幸福な夜の、最悪の目覚め
第十七章:戦慄のモーニングコールと、トラウマのフラッシュバック
南仏コート・ダジュールの爽やかな朝。
チュンチュンと小鳥が鳴き、バルコニーからはサファイアブルーの地中海と眩い朝日が差し込む、最高級リゾートのスイートルーム。
持子は、極上の羽毛ベッドの中で、ふわりと心地よいまどろみから目を覚ました。
(魔法の薬の効果は完全に切れて、持子の肉体は元の絶世の美少女の姿に戻っている)
「んん……ふぁぁ……」
体を伸ばすと、心地よい疲労感と、それ以上に圧倒的な「達成感」が全身を満たしている。
昨夜の出来事が鮮明に蘇る。絶世の金髪美女。そして、吸血鬼の秘薬によって一夜限り復活した『男』としての本能と、すべてを解放した究極の絶頂。
「ふはははっ……。昨夜は、まさに夢のような一夜であった。やはり、美しい女を抱くのは最高だ。我が魔王としての覇道に、一片の悔いなし!」
持子は天井を見上げ、魔王としての威厳に満ちた(しかし最高にだらしない)笑みを浮かべた。
その隣で。
シーツに包まれた滑らかな肩が動き、金髪の美女がゆっくりと身を起こした。
「……ん、んん……。おはようございます、私の……王……っ」
とろけるような甘い声。昨夜、持子に徹底的に抱き潰されたことで、その美貌にはさらなる艶と色香が宿っている。
「おお、目覚めたか。昨夜はよく頑張ったな。お前のその体、隅々までわし色に染め上げてやったわ」
持子は機嫌良く、美女の輝くブロンドの髪を撫でた。
美女は、持子の胸に頬を擦り寄せ、幸福の絶頂にあるような潤んだ瞳で持子を見つめ上げた。
「ああ……愛しの持子……。あなたの『男』としての荒々しい愛、本当に、本当に素晴らしかったですわ……。体が、魂が、今もまだあなたの熱で震えております……」
「ふふん、当然だ。わしを誰だと思っておる」
得意げに胸を張る持子に対し、美女はさらに甘く、そして決定的な言葉を囁いた。
「これで、私たちは永遠に一つですね。……もう、私のことを拒絶したりはしませんね?」
「ん? 拒絶?」
持子は首を傾げた。初対面の女のはずだが、なんだか奇妙な言い回しだ。
美女は、愛おしそうに持子の頬に触れ、艶やかにウインクをした。
「……私ですよ。あなたの永遠の伴侶、エティエンヌです。あなたが『女なら抱く』と言うから……吸血鬼の秘薬で、あなた好みの『女』の姿になってきたのです。あなたに愛してもらえるなら、私はもう、一生この女の姿のままで構いませんわ……♡」
「…………え?」
ピシッ。
持子の思考回路が、音を立てて完全にフリーズした。
エティエンヌ?
あの、鬱陶しいストーカーの真祖吸血鬼(男)?
それが、この絶世の金髪美女?
ギリギリギリッ……。
持子の首が、錆びた機械のように動き、隣の美女の顔を凝視した。
昨夜、自分が大喜びで抱き潰し、あまつさえ『男』としてのすべてを注ぎ込んでしまった相手。
確かに、見た目は絶世の美女だ。今も完全に女の肉体をしている。
だが。
中身は。
あの。
男。
「…………っ」
サァァァァァッ。
持子の顔面から、一瞬にしてすべての血の気が引いた。白磁の肌が、死人のような青白さに変わる。
その瞬間、持子の脳裏に、かつてこの肉体に転生して間もない頃の『最悪のトラウマ』がフラッシュバックした。
自室のクローゼットの奥底に隠されていた、転生前のオリジナル持子が収集していた極悪な同人誌。
そこに描かれていたのは、前世の自分(董卓)と、自分を殺した裏切り者の猛将(呂布)が、男同士で汗だくになって絡み合うという、魔王のアイデンティティを根底から粉砕する地獄の光景だった。
あの時、持子はあまりのショックに泡を吹いて気絶した。
(わしは、中身は男……! そしてこいつも、外見は女になったとはいえ、中身は男……っ!! つまり昨夜のあれは、実質的に……っ!!)
