叩いた。
「要するに、その蓋が壊れたらヤバいから、楓が上から押さえつけて直してくれたのだな!」
「……まあ、ざっくり言えばそうです」
楓は深い疲労に肩をすくめた。
「とにかく、危機は去りました。私はもう魔力も体力も限界なので、帰って寝――」
ガシッ!!
背を向けて歩き出そうとした楓の襟首を、持子が容赦なく引っ掴んだ。
「馬鹿者! これだけ動いて、そのまま寝られるか!」
持子は豪快に笑い飛ばし、六本木方面の煌びやかな夜景をビシッと指差した。
「難しい話は後だ! わしは腹が減ったぞ! 今から焼肉に行く! もちろん、今夜はわしの奢りだ!!」
「ほ、本当ですかぁぁっ!? 持子さぁん、大好きですぅぅっ! 一生ついていきますぅにゃぁんっ♡」
極貧の美羽が歓喜の涙を流し、持子の腕に頬を擦り付けてゴロゴロと甘える。
「ずるいです泥棒猫! 離れなさい!」
鮎は犬のようにブンブンと幻の尻尾を振り乱し、「持子様! 私の真っ赤なCX-5でご案内します! さあどうぞ、後部座席へ! ワンッ!」とドアマンのように振る舞い始めた。
「わたくしも! わたくしも最高級の生肉をいただきますわよ!」とルージュも便乗して大はしゃぎだ。
「ちょっ、引っ張らないでください……っ! 私は本当に帰って寝た……あぁもう!」
修羅の巫女の抗議も虚しく、楓は完全に『焼肉ハイ』になった持子たちにズルズルと引きずられ、真っ赤なCX-5へと強引に連行されていくのだった。
⸻
――かくして、極黒の魔王とその配下たちによる、深夜の「鬱憤晴らしの悪魔狩り」は、最高級の焼肉というオチをもってドタバタと幕を閉じた。
だが。
誰もいなくなった増上寺の境内に、冷たい夜風が吹き抜ける。
激闘の痕跡が残る石畳。
その中心――かつて義経が立っていた場所には、楓の結界をもってしても防ぎきれなかった『修復不可能な深いヒビ』が、黒々とした口を開けて刻まれていた。
ヒビの奥底から、ジリ……ジリ……と、東京の地下に眠る別の『強大な何か』が目を覚ますような、不吉な霊的振動が漏れ出している。
蓋は、ひび割れた。
東京の霊脈全体を揺るがす大事件の幕開け。この結界の破損が、次なる最悪の怨霊――の封印を解き放つ引き金になることを、焼肉のことで頭がいっぱいの魔王たちは、まだ知らない。




