勝者の余韻と、敗者の動悸
第九章:王の帰還と、癒やしの魔力
南仏コート・ダジュールの夜空に、禍々しくも美しい血の色の閃光が走った。
最高級リゾートのスイートルームのバルコニー。空間が歪み、光が収束した直後――。
「……っ、あ……」
ドンッ、と。
ボロボロに引き裂かれたドレスと、血と汗にまみれた恋問持子の体が、大理石の床に力なく崩れ落ちた。
「持子ッ!!」
「持子様ぁぁぁッ!!」
部屋の中で祈るように待っていた立花雪と本多鮎が、弾かれたようにバルコニーへと飛び出す。
「ああ、持子様……! なんてお労しいお姿に……ッ!」
鮎は持子の血まみれの体にすがりつき、大粒の涙をぼろぼろとこぼした。
白磁の肌には無数の傷が刻まれ、その右手は炭のように黒く焼け焦げている。どれほどの絶望的な死闘を、たった一人でくぐり抜けてきたのか。それは、彼女の凄惨な姿が何よりも雄弁に物語っていた。
「……ゆ、雪……無事か……?」
持子は虚ろな黄金の瞳を僅かに開け、掠れた声で呟いた。
「ええ、私は無事よ。あの吸血鬼が消えたことで、操られていたのも解けたわ。……バカね、自分の命をなんだと思っているの」
雪は持子の頭をそっと膝に乗せ、その頬についた血と泥をハンカチで優しく拭いながら、震える声で叱りつけた。プロデューサーとしての冷徹な仮面はとうに崩れ去り、ただ愛する娘の帰還に安堵する母の顔がそこにあった。
「ふ、ふん……。我が推しに指一本触れさせるものか……。あの化け物の心臓には、きっちりと風穴を開けてやったわ……」
持子は不敵に笑おうとしたが、限界を迎えた肉体はピクリとも動かず、そのまま意識を手放しそうになる。
「持子様、お眠りになる前に、どうか私の魔力をお受け取りください!」
鮎が涙を拭い、決意に満ちた顔で持子の体を抱き起こした。
「ルージュ! アンタも持てる魔力のすべてを出しなさい! 持子様を回復させるのです!」
『は、はいっ! わたくしの命の源である『真祖の血の魔力』、すべて持子様へ捧げますわ!』
鮎の足元の影から、吸血鬼の女王ルージュが姿を現し、自身の両手を鮎の背中へと添えた。
ルージュから鮎へ、そして鮎から持子へ。
主従の契約で結ばれた『魔力のパス』を通じて、膨大で純度の高い魔力が、激流のように持子の体内へと注ぎ込まれていく。
「な、に……これ……」
雪は、眼鏡の奥の瞳を大きく見開いた。
持子の焼け焦げた右手が、そして全身に刻まれた無数の傷跡が、淡い桜色の光と漆黒の魔力に包まれながら、みるみるうちに塞がり、再生していくのだ。
それは、現代医学の常識を完全に凌駕した、神秘的で、どこか恐ろしいほどの『奇跡』の光景だった。
「はぁっ……はぁっ……持子様、どうか……元のお美しいお姿に……っ」
鮎は自身の生命力すらも削るような勢いで魔力を与え続ける。ルージュもまた、顔を蒼白にさせながら必死に魔力を送り込んだ。
やがて。
持子の体からすべての傷が消え去り、白磁の肌がかつての神々しい輝きを取り戻したのを見届けると、鮎とルージュは糸が切れたようにその場に倒れ伏した。
「……よか、った……」
鮎は安心したような笑みを浮かべ、持子の隣で深い眠りに落ちた。ルージュも限界を迎え、ドロリと影の中へと溶けて消える。
外傷は完全に癒えたものの、持子自身もまた、精神的な極度の疲労からスヤスヤと寝息を立てていた。
静寂が戻ったバルコニー。
月明かりの下、雪は眠る持子の艶やかな黒髪を、愛おしそうに何度も、何度も撫でた。
極東の辺境で拾い上げた、孤独な孤児の少女。
それが今や、世界を股にかけ、本物の悪魔や吸血鬼と死闘を繰り広げ、自らの命を懸けて自分を守り抜いてみせた。
「……本当に、強くなったわね、持子」
雪は、誇らしさと、ほんの少しの寂しさが入り混じったような、どこまでも深い慈愛の微笑みを浮かべた。
「あんたの覇道……この私が、最後の最後まで特等席で見届けてあげるから」
波の音が静かに響く南仏の夜。
雪のその意味深な呟きは、誰の耳にも届くことなく、夜風に溶けて消えていった。
第十章:奇跡の朝と、王のおあずけ
翌朝。コート・ダジュールの空に眩い太陽が昇る頃。
「ふはははっ! なまらよく寝た! 腹が減ったぞ鮎! 朝飯だ!」
「はいっ、持子様! 私もなぜか絶好調です! ルームサービスで最高級のクロワッサンとオムレツを山ほど頼んでおきましたぁ!」
スイートルームの広大なリビングでは、昨夜の死闘と悲壮感が嘘のような、極めて騒がしい日常が繰り広げられていた。
驚くべきことに、魔力を完全に使い果たし、限界まで消耗していたはずの持子、鮎、そしてルージュの三人は、朝目覚めると共に『魔力が満タン』の状態まで完全回復していたのだ。
『ああっ、なんという爽快な朝にございましょう! 影の中から溢れ出すエネルギーで、わたくしのお肌もプルプルですわ!』
「なぜ一晩で回復したのかはさっぱり分からんが、まあよい! 力がみなぎっておるわ!」
