その美貌は罪だった——代役に選ばれた瞬間、戦争が始まる
代官山の一等地に構える、芸能プロダクション『スノー』のオフィス。
洗練されたインテリアが並ぶ広々とした空間に、六月の柔らかな日差しが差し込んでいる。そこには、いつもの——少し奇妙な日常の光景があった。
部屋の中央に鎮座するのは、重厚な猫脚のアンティークソファ。深紅のベルベットが張られたその特等席は、所属タレントである恋問持子の「玉座」だ。
「……断る」
持子は優雅に脚を組み、不機嫌を絵に描いたような顔で言い放った。
身長百七十五センチ。白磁の如き肌と、この世のものとは思えぬ美貌。その内側には、かつて長安を恐怖と酒池肉林で支配した魔王・董卓の魂が宿っている。
「ちょ、ちょっと待ってください、持子さん!」
デスクから身を乗り出し、駆け寄ろうとしたのは、この事務所の社長兼マネージャーである立花雪だ。
だが、雪がソファから半径一メートルのラインに踏み込もうとした瞬間——。
グニッ
雪の足が、何もない空中で止まった。まるで透明なゼリーの壁に突っ込んだかのように、身体が前に進まない。
「……またですか。持子さん」
「寄るな! 雪、そこから一歩も動くではない!」
持子は必死の形相で、見えない『黒い霧』の手を操り、雪の進行を物理的にブロックしていた。この黒いモヤの手は魔王の魔力によるものだが、常人である雪には見えない。ただ「謎の圧力で進めない」という現象だけが起きている。
なぜこんなことをするのか。
それは——社長の雪が、持子にとって至高の『推し』だからである。
(ぬあああ……! 今日の雪の、あの困った眉の角度……尊い! 尊すぎる! ああ、その手に持ったファイルになりたい……!)
内心では萌え転がりながら、持子は表面上、冷徹な仮面を貼り付ける。
「もう……毎回毎回、この謎の空気抵抗やめてくださいって言ってるじゃないですか。進めないんですけど」
「やかましい! これは『結界』だ! 貴様の身を守るためのな!」
「はいはい、分かりましたよ。そこから話します」
雪は見えない壁にペシペシと手を当てながら溜息をついた。
「とにかく、聞いてください! 今かかってきた電話、すごいんですよ!」
雪の声が、興奮で裏返った。
「国内最大手、化粧品ブランド『ルミナス・ドロップ』の夏キャンペーン……そのメインモデルのオファーです! しかも撮影は一ヶ月後の七月、地中海のリゾート地でロケ!」
一瞬、時が止まった。
それは、弱小事務所にとって天地がひっくり返るようなビッグニュースだった。
本来予定されていたトップモデルが急病で倒れ、白羽の矢が立ったのが、業界で「美しすぎる暴君」と密かに囁かれていた恋問持子だったのだ。
「……ほう」
持子は紅茶のカップを持つ手が震えそうになるのを、必死に抑え込んだ。
(やった……! 地中海? つまり雪との新婚旅行ではないか!)