「持子……? どうしたんだい、顔色が悪いよ。さあ、もう一度私を抱きしめて……」
甘く微笑んで、豊かな胸を押し付けながら腕を伸ばしてくるエティエンヌ(女体化)。
「ヒッ……!!」
持子は、ベッドから転げ落ちるように飛び退いた。
「ぎゃああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁッッ!!!」
南仏の爽やかな朝の空気を引き裂く、極黒の魔王の情けない絶叫。
それは、ホテル全体に響き渡るほどの凄まじい大音量だった。
「も、持子様!? 一体何事ですか!!」
隣の部屋で寝ていた鮎が、パジャマ姿のまま血相を変えてドアを蹴破ってきた。
その後ろからは、雪も慌てて駆けつけてくる。
「敵襲ですか!? それとも……えっ、だ、誰ですかその金髪の女の人は!」
鮎がベッドの上の美女を見て目を丸くする。
だが、持子には状況を説明する余裕など一ミリもなかった。
全身の毛穴から冷や汗が吹き出し、ガクガクと激しく震えながら、彼女は頭を抱えて叫んだ。
「あ、あ、あれは……っ! あいつは……中身が男だ……っ!! エティエンヌだぁぁぁッ!! これでは実質的に、男同士ではないかぁぁぁッ!!」
「えっ……エティエンヌ……!?」
鮎と雪が同時に固まる。
「嫌だああぁぁぁッ!! BL嫌だぁぁぁぁぁッ!! わしの純潔(男としての)を返せえええぇぇッ!!」
ドンッ!!
パニックの極致に達し、かつてのトラウマを完全に掘り起こされた持子は、もはや魔王としての威厳も忘れ、シルクのネグリジェを翻し、裸足のまま全速力でバルコニーの窓を蹴り破った。
「待ってくれ持子! なぜ逃げるんだ! 昨夜はあんなに激しく愛してくれたじゃないか!! 私の体も、すっかりお前に馴染んでいるというのに!!」
エティエンヌ(絶世の美女の姿)がベッドから飛び降り、シーツを体に巻きつけながら持子を追いかける。
「来るなああぁぁぁッ!! 気持ち悪いぃぃぃッ!!」
持子は南仏の青空へと、涙を撒き散らしながら猛スピードで逃亡していった。
「持子ォォォッ! 照れなくてもいいのに! 待ってくれぇぇぇ!」
愛に完全にバグり、一生女の姿で生きる覚悟まで決めてしまった真祖の吸血鬼が、その後を嬉しそうに追って空へ飛び立つ。
「ちょ、ちょっと持子様ぁぁぁッ!? 待ってください、私を置いていかないでくださいぃぃッ!! ていうか昨夜、持子様はその女と何をしてたんですかぁぁぁッ!?」
状況が半分しか飲み込めないまま、至高の推しの貞操の危機(?)と裏切り(?)にパニックになったピンク髪の忠犬も、バルコニーから飛び出していく。
「…………はぁ」
残された寝室。
雪は、乱れきったベッドと、空っぽになった部屋を交互に見比べ、深く、深くため息をついた。
影の中からヒョコッと顔を出したルージュも、かつての夫が「女になってまで愛を貫く」という究極の変態へと行き着いた姿に、もはや言葉を失い、無言で目を逸らしている。
「……とりあえず、リジュに連絡して、この部屋の窓とベッドのクリーニング代をあいつの城から請求してもらわないとね。……本当に、毎日胃薬が手放せないわ」
敏腕プロデューサーは、知的な眼鏡の位置を直し、淡々とタブレットを開いた。
太陽と青い海が輝くコート・ダジュールの空の下。
極黒の魔王の華麗なるバカンスは、前代未聞のトラウマのフラッシュバックと、情けなくも騒がしい全力逃走劇として、最高のオチを迎えるのであった。
(南仏コート・ダジュール編・完)
ひどい話だ