持子たちの「魔力タンク」は規格外であり、通常であれば数日かけて食事や睡眠(あるいは秘密の儀式)で補給しなければならない。なぜこれほどの奇跡的な回復を遂げたのか、その理由は完全に謎であったが、細かいことを気にしない魔王と忠犬は「ラッキー!」の一言で片付けてしまっていた。
「……まったく。あんたたちのその底知れない生命力、本当にどうなってるのよ」
雪は呆れたようにため息をつきながらも、持子が無事に朝食を平らげている姿を見て、ホッと肩の力を抜いた。
その後、二日目の撮影は、雲一つない完璧な青空の下で行われた。
体調万全、魔力も覇気も最高潮の持子は、地中海の太陽すらも己の美貌の引き立て役にし、世界最高峰のスーパーモデルたちと見事な化学反応を魅せつけた。
「持子、今日のその視線、最高にクールね!」
「うむ! 言葉は分からんが、貴様も良い動きだぞ、金髪の女!」
言葉の壁を超え、美の頂点としての魂の共鳴。撮影は巨匠監督が涙を流して喜ぶほどの完璧なペースで、順調に消化されていった。
そして、その日の夜。
ホテルでの豪華なディナーを終え、スイートルームでくつろいでいた時のこと。
「さあ持子様! 撮影でお疲れでしょう! 今夜こそ、私とベッドで濃厚な魔力の交わり……いえ、マッサージを!」
鮎は桜色のネグリジェに着替え、目を爛々と輝かせながら持子にすり寄った。
しかし、持子はソファで優雅にハーブティーを飲みながら、冷たく言い放った。
「不要だ。今は魔力も満ちておるし、腹もいっぱいで性欲も湧かん。わしは一人で広いベッドで大の字になって寝る。貴様は自分の部屋へ戻れ」
「そ、そんなぁぁぁッ!!」
鮎は雷に打たれたような顔で、床に崩れ落ちた。
「昨日あんなに頑張って魔力を捧げたのにぃ! ご褒美の寵愛がないなんて、犬の生殺しです
ぅぅ! せめて、せめて足の裏だけでも舐めさせてください!」
「ええい、鬱陶しい! 寝る!」
持子は駄々をこねるピンク髪の忠犬を容赦なく部屋から追い出し、ガチャリと鍵をかけた。
「ふぅ。やはり、一人の静かな夜も悪くないな」
魔王は、誰にも邪魔されない極上の羽毛ベッドにダイブし、幸せそうに目を閉じるのだった。
第十一章:真祖の胸のときめき(ポンコツの始まり)
その頃。
南仏の闇の奥底に存在する、真祖の吸血鬼の城。
その玉座の間で、エティエンヌ・ド・ロシュフォール=ノクティスは、己の胸に刻まれた痛々しい火傷の痕――魔殺しの聖剣によって貫かれた傷跡に、治癒の魔術を施していた。
「……くっ」
傷は塞がりつつあるが、聖なる炎に焼かれた痛みがまだ微かに残っている。
だが、彼を苦しめているのは、肉体的な痛みなどではなかった。
『誰が、貴様のような薄っぺらい男の前に、ひざまずくものか』
目を閉じれば、あの極黒の少女の言葉が、声が、そして圧倒的な威厳に満ちた黄金の瞳が、鮮明に脳裏に蘇ってくるのだ。
エティエンヌは、五百年の永きにわたり、夜の頂点として君臨してきた。
彼が微笑み、魅了の魔眼を使えば、いかなる強者であろうと、いかなる高潔な聖女であろうと、たちまち自我を失い、彼に絶対的な愛と服従を誓ってひれ伏した。それが当然の摂理であり、退屈な日常だった。
しかし、あの少女――恋問持子は違った。
彼の絶対的な魅了をただの覇気で弾き返し、それどころか、天敵である聖剣を素手で握り潰しながら、彼を完膚なきまでに叩き伏せたのだ。
『答えろ、吸血鬼。雪は……無事なのか』
そして最後に見せた、ただの暴君ではない、愛する者を守るための深すぎる慈悲。
彼を殺さず、ただ傲岸不遜に笑って立ち去ったあの後ろ姿が、エティエンヌの網膜からどうしても離れない。
「……なんなのだ、あの女は」
エティエンヌは、己の胸に手を当てた。
ドクンッ。
聖剣に貫かれたはずの心臓が、奇妙なリズムで跳ねている。
それは、恐怖ではない。屈辱でもない。
五百年の間、ただの一度も鳴ったことのない、甘く、そして激しい動悸。
「私をゴミのように見下し、唾を吐きかけ、あまつさえ物理的にボコボコにした挙句、聖剣を突き立てるという極大の苦痛を与えてきたというのに……」
ドクンッ、ドクンッ。
「なぜだ……。なぜ私は、あの黄金の瞳に睨みつけられた時の、背筋が凍るような感覚を……あの、絶対的な王としての威厳を……もう一度、味わいたいと願っている……?」
エティエンヌの青白い頬が、微かに、しかし確実に赤く染まっていく。
これまで自分にひれ伏す女しか見てこなかった真祖の吸血鬼。
すべてを力で支配してきたはずの男が、初めて『自分を力と器でねじ伏せた絶対的強者』と出会ってしまった。
「ああ……なんという美しさ、なんという暴力。あの冷酷な眼差しが、この胸の奥を激しく焦がす……ッ!」
エティエンヌは、胸の傷跡を押さえながら、狂おしいほどに甘い吐息を漏らした。
間違いない。これは、吸血鬼の長い歴史において一度も経験したことのない感情。
「これが……『恋』、なのか……!?」




