魔殺しの聖剣と、王の決断
第八章:魔殺しの聖剣と、王の決断
「私の勝ちだ、極東の魔王。約束通り、お前たち三人は私の永遠の下僕となるのだ」
エティエンヌは勝利を宣言し、動けない持子へとゆっくりと死神のような手を伸ばした。
そして、彼は虚空から一本の「剣」をズルリと引き抜いた。
冷たい月明かりの下、その剣は異様なまでの清冽な光を放っていた。
純白の刀身には神聖なルーン文字が刻まれ、柄には教会の象徴たる十字が黄金で施されている。ただそこにあるだけで、周囲に充満していた血と死の匂いが浄化されていくような、圧倒的な「聖の気配」を持つ剣。
「……それは……」
血を吐きながら床に倒れ伏す持子が、黄金の瞳を険しく細める。
「美しいだろう? 『魔殺しの聖剣』だ。五百年前に、私を討伐しに来た教会の英雄から奪い取った、伝説級の代物さ」
エティエンヌは、その神聖な剣を自らの青白い手で軽々と弄んでみせた。
「本来ならば、吸血鬼や悪魔といった闇の眷属が触れれば、たちまち灰と化す猛毒の剣だ。だが……私は五百年の永きにわたり、独自の魔術と飽くなき探求によって、己の血の限界を書き換えたのだ」
彼は傲慢に微笑み、剣の切先を持子の顎へと向けた。
「私には、聖なる力への絶対的な抵抗力がある。十字架も、聖水も、そして忌まわしき『日光』すらも、もはや私を焼き殺すことはできない。私はただの真祖ではない。すべての弱点を克服した、夜の頂点に立つ『真の化け物』なのだよ」
絶望的な事実だった。
圧倒的な魔力と身体能力を持つ純血の真祖が、吸血鬼の天敵である聖の力や日光すらも克服している。それはもはや、物理的にも魔術的にも殺す手段が存在しない、完全なる不死身を意味していた。
「さあ、極東の魔王よ。選択の時だ」
エティエンヌはしゃがみ込み、持子の艶やかな黒髪を無造作に、そして力強く鷲掴みにした。
「ぐ、ぅ……ッ!」
「死か、それとも永遠の服従か。私に愛を誓い、その美しい首筋を差し出すのなら、命だけは助けてやろう」
頭皮が引き千切れるほどの力で髪を引っ張られ、持子の顔が無理やり上を向かされる。
魔力が完全に底をつき、指一本動かすことすらままならない。
全身の骨が悲鳴を上げ、視界は赤黒く明滅している。
だが――。
「……ふん。笑わせるな」
持子は、黄金の瞳に宿る絶対的な王の矜持を微塵も揺るがすことなく、エティエンヌの美しい顔を見据えた。
「誰が、貴様のような薄っぺらい男の前に、ひざまずくものか」
ペッ!!
持子の口から放たれた血混じりの唾が、エティエンヌの透き通るような青白い頬に直撃した。
「――ッ!!」
玉座の間に、凍りつくような沈黙が落ちた。
エティエンヌの頬を汚した赤い血の跡。数百年もの間、誰一人として彼に逆らうことなどなかった絶対的支配者にとって、それはこれ以上ない究極の侮辱だった。
「……愚かな小娘が。ならば、その首を刎ねて、ただの美しい剥製にしてやろうッ!!」
エティエンヌの端正な顔が怒りに歪み、激昂と共に「魔殺しの聖剣」が大きく振り上げられた。
空気を切り裂き、神聖なる刃が持子の細い首筋へと真横から迫る。
万事休す。
誰もがそう思う絶体絶命の瞬間。
(――今だ)
持子の黄金の瞳が、猛禽類のように鋭く光った。
魔力は尽きた。肉体も限界だ。だが、高倉師匠から幼少期より叩き込まれ、骨の髄まで染み込んだ『武術の理合』だけは、決して消えてはいなかった。
持子は、自身の髪を掴んでいるエティエンヌの「左腕」に対し、咄嗟に己の両手を添えた。
そして、掴まれた自身の髪の毛を、逆にエティエンヌの手ごと自身の頭部に「ピタリと押し当てて固定」したのだ。
「な、に……!?」
髪を引っ張る力が自分自身に固定されたことで、エティエンヌの左腕の関節は完全に可動域を奪われ、一本の硬い棒のようになった。
持子はその固定された左腕を軸にして、残された最後の筋力を爆発させ、独楽のように己の体を鋭く回転させた。
合気武道――『四方投げ』。
「ガ、アァァァッ!?」
相手の力と重心を完全に利用した、完璧な武の神技。
関節を極限まで極められたエティエンヌの巨体が、持子の回転の遠心力によって無重力のように宙を舞い、大理石の床へと背中から激しく叩きつけられた。
ドゴォォォォンッ!!
