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魔王、プロポーズを裏拳で返す

第十二章:三日目の夜、薔薇とケーキと玉砕のプロポーズ


南仏コート・ダジュールでの撮影、三日目。

この日も雲一つない快晴に恵まれ、持子の圧倒的な美貌と覇気はとどまることを知らず、撮影は順調すぎるほどのペースで消化されていた。

そして、夜。

最高級リゾートホテルのスイートルームには、今日も極上の平和と、甘ったるい匂いが漂っていた。


「ふはははっ! 見よ鮎! この『みるふぃーゆ』とかいうケーキを! サクサクの生地と、濃厚なカスタードクリームが何層にも重なり合っておる! 芸術的かつ、なまら美味なる絶品ではないか!」


「はいっ、持子様! お口の周りにクリームをつけながらミルフィーユを頬張る持子様、まるで無邪気な天使のようですぅ! さあ、こちらのマカロンのタワーも遠慮なく崩して召し上がってください!」


「うむ! 苦しゅうない!」


豪華なリビングのテーブルには、ルームサービスで頼んだ色とりどりの極上スイーツが所狭しと並べられている。食欲に極めて忠実な魔王は、黄金の瞳をキラキラと輝かせながら、両手に持ったフォークで次々とケーキを胃袋に収めていた。


「……二人とも、夜中にそんなに糖分を摂って、明日の撮影で吹き出物でも出たら承知しないわよ」


雪は呆れたようにため息をつきつつ、優雅にハーブティーのカップを傾けた。

一方、鮎の足元の影の中からは、吸血鬼の女王ルージュが顔だけを出し、優雅な手つきでティーカップを弄んでいた。


『ああっ、ずるいですわ! わたくしもそのマカロンというものを食してみたいですの! マスター・鮎、影の中に一つ、できればピスタチオ味のものを落としてくださいませ!』


「うるさいですね、寄生獣! アンタは私の魔力を吸ってるだけで十分でしょうが! どうしても食べたいなら、自分で這い出てきて食べなさいよ!」


『嫌にございます! 部屋の照明が明るすぎて、お肌に悪いですわ!』


そんな騒がしくも平和な女子会の最中だった。

スゥッ……。

開け放たれたバルコニーの窓から、甘く、そしてどこか芝居がかった冷たい夜風が吹き込んだ。


「――美しい夜だね、私の極東のミューズ」


バルコニーの大理石の手すりに、音もなく一人の男が舞い降りた。

中世の貴族を思わせる漆黒のコート。透き通るような青白い肌に、血のように赤い瞳。

一昨日、この部屋で雪を人質に取り、持子を自身の城へと拉致して死闘を繰り広げた、真祖の吸血鬼エティエンヌ・ド・ロシュフォール=ノクティスである。


「なっ……! エティエンヌ様!?」


影の中のルージュが、元夫の姿を見てヒッと身をすくませた。


「ちょっと不審者! 何度も何度も、勝手に人の部屋に入ってこないでください! 警察呼びますよ!」


鮎が立ち上がり、持子を庇うように前に出る。

だが、今日のエティエンヌは一昨日のような「冷酷な支配者」のオーラを放ってはいなかった。

彼は、自身を警戒する鮎や雪を一瞥だにせず、ただ真っ直ぐに、そして熱を帯びた赤い瞳で、ケーキを頬張っている持子だけを見つめていた。

しかもその両腕には、百本は下らないであろう、最高級の深紅の薔薇の巨大な花束が抱えられている。


「……おい。なんだ貴様、一昨日はわしにボコボコにされて心臓に風穴を開けられたというのに、まだ生きておったのか。しぶとい男よな」


持子はフォークを持ったまま、面倒くさそうに黄金の瞳を眇めた。


「ああ。君に開けられたこの胸の傷は、まだ塞がりきっていない。……だが、それ以上に、私の魂には君という名の消えない炎が刻み込まれてしまったのだ」


エティエンヌは夜の王子のごとき青白い微笑みを浮かべ、優雅な足取りで室内へと足を踏み入れた。


『え……? エティエンヌ様……?』


影の中で、ルージュが信じられないものを見るように目を瞬かせた。

かつて五百年間、冷酷無比な王として君臨し、自分にひれ伏す女しか見てこなかったあの高慢な真祖が。

今、自分を物理的に叩き伏せた女に向かって、まるで熱に浮かされた少年のように熱視線を送っているのだ。

エティエンヌは持子の目の前まで進み出ると、マカロンのタワーの横で、芝居がかった動作でバサリとマントを翻し、片膝をついた。


「――持子。極東の美しき魔王よ」


彼は深紅の薔薇の花束を恭しく差し出し、甘く、とろけるような声で囁いた。


「これまでの私の非礼を許してほしい。私は、君のあの圧倒的な力と、気高く美しい魂に、完全に心を奪われてしまった。……どうか、私のこの永遠の命と、夜の支配者の座を、すべて君に捧げさせてくれ」


