第8章 熊本 ― 喪失 ―
博多から南へ向かう列車は、山と川の間を縫うように走った。
窓の外に濃い雲が垂れこめている。
季節は梅雨の終わり、雨の匂いが車内まで入り込む。
車輪の音が一定の間隔で耳に落ちてくるたび、胸の奥で小さな波が立っては消える。
熊本駅に着いたとき、雨脚はさらに強くなっていた。
傘を開く間もなく、肩口まで濡れる。
駅前の通りを抜けると、川のほうから警笛の音が聞こえた。
土砂崩れの恐れで通行止め、と警備員が叫んでいる。
通り過ぎる人々の顔に、焦りよりも慣れが見えた。
ここでは、自然と人の間に常に薄い膜があるのだろう。
宿を探して歩き始めたが、途中で列車が止まったというアナウンスが耳に入った。
足を止め、商店の軒下で雨宿りをしていると、見知らぬ青年が声をかけてきた。
「避難所、あっちです。電車止まってるなら、今夜は無理ですよ。」
案内されたのは体育館だった。
床には毛布が並び、段ボールで仕切られた小さな区画がいくつもある。
濡れた靴を脱いで座ると、青年がペットボトルの水を差し出した。
「俺、農家なんです。畑がちょっと流れちゃって。」
それを言いながら笑っている。
「また植えりゃええですよ。生きてりゃ、また芽が出ますけん。」
その言葉が、薄暗い空間の中で不意に光を放った。
誰の慰めにも聞こえず、ただ実感のある声だった。
夜が深まると、天井の蛍光灯が一つずつ落とされ、体育館が静かになった。
人の寝息が重なり合う音。
窓の外で雨が続いている。
主人公はノートを開き、「失う」とだけ書いた。
文字の下にしみが広がっていく。
インクなのか、湿気なのか、自分でもわからない。
翌朝、雨は上がっていた。
外に出ると、空気が洗い立てのように澄んでいる。
町の通りでは人々が泥を掻き出していた。
スコップの音があちこちから響く。
青年に手招きされ、主人公も泥を運ぶ。
黙々と働きながら、汗と泥の混ざる匂いの中に不思議な安堵を感じた。
人と並んで何かをすることが、こんなにも静かに心を落ち着かせるとは思わなかった。
昼過ぎ、太陽が顔を出した。
屋根の上で光が跳ねる。
青年がスコップを立てて空を見上げた。
「人間って、しぶといですよね。」
彼の声には疲労も笑いも混ざっていた。
主人公は頷いた。
「しぶとい、か。」
言葉を口の中で転がす。
重さよりも、確かさの方が勝っている。
その日の夜、仮設の宿に戻った。
停電が復旧し、明かりが灯る。
机の上にロウソクの残骸が残っている。
炎が溶かした形のまま、ろうが固まっているのが綺麗だった。
ノートを開き、少し考えてからペンを取る。
> 「失うことで、人は人に触れる。」
> 「喪失は、誰かの手を取るための余白だ。」
文字を書き終えると、胸の奥が少し温かくなった。
言葉は小さな灯りのように、夜をほんのわずか照らしていた。
外から風が入る。
カーテンが揺れ、部屋の空気が動く。
世界はまだ壊れていない。
壊れていないということは、生きているということだ。