床が蜘蛛の巣状にひび割れ、エティエンヌの肺から空気が強制的に吐き出される。
その衝撃で、彼の右手から「魔殺しの聖剣」が弾け飛んだ。
「もらったぞ、化け物……ッ!!」
持子は倒れ込む勢いを殺さず、床を転がって聖剣の柄を鷲掴みにした。
ジュゥゥゥゥゥッ……!!
「あ、がぁぁぁぁぁッ!?」
柄を握った瞬間、持子の掌から凄まじい白煙と焦げた肉の臭いが立ち上った。
極黒の闇の魔力を持つ魔王の肉体にとって、高純度の聖なる力を宿すこの剣は、文字通りの猛毒。ただ触れているだけで、肉が焼け爛れ、骨まで溶かされるような言語を絶する激痛が襲う。
だが、持子は決して剣を手放さなかった。
「があぁぁぁッ! 舐めるな……! この程度の痛み……ッ!!」
持子は焼ける右手を両手で強引に押さえ込み、悲鳴を上げながらも、床に倒れ伏しているエティエンヌの胸ぐらへと飛びかかった。
「ば、馬鹿な……!? 闇の眷属が、なぜその剣を……ッ!! や、やめろ……!!」
驚愕と恐怖に見開かれる真祖の赤い瞳。
「死ぬのは、貴様だぁぁぁッ!!」
ズブッ!!
持子は全体重を乗せ、聖剣の刃をエティエンヌの心臓へと深く突き立てた。
「ガ、ァァァァァァァァァッ!!」
玉座の間に、真祖の吸血鬼の絶望的な断末魔が響き渡った。
いくら聖なる力への抵抗力を持っていようとも、魔殺しの聖剣を直接心臓に突き立てられれば、それは完全なる死を意味する。
エティエンヌの傷口から、純白の聖なる炎が激しく吹き出し、彼の不死の肉体を内側から焼き尽くし始めた。
「あ、がっ……! や、やめてくれ……! た、頼む……!」
かつて圧倒的な美と力で世界を支配した夜の王が、口から血の泡を吹きながら、無様に持子の腕を掴んで命乞いをした。
「私を、殺さないでくれ……! な、なんだってする……! 富も、権力も、永遠の命も……すべてお前にやる……! だから……っ!」
「……黙れ」
持子は荒い息を吐きながら、聖剣の柄を握る手にさらに力を込めた。
掌はすでに炭のように焼け焦げ、激痛で意識が飛びそうになっている。それでも、このまま刃を押し込めば、この鬱陶しい化け物は完全に灰と化す。
これほどの屈辱を味わわされたのだ。殺さなければ、魔王の矜持が許さない。
殺せ。
殺して、魂ごと喰らい尽くしてしまえ。
右手に力を込めようとした、その瞬間だった。
(『あんたのままでいいのよ。私が、全部受け止めてあげるから』)
ふと、脳裏に声が響いた。
阿寒湖の吹雪の夜。自分を優しく、力強く抱きしめてくれた、雪の温かい声。
そして、浮かび上がる顔。
「持子様!」と犬のように尻尾を振って笑う鮎。
「持子さん」「持子」「持子さまー」と生意気に笑うレオ、沙夜、美羽。
そして――正月の氷川神社で行った『鎮魂』の試練で見た、数万の「無辜の民の怨嗟」の顔。
前世の董卓として、己の欲望と怒りのままに無数の命を奪い、焼き尽くした、血塗られた過去。
あの地獄の業火の中で、持子は亡者たちの痛みを抱きしめ、涙を流して謝罪したのだ。
ただ殺戮を繰り返すだけの、暴虐な化け物にはもう戻らないと、そう誓ったのだ。