完璧なプロポーズだった。

世界中のどんな女であっても、この美しき真祖の甘い言葉と薔薇を受ければ、一瞬で陥落するだろう。事実、彼はこれまでの五百年間、女に拒絶されたことなどただの一度もなかった。彼が望めば、すべてが手に入ったのだから。


「我が永遠の伴侶となれ、持子。君と共に、この世界を美しく支配しようではないか」


エティエンヌは、恍惚とした表情で持子からの「イエス」という返事を疑うことなく待った。

だが。


「…………」


持子は、無言のまま、手に持ったフォークでミルフィーユの最後の一切れを口に運んだ。

もぐもぐ、ごっくん。

そして、冷たい紅茶で口の中をさっぱりと洗い流すと、スッと立ち上がり、エティエンヌを見下ろした。


「……なまら鬱陶しいわ!!」


ドゴォォォォンッ!!


持子の口から放たれた容赦のない怒声と共に、極黒の魔力を帯びた無慈悲な『裏拳』が、エティエンヌの美しい顔面を捉えた。


「ブ、ガァッ……!?」


「わしは今、最高に美味いケーキの余韻を楽しんでおったのだ! なにが永遠の伴侶だ! 薔薇など食えるか! わしは美味しいご飯にしか興味はないわ!」


バキィッ! という鈍い音と共に、百本の最高級の薔薇の花束は粉々に弾け飛び、赤い花びらがスイートルーム中に吹雪のように舞い散った。

エティエンヌの巨体は、持子の一撃によってクルクルと錐揉み回転しながら吹き飛び、壁に激突してずり落ちた。


「お、おおぉっ! 素晴らしい裏拳です持子様!」


鮎が拍手喝采を送ろうと両手を挙げた。


しかし――。

壁際に崩れ落ちたエティエンヌの様子を見て、鮎の拍手はピタリと止まった。


「……あ、れ……?」


床に散らばった無残な薔薇の花びらの中で、エティエンヌは顔を覆ったまま、微動だにしなかった。

これまでの彼なら、怒り狂って反撃してくるか、あるいは高慢な態度で取り繕うはずだ。

だが、今の彼は違った。

顔を覆う青白い指の隙間から見えたその表情は、文字通り『この世の終わり』を見たかのような、凄まじい絶望に染まりきっていたのだ。


「な、なぜ……」


震える声が、静まり返ったスイートルームに漏れ出た。


「なぜだ……。私の愛が……私のすべてを捧げるという覚悟が……ただの『ケーキの邪魔』だというのか……?」


エティエンヌは、信じられないものを見るように、震える手で粉々になった薔薇の花びらをすくい上げた。

彼は、自分が断られることなど、微塵も想定していなかったのだ。

五百年の吸血鬼人生において、初めて抱いた本当の「恋心」。それを、これ以上ないほど無惨に、そして物理的に叩き潰された。


「ああ……私の、初めての恋が……」


エティエンヌの瞳から、一筋の血の涙がこぼれ落ちた。

それは、怒りでもなく、屈辱ですらない。ただ純粋に、心がへし折られた男の、深い、深い悲しみの涙だった。


「……」


持子は振り上げた拳を下ろし、少しだけ気まずそうに黄金の瞳を泳がせた。

鮎も、上げた両手をそっと下ろし、口をへの字に曲げている。

雪は眼鏡の奥の瞳を伏せ、影の中のルージュに至っては、あまりにも哀れな元夫の姿に、同情するように目を背けてしまった。

誰も、笑えなかった。


(……こいつ、ガチで本気だったんだ)


スイートルームの空気が、重く、気まずいものに変わる。


「……すまなかった。もう、邪魔はしない」


エティエンヌは、項垂れたままフラフラと立ち上がった。

そして、持子の顔を見ることもなく、ただ背中を丸め、虚ろな足取りでバルコニーへと向かう。


「待つよ、いつか君が振り向いてくれる日まで……なんて、今の私には言えそうにないな……」


彼は、絶望のどん底に突き落とされたような声でポツリと呟くと、そのまま力なく夜の闇へと溶けていった。

後に残されたのは、粉々に散った薔薇の花びらと、重苦しい沈黙だけだった。


「…………」


持子は、テーブルに残されたマカロンをジッと見つめたが、先ほどまでの旺盛な食欲はどこかへ消え失せてしまっていた。


「……えーっと、持子様。あの、とりあえず……」


鮎がおずおずと口を開く。


「……寝るか」


「はい。寝ましょう」


持子の短い言葉に、鮎は静かに頷いた。

雪も何も言わず、タブレットを閉じて立ち上がった。ルージュも無言で影の奥深くへと沈んでいく。

真祖の吸血鬼による、最高級の薔薇を使ったロマンチックな初恋のプロポーズ。

それは、あまりにも理不尽で、あまりにも残酷な形で粉砕された。

この夜、極黒の魔王とその仲間たちは、誰も笑うことなく、ただ静かにそれぞれの部屋のベッドへと潜り込んだのだった。


キャラクターって暴走するんだよ

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