持子はニヤつきそうになる口元を隠し、尊大に頷いた。
「天がようやく、わしの美貌に追いついただけのことよ」
「はい、その通りです! ああ、もう信じられない……!」
「うむ。苦しゅうない。……で、ギャラでパンケーキタワーは何基建つ?」
平和で、幸福な時間だった。
しかし、その直後。
再び鳴った電話のベルが、全ての空気を凍らせることになる。
*
「はい、お世話になっております! ……え? ……はい。……えっ?」
受話器を握る雪の顔から、急速に血の気が引いていく。
震える指先。強張る表情。それを見た持子の胸に、どす黒い予感が渦巻く。
「……はい。……分かり、ました。一度、持ち帰らせていただきます」
電話が切れると、部屋には重苦しい沈黙が落ちた。
「……どうした、雪。顔色が悪いぞ」
「持子さん……。話が、変わりました」
雪は震える声で告げた。
「単独でのメインモデル起用……その話が、なくなりました。正確には、『ダブルキャスト』に変更したいと」
「ダブルキャストだと? わしの隣に誰ぞ並ぶというのか」
「……『ゴライアス・プロモーション』所属。本多鮎さんです」
その名を聞いた瞬間、持子の瞳がスゥッと細められた。
ゴライアス・プロモーション。業界のルールを金と力でねじ曲げることで有名な、超大手事務所。そして本多鮎は、そこに所属する期待の星であり、持子とは因縁の相手だ。
「あちらの事務所が、強引にねじ込んできたんです。『病欠の代役が、無名の新人一人では荷が重すぎる。うちの鮎とセットなら、CMの格も保てる』と……。断れば、この話自体を白紙に戻すと脅しに近い形で……」
「……ほう」
持子の口元に、冷徹な笑みが浮かぶ。
「あの小娘か。よほどわしが目障りと見える」
*
場所は変わり、港区の超高層ビル。ゴライアス・プロモーションの役員室。
そこには、ガラスに映る自分の姿を睨みつける本多鮎の姿があった。
「……ムカつく。本当に、ムカつく」
鮎は、持子の宣材写真を、親指の爪でギリギリと押し潰していた。
一見すれば「国民的妹」と称される可憐な容姿。だが今、その顔は嫉妬と憎悪で醜く歪んでいる。
鮎はずっと、持子が嫌いだった。
百七十五センチの、日本人離れした完璧なプロポーション。努力や計算では決して手に入らない、天性の圧倒的なオーラ。
百六十三センチの鮎が、ヒールを履き、愛想を振りまき、媚びて、枕営業スレスレの接待を繰り返してようやく手に入れた「一流」の座を、あの女はただそこにいるだけで脅かしてくる。
「私が一番なの。私が一番可愛くて、一番輝いてなきゃいけないのよ……!」
鮎は、持子の写真をゴミ箱に放り投げた。
「ねぇ、部長」
「なんだい、鮎ちゃん」
「あいつ、降ろしてよ。一緒の画面に映るのも虫唾が走る」
「ふふ、そう焦るな。まずは『格の違い』を教えてやるんだ。撮影まであと一ヶ月……たっぷりと可愛がって、向こうから『辞退させてください』と言わせてやればいい」
鮎の瞳に、昏い喜びの色が宿る。
「そうね。……徹底的に、潰してやる」
*
その日から、地獄のような一ヶ月が始まった。
まずは、噂の流布だ。
「恋問持子は枕営業で仕事を取っている」「元ヤンキーでスタッフを殴ったことがある」「薬をやっている」——根も葉もない噂が、SNSや業界の裏サイトで爆発的に拡散された。ゴライアスが抱える無数のボットと、鮎が裏アカウントで繋がっているインフルエンサーたちによる組織的な犯行だった。
次に、現場での嫌がらせ。
持子が別の雑誌撮影に行くと、用意されていた衣装が切り刻まれていた。
靴の中に画鋲が入っていた。
メイク道具が水浸しにされていた。
犯人は見つからないが、現場には決まってゴライアスの息のかかったスタッフが出入りしていた。
そして、雪への圧力。
スノーの事務所には、連日無言電話がかかり続け、雪が営業に行っても「ゴライアスさんの手前、お宅とは取引できない」と門前払いを食らい続けた。
——撮影まで、あと一週間。
スノーのオフィスは、深夜になっても電気が消えることはなかった。
アンティークソファの隅で、雪が小さく丸まって眠っている。
目の下には濃い隈ができ、肌は荒れている。手にはまだスマートフォンが握りしめられていた。
「……雪」
持子は、眠る雪の肩にそっとブランケットをかけた。
魔王の手が、怒りで震えている。
(わしを愚弄するのは構わん。だが……わしの雪を、ここまで憔悴させた罪は万死に値するぞ、本多鮎……!)
