壁ドン失敗、壁にめり込む
第十三章:実力行使と、決して越えられない壁
南仏コート・ダジュールでのバカンス兼撮影も、あっという間に四日目の夜を迎えていた。
過酷な撮影スケジュールも後半戦に突入したが、持子の体力と魔力は無尽蔵だった。この日も完璧なポージングと圧倒的な覇気で現場を支配し、夕食には地中海の最高級フレンチをたらふく平らげ、彼女は極上の気分で自室のベッドに潜り込んでいた。
深夜二時。
波の音だけが微かに響く、静まり返ったスイートルーム。
持子が一人で眠る寝室のバルコニーに、音もなく「黒い影」が降り立った。
「……やはり、言葉や花束などという生ぬるい手段は、真祖たる私には似合わないのだ」
暗闇に溶け込むような漆黒のコートを纏ったエティエンヌは、赤い瞳をギラギラと血走らせながら、静かに窓の鍵を魔術で溶かして室内へと侵入した。
昨夜のプロポーズで完全なる玉砕を喫し、一時はこの世の終わりのような絶望を味わった彼だったが、自室の城で丸一日思い悩んだ末に、ある「吸血鬼らしい結論」へと至っていた。
(相手は、あの私を力でねじ伏せた極黒の魔王。ならば、私も夜の王としての本能に従い、力ずくで奪い取るまで! あの美しい四肢を鎖で縛り上げ、私の城の奥深くに幽閉し、永遠に私だけのものにしてやろう……!)
愛の告白が駄目なら、実力行使。
吸血鬼としての極めてシンプルかつ暴力的なプライドを取り戻したエティエンヌは、気配を完全に殺し、シルクのシーツに包まれて眠る持子のベッドへと近づいた。
月明かりに照らされる、無防備な白磁の肌と、艶やかな黒髪。
そのあまりにも神々しい寝顔に、エティエンヌはゴクリと生唾を飲み込んだ。
(ああ……やはり美しい。今夜こそ、お前を私の城へ持ち帰って……)
エティエンヌが、持子の細い腕を力任せに掴み上げようと、その青白い手を伸ばした――まさにその瞬間だった。
「……随分と、行儀の悪い男だな」
スッ、と。
眠っていたはずの持子の黄金の瞳が、暗闇の中で猛禽類のように鋭く見開かれた。
「なっ……!?」
驚愕で動きが止まるエティエンヌ。
その差し出された右腕の手首に、持子の白くしなやかな両手が、まるで蛇のようにふわりと絡みついた。
「貴様のような自己主張の激しい血の臭い、部屋に入ってきた瞬間から気づいておったわ」
「ば、馬鹿な! 私の隠密の魔術は完璧なはず……ッ!」
「隙だらけだ」
持子はベッドに横たわった状態から、下半身のバネと腰の捻りを爆発させ、エティエンヌの右腕を巻き込むようにして跳ね起きた。
幼少期より高倉師匠から骨の髄まで叩き込まれた、古流武術の極致――『合気武道』。
一切の力みがないまま、相手の筋と関節の可動域を完全にロックし、自らの回転の遠心力を相手の重心へとダイレクトに叩き込む。
「ガ、アァァァッ!?」
真祖の巨体が、持子の細腕によっていとも容易くコントロールされ、ベッドボードを飛び越えて空中で大回転した。
そのまま、大理石の床へと頭から真っ逆さまに叩きつけられる。
メキボキィッ!!
「グハァッ……!?」
床が陥没し、エティエンヌの鼻骨と頸椎が嫌な音を立てて砕けた。
だが、持子の追撃はこれだけでは終わらない。
眠りを妨げられた魔王の怒りは、昨日の「ケーキの邪魔をされた怒り」よりも遥かに深くて重いのだ。
「夜這いとは、随分と古典的で安い手段に出たものだな、吸血鬼!」
持子はベッドからふわりと飛び降りると、シルクのネグリジェを翻し、床で呻くエティエンヌの胸倉を掴んで強引に引きずり起こした。
「ま、待て……! 私はお前を、私の永遠の――」
「黙れ! わしはなまら眠いのだ!」
ドゴォォォォンッ!!