「……はぁっ、はぁっ……」
持子の手が、ピタリと止まった。
心臓の数ミリ奥、完全に命を絶つ直前の位置で、聖剣の刃が静止している。
「……な、ぜ……?」
エティエンヌが、虚ろな目で持子を見上げた。
極東の魔王の黄金の瞳には、かつての暴君のようなどす黒い殺意は消え去り、静かで、底知れぬほどに深く澄んだ光が宿っていた。
「……貴様を殺すのは、容易い」
持子は、ジュージューと音を立てて焼ける右手から、ゆっくりと力を抜いた。
「だが、今のわしは、ただ血に飢えただけの魔王ではない。無意味な殺戮は、わしの愛する『推し』が悲しむゆえな」
「推し……?」
「答えろ、吸血鬼」
持子は冷徹な声で、エティエンヌを見下ろした。
「雪は……わしから奪った、あの眼鏡の女はどうした。無事なのか」
聖なる炎に焼かれ、死の淵にあるエティエンヌは、力なく、しかし確実に頷いた。
「あ、ああ……。あの女は、置いてきた……。ホテルの部屋に、無傷のままで……残してある……っ」
「……そうか」
その言葉を聞いた瞬間、持子の全身から張り詰めていた糸がふつりと切れた。
雪が無事。
その事実だけで、持子にとってはすべての怒りも、殺意も、焼け焦げた右手の激痛も、どうでもよくなった。
持子は、エティエンヌの心臓から勢いよく聖剣を引き抜いた。
「ガ、ハァッ……!!」
聖剣が抜かれたことで、エティエンヌの肉体を焼いていた聖なる炎が徐々に鎮火していく。心臓を貫かれた重傷には変わりないが、真祖の回復力ならば、時間をかければいずれ元に戻るだろう。
カラン、と。
役目を終えた聖剣が、大理石の床に転がった。
「わしを、元の場所へ戻せ」
持子は、血と汗に塗れた顔を上げ、地を這う真祖に絶対の王命を下した。
「雪のいる、あのホテルの部屋へ。今すぐ、転移魔法でわしを帰せ」
「……な、ぜだ……。なぜ、私を殺さない……?」
エティエンヌは、自らの血の海の中で呻きながら、信じられないという目で持子を見上げた。
「私は、お前の大切な人間を、お前を殺そうとしたのだぞ……? なぜ、とどめを刺さない……っ」
持子は、ボロボロになったドレスの裾を引きずりながら、よろけつつもその場に立ち上がった。
そして、月明かりを背に受けながら、傲岸不遜に、かつてなく美しく微笑んだ。
「王の気まぐれだ。それに、貴様のような男は、死ぬよりも生きて屈辱を噛み締める方がお似合いだべ……いや、お似合いだ」
圧倒的な敗北。
力でも、そして王としての器でも、エティエンヌは極東の魔王に完全なる遅れをとった。
己のちっぽけなプライドが粉々に砕け散るのを感じながら、彼はもはや抗う気力すら失い、ただゆっくりと、魔法陣を描くために血濡れた手を持ち上げた。
「……君の、勝ちだ。極東の魔王よ」
玉座の間に、再び禍々しい血のような赤い光が展開される。
視界が閃光に包まれる中、持子の意識は、愛する至高の推しが待つ、あの海辺のホテルへと向かって、静かに暗転していった。
髪をつかまれたさい、この技はとても有効ですよー