持子は、ここまで耐えてきた。雪が「絶対にこのチャンスを逃したくない」と言ったからだ。
だが、その雪が壊されては本末転倒だ。
翌日。撮影スタジオの楽屋裏。
撮影で一緒になった鮎が、誰もいない廊下で持子を待ち伏せていた。
「あら〜、持子ちゃん。なんか顔色悪いよ? 大丈夫?」
鮎は、毒々しいほどに鮮やかなネイルを見せつけながら、クスクスと笑った。
「ねぇ、もう諦めなよ。あんたみたいな弱小が、私と同じステージに立とうなんておこがましいのよ。さっさと辞退して、田舎の札幌にでも引っ込んだら? あんたのところの社長の雪さんだっけ? もうボロボロじゃん。あんたがいるせいで、雪さんが不幸になってるって気づかない?」
その言葉は、持子の最も痛いところを突いた。
持子の瞳が、黄金色に濁る。
廊下の温度が、急速に下がるのを感じた。
「……本多鮎。貴様、わしの雪を愚弄したな」
「はぁ? 何キレてんの? 事実でしょ」
「覚えおけ。貴様が仕掛けたこの戦、ただで済むと思うなよ」
持子の背後から、常人には見えない禍々しいオーラが噴き上がった。
鮎は思わず後ずさった。
(な、何よこれ……なんでこいつ、こんな状況でさらに綺麗になってんのよ……!?)
そう、持子は折れるどころか、逆境を糧にして、悲劇の女王のような妖艶さを増していたのだ。このまま並べば、自分が「引き立て役」になるのは明白だった。
「……っ、ふざけんじゃないわよ!」
鮎はヒールを鳴らして去っていった。だが、その背中は恐怖と焦燥に震えていた。
(許さない。絶対に、私が一番じゃなきゃ嫌だ! こいつが来るなら……)
その夜。
鮎は、人気のない地下駐車場にいた。
目の前には、黒塗りの高級車。後部座席のウィンドウがゆっくりと下がり、スーツを着た、見るからにカタギではない男が顔を覗かせた。
「……で? どうすりゃいいんだ、嬢ちゃん」
男の声は、砂利を噛むように低かった。
鮎は、持子の写真と、分厚い札束の入った封筒を男に差し出した。手は震えていない。彼女の嫉妬は、すでに恐怖や良心を超え、狂気へと変わっていた。
「この女。……撮影に行けなくしてほしいの」
「『行けなくする』ってのは、どの程度だ?」
「足の一本でも折れば、飛行機には乗れないでしょ? ……顔でもいいわ。二度とカメラの前に立てなくして」
男はニタリと笑い、封筒を受け取った。
「了解だ。……綺麗なお顔が台無しになるのは惜しいが、商売だからな」
闇の中で、本多鮎の歪んだ笑顔が月光に照らされた。
なりふり構わぬ悪意が、最終手段となって持子に襲いかかろうとしていた。
魔王と捕食者。二人の獣の戦いは、もはや芸能界の枠を超え、血なまぐさい領域へと足を踏み入れようとしていた。
*
撮影が押して深夜二時。
まばらな街灯が照らす路地裏に、赤提灯が一つ、頼りなさげに揺れていた。
雪の行きつけの居酒屋『赤煉瓦』。そこは、煌びやかな芸能界の喧騒から切り離された、二人の隠れ家だった。
「……んぐ、んぐ。ぷはぁ」
ジョッキを置く音が、やけに大きく響いた。
立花雪は、疲労で白く霞んだ視線を虚空に彷徨わせながら、ハイボールをあおっていた。その顔色は蝋人形のように蒼白で、目の下の隈はメイクでも隠しきれていない。頬はこけ、スーツの肩周りが以前より一回り緩くなっているように見えた。
対して、その向かい側。
恋問持子は、山盛りの唐揚げと焼き鳥を、ブラックホールのような勢いで吸い込んでいた。
「むぐむぐ……んんっ、店主! 軟骨の唐揚げ追加だ! あと焼きおにぎりもな!」
深夜の暴飲暴食。モデルとしてはギルティ極まりない行為だが、持子の美貌は揺らぐどころか、深夜の照明の下で真珠のような輝きを放っていた。魔王の代謝機能は、カロリーさえも美の燃料に変えるのだ。
だが。
