第9章 鹿児島 ― 再生 ―
南へ向かう列車は、川をいくつも渡って海に近づいた。
窓の向こうで雲がほどけ、光が低く差し込む。
鹿児島中央駅に降りると、空気は温かく、甘い土の匂いがした。
市電のレールが地面の光を拾い、遠くに桜島の影が浮かんでいる。
噴煙が細い線になって空へ溶け、見ているあいだにも形を変える。
止まらないものを見ていると、胸の奥の固まりが自然に崩れていく。
港へ歩く。
潮風が頬を撫で、船のロープが軋む音が規則正しく耳に入る。
桟橋の端に立ち、島を正面に据える。
大きなものの前では、言葉が先に疲れてしまう。
何かを説明しようとするほど、むしろ遠ざかる。
黙っていると、噴煙の白と海の青だけが残った。
そこに、呼吸のテンポがぴたりと合う瞬間がある。
港近くの古い宿を見つける。
木の階段は一段ごとに声を上げ、廊下の窓からは灰を含んだ風が入ってくる。
帳場の女将が湯のみを置き、当たり前の調子で言う。
「この島はね、昔から何度も噴くのよ。みんな知ってる。だから、洗濯物は外に干さないの」
笑って見せる顔に、長い時間がそのまま宿っていた。
変わらないものと、変わり続けるものが同居している生活。
そこに「生きる」という言葉の現物が置かれている気がした。
部屋に入ると、机と椅子が窓のそばに寄せてあった。
向こうに桜島。
薄いカーテンが呼吸のように揺れる。
ノートとペンを出す。
ページの白さが、ここではやけに強い。
線を引くだけで空気が変わる。
書く前の沈黙が、書く行為の一部になっている。
「書くことが、俺の生き方だった」
言葉にすると安っぽくなるのが怖かったが、怖れを抱えたまま、ゆっくりと書く。
青森の白、函館の潮、京都のざわめき、広島の静かな灯、そして高知の風と熊本の泥。
断片が互いに手を伸ばして、一本の道に並び直る。
旅は地図の線ではなく、体の内側でつながっていたとわかる。
夜、机のランプだけを点ける。
外の音は遠く、紙の上のペン先の擦れる音だけが近い。
日記を書いているつもりはないのに、文字は過去の出来事をたどり、いつの間にか他人の話になっていく。
疲れて会社を辞めた男が、北へ向かい、雪の駅に立ち、海の町で言葉を拾い、喧騒の中で自分の輪郭を見直し、痛みを抱えて歩き、孤独を自由に変え、旧友と再会して赦しを覚え、雨の町で泥を運び、そしてここで書いている。
気づく。
書いているのは「自分」ではなく、「同じように疲れた誰か」だ。
誰かのために書くわけではないのに、いつのまにか“誰か”が読み手の席に座っている。
読み手は他人かもしれないし、未来の自分かもしれない。
どちらでもよかった。
文字は灯りのように置かれ、夜の中で必要とする誰かが勝手に見つける。
手を止めて窓を開ける。
灰を含んだ風の匂い。
島の暗がりに、かすかに赤い点が瞬いた気がした。
山が息をしている。
危うさと暮らしが同じ場所にある。
ここでは、明日が来ることに保証はない。
それでも人は洗濯物の干し方を工夫し、バスの時間を覚え、朝にパンを焼く。
明日があいまいな場所ほど、今日の形ははっきりする。
そのはっきりした今日の端に、文字を置いていく。
線と線が絡まり、行が重なり、ページの重みが増していく。
書いているあいだだけ、体の中心が温かい。
温かさは理屈ではなく、ただの物理で、言い換えれば「生きている」という事実の側だ。
深夜、眠気と興奮の境目で言葉が細くなる。
最後の一行を探すのをやめ、ページを閉じる。
胸の奥で、何かが静かに着地した。
長い間漂っていたものが、ようやく許可を得て座ったみたいに。
ランプを消すと、部屋はすぐ暗くなる。
暗闇は怖くなかった。
暗闇があるから、朝は前から歩いてくる。
夜明け前、鳥の声で目が覚めた。
薄い青が部屋に滲み、港のほうから低い汽笛が聞こえる。
机に戻り、ノートを開く。
新しいページの上で、ペン先が躊躇しない。
> 「生きるとは、書き続けること」
書いた瞬間、言葉の軽さが怖くなる前に、別の行を重ねる。
> 「書き続けるとは、今日を受け取ること」
窓の外に朝日。
桜島の稜線が光を縁取る。
島がはっきりするのと同じ速度で、内側の景色も輪郭を取り戻す。
心臓がいつもより少し大きく打ち、その拍に合わせて肺が仕事を思い出す。
数日後、ノートをバックパックにしまう。
指先にインクの痕が残り、爪の際に薄い灰の色が残る。
港に立ち、風に目を細める。
もうここにとどまる理由も、急いで出る理由もない。
駅へ向かう道で、自販機の缶コーヒーを買う。
初日の朝と同じ手つきなのに、味は違っている。
舌ではなく、喉の奥で温度を確かめる。
鹿児島中央駅のホームで、行き先の表示を見上げる。
東京。
出発点に戻るのは、敗北ではない。
始まりが別の顔をして迎えてくれる保証はないが、こちらが別の足で立っている。
切符を手に、列の最後尾に並ぶ。
発車ベル。
車体が微かに身じろぎし、レールが光を滑らせる。
座席に腰を下ろし、ノートを膝に置く。
余白に一行だけ足す。
> 「旅は終わらない。書くかぎり、どこにいても。」
ページを閉じる。
窓の外で、島がゆっくり遠ざかる。
噴煙は細く、しかし確かに上へ。
心臓も同じ方向へ打っている。
列車は北へ向かう。
理由はもう、あとでいい。
いまはただ、続ける。