持子の右拳に『極黒の魔力』がドス黒いオーラとなって圧縮され、そのままエティエンヌの鳩尾に容赦なく叩き込まれた。
「ゴ、ボァァァァッ!!」
物理的な打撃に加え、魔王の純粋な魔力が体内を駆け巡り、不死身であるはずの真祖の内臓を内側から爆発させる。
エティエンヌの体は「く」の字に折れ曲がり、目から大粒の涙と血走った涙を吹き出しながら、部屋の壁まで一直線に吹き飛んだ。
ズドォォォォンッ!!
高級ホテルの分厚い壁に深々とめり込み、壁紙がパラパラと剥がれ落ちる。
「……ふん。口の減らない男だ。少しは懲りたか?」
持子は拳の骨をポキポキと鳴らしながら、壁に埋まったエティエンヌを冷酷に見下ろした。
一方、凄まじい破壊音を聞きつけ、隣の部屋から雪と鮎が血相を変えて飛び込んできた。
「持子様!! 一体何事ですか!?」
「ちょっと持子! だから壁は壊すなって言ったでしょう……って、またあいつなの!?」
ピンク髪を振り乱す鮎と、パジャマ姿で頭を抱える雪の視線の先には、壁に深々とめり込み、全身の骨を砕かれてピクピクと痙攣しているエティエンヌの姿があった。
愛の告白に続き、真祖としての誇りを懸けた実力行使すらも、持子の前では「ただの暴力による返り討ち」という、あまりにも一方的な蹂躙劇として終わったのである。
「ええい、鬱陶しい! 鮎、その不審者を窓から海へ投げ捨てておけ!」
持子が不機嫌そうに指示を出すと、鮎は「はいっ! 喜んで!」と腕まくりをした。
だが――。
壁にめり込み、ボロボロになったエティエンヌの様子が、どうもおかしい。
彼は血を吐きながらも、その赤い瞳を不気味に潤ませ、口元には歪で恍惚とした笑みを浮かべていたのだ。
「あ、ああぁ……っ。素晴らしい……。なんという、圧倒的な力……」
「……は?」
持子が怪訝な顔をする。
「拒絶される痛み……そして、この身を引き裂くような暴力……っ! すべてを力で支配してきた私が、こんなにも無力に、赤子のように蹂躙される悦び……ッ!」
エティエンヌは壁からズルリと抜け落ちると、砕けた手足を引きずりながら、持子に向かって熱に浮かされたように這い寄ってきた。
「もっと……もっと私を殴ってくれ、私の女王……! 君のその冷たい蔑みの視線と、無慈悲な拳が……私の魂を、どうしようもなく満たしてくれるのだ……ッ!」
「ひっ……!?」
持子は、全身に鳥肌が立つのを感じ、思わず数歩後ずさった。
ただのストーカーだと思っていた男が、度重なる暴力によって、まさかの『究極のドM』として完全に覚醒してしまったのだ。
「こ、こいつ、ガチで頭がおかしいぞ! 鮎! 早く捨てろ!」
「も、持子様! 私の『第一下僕』としてのアイデンティティ(変態性)が、この吸血鬼に脅かされそうです! 負けませんよ! ええい、この変態コスプレ男! 塩でも食らえ!」
鮎が慌ててエティエンヌの襟首を掴み、持子への忠誠心をアピールするかのように、彼をズルズルとバルコニーへと引きずっていく。
「ああ、持子……! 私の体は砕けても、君への愛は決して砕けない……! 明日も、明後日も……君に殴られるために、私は必ずやってくる……ッ!」
「二度と来るな変態ぁぁぁッ!!」
鮎の渾身のドロップキックにより、真祖の吸血鬼はコート・ダジュールの夜空へと、美しい放物線を描いて投げ捨てられた。
「……」
「……」
夜風が吹き込む寝室で、持子と雪、そして鮎の三人は、ただただ無言で顔を見合わせた。
「……雪。あの壁の修理代、あいつの城の資産から強制徴収できないか?」
「エレーヌ・リジュに連絡して、裏社会のルートで必ず請求書を送りつけてやるわ。……もう、本当に寝なさい、持子」
圧倒的な力を持つ魔王と、その暴力を「愛」として変換してしまうバグを起こした真祖の吸血鬼。
絶対に越えられない実力の壁は、結果として、エティエンヌの歪んだ恋心をさらに燃え上がらせるという、最悪の(そして最高に気持ち悪い)事態を引き起こしてしまったのだった。
ほんとうにキャラクターって暴走するんだよ