持子がジョッキ(中身はウーロン茶)を置いた時、その黄金色の瞳が、ふと陰った。
(……雪。小さくなったな)
持子の心臓が、きりと痛んだ。
目の前の最愛の推しが、自分のために削れていく。本多鮎たちの執拗な嫌がらせ、理不尽な圧力、連日のトラブル対応。雪はここ一ヶ月、まともに眠っていないはずだ。
「……雪よ」
持子は箸を置いた。
その声の真剣さに、雪がぼんやりと顔を上げる。
「ん……? なんですか、持子さん。追加注文なら、もうしましたよ」
「違う。……このCMの話、降りてもよいぞ」
雪の手が止まった。
店内の喧騒が、二人の間だけスッと遠のく。
「……わしは、貴様がこれ以上すり減るのを見ておれん。たかがCM一本だ。わしの美貌があれば、次などいくらでもある。だから——」
「嫌です」
雪の返答は、即答だった。
短く、しかし鋼のような響きを持っていた。
「……雪?」
「絶対に、降りません。これは持子さんが掴んだ、正真正銘のチャンスなんです。あんな……あんな卑怯な連中に、私の大事なモデルの未来を潰させてたまるもんですか」
雪はグラスをドンとテーブルに置き、潤んだ瞳で持子を睨みつけた。
「私は社長で、マネージャーなんですよ。私が泥をかぶって、道を作る。持子さんは、綺麗なドレスの裾も汚さずに、ただ真ん中を歩いてくれればいいんです。……それが、私のプライドなんです」
酔いが回っているせいか、いつもの丁寧な仮面が外れ、雪の本音が溢れ出した。
その顔はやつれている。ボロボロだ。
けれど、持子の目には、これまでのどんな瞬間よりも美しく映った。
(ああ……。なんという、女だ)
かつて魔王として君臨した時代、数多の将を見てきた。だが、これほどまでに純粋で、強靭な魂を持った者がいただろうか。
持子は口元を緩め、愛おしそうに目を細めた。
「……そうか。分かった」
「分かってくれれば、いいんです」
「雪。貴様は……強くて、良い女だな」
魔王からの、最大級の賛辞。
それを聞いた雪は、驚いたように瞬きをし、それからふにゃりと——久しぶりに、笑顔を浮かべた。
「……ふふ。今頃気づいたんですか? 遅いですよ、持子さん」
*
会計を済ませ、店を出たのは深夜三時近くだった。
六月の夜風は湿気を含んで生温く小雨が降ってきた、アルコールが入った雪の体には心地よかった。
「あー、食べた食べた! 帰ったら即寝ですね……」
雪が伸びをした、その時だ。
キキーッ!!
耳をつんざくようなタイヤの摩擦音が、静寂を引き裂いた。
路地の手前に停まっていた黒いワンボックスカーが、猛スピードで二人の目の前に滑り込んできたのだ。
「え……?」
雪が状況を理解するより早く、スライドドアが勢いよく開いた。
中から飛び出してきたのは、黒いスーツを着た屈強な男たち——三人、いや四人。
「なっ——!?」
「きゃぁっ!?」
一瞬の出来事だった。
男たちの動きはプロのそれだ。悲鳴を上げる間もなく、雪の腕が掴まれ、乱暴に車内へと引きずり込まれる。
「雪ッ!!」
持子が叫び、手を伸ばした。
魔王の力を使えば、この程度の男たちなど指先一つでひねり潰せる。
だが——遅かった。
持子が構えるより早く、背後から別の男が持子の口を布で塞ぎ、その華奢な身体を羽交い締めにしたのだ。
「んぐぅぅ——ッ!!?」
「暴れるな、お嬢ちゃん」
野太い声と共に、強烈な力で車内に押し込まれる。
ドサッ、と雪の隣に転がされた瞬間、重たいドアが閉まる音が密室を作った。
「だ、して……っ! 誰……!」
雪の恐怖に震える声。
運転席の男が、無言でアクセルを踏み込む。
強烈なGがかかり、車体は闇夜へと走り出した。
窓の外、遠ざかる街灯の光が、まるで希望が消えていくように見えた。
車内には、男たちの荒い息遣いと、本革シートの冷たい匂いだけが充満していた。
まだまだあるよ。




