第7章 福岡 ― 再会 ―
高知を離れた列車が北へ向かうあいだ、窓の外は山から町へ、町からまた海へと形を変えた。
博多駅に着くと、空気が一気に密になる。
人の声、車のクラクション、エスカレーターの電子音。
身体のどこかが都会の速度を思い出し、同時に少し怯える。
改札を抜けると、ポケットの中でスマートフォンが震えた。
画面に見慣れた名前が出る。
――里村。
かつての同僚。
〈今、福岡。
もし時間があれば〉
文章は短いのに、過去が急に厚みを持った。
逃げる理由は薄く、会う理由はひとつで足りる。
返信を打ち、待ち合わせ場所を決めた。
夕方、川沿いの居酒屋。
小さな提灯の赤が水面に揺れている。
引き戸を開けると、奥の席に里村がいた。
目が合う。
変わっていないようで、どこか疲れの質が変わっている。
「おう。」
声は短く、けれど温度があった。
向かい合って座る。
氷の入ったグラスが運ばれ、テーブルに置かれる音が妙に大きい。
最初は近況の交換だけ。
天気、部署の人事、共通の知人。
話題が一周したあと、里村が箸を置いた。
「抜けたあと、大変だったよ。正直に言うとさ。でも、あのまま続けてたら、お前が先に壊れてたと思う。」
責める響きはなかった。
事実だけが、こちらに届く。
「俺、あの頃は何に怒ってたのかな。」
自分でも驚くほど素直な声が出た。
「多分、自分じゃない? 評価とか、制度とか、誰かの顔してたけど。」
里村は笑った。
少しだけ、昔の飲み会の空気が戻る。
「……そうだな。」
口に出してみると、頬の筋肉がゆるむ。
需要のない正しさで自分を守り続けていた日々が、遠くの建物みたいに小さく見えた。
店を出ると、雨が上がっていた。
中洲の屋台が灯をともしている。
湯気が白く立ち、見知らぬ人々の笑い声が道にこぼれていく。
里村と並んで歩き、やがて信号で別れた。
「元気で。」
「お前も。」
短い別れは、長い余韻を残す。
手を振る代わりに顎を上げ、互いに向きを変える。
ひとりになって屋台街に入る。
カウンターの端の席に腰を下ろすと、店主がタオルで手を拭きながら言う。
「一人旅?」
「ええ。」
「いいね。人はさ、一人のときの顔が一番いい。」
意味を問う前に、どこかで了解している自分がいた。
器に注がれたスープから湯気が立ち上り、鼻腔の奥に塩気が広がる。
隣の客が誰かに近況を話している。
声は途中で千切れ、断片だけが耳に残る。
世界は他人の物語で満ちていて、こちらはその外側で温まっている。
川沿いの風が少し冷たくなった。
屋台を離れ、橋の上で立ち止まる。
濡れた舗道に街灯が二重に映っている。
手すりに触れると、金属が雨の名残を保っていた。
胸の奥で、何かがゆっくりほどけていく。
赦す、という言葉が浮かぶ。
誰を。
自分を。
「許されたのは、俺じゃない。許せるようになった俺のほうだ。」
声に出さずに言うと、呼吸が深くなった。
過去は減らないが、軽くなることはある。
背負い方を替えれば、同じ重さでも歩ける。
翌朝、博多港。
フェリーの甲板に人が並び、遠くで汽笛が鳴る。
売店の前で切手を買い、封筒を取り出す。
昨夜、宿で書いた手紙――「俺はまだ、生きている。」の一文だけの報告。
ポストの口に差し入れると、金属の中で紙が落ちていく音がした。
見えない場所へ届く音。
港の風が強まる。
桟橋が小さく軋み、船がロープを引きながら身じろぎする。
誰かがどこかへ向かい、誰かが帰ってくる。
世界は往復運動でできている。
こちらは、その間で呼吸を合わせるだけでいい。
駅へ戻る道、信号待ちの人々の背中を見ていると、不思議と孤独を感じなかった。
誰もこちらを知らない。
だからこそ、こちらも自由だった。
ホームに上がり、電光掲示板を見上げる。
行き先の文字が規則正しく入れ替わる。
どれでもいい気がしたし、どれでもよくなかった。
ノートを開き、余白に一行だけ書く。
> 「過去は連れていく。けれど、選ぶのはいつもこれからだ。」
ページを閉じる。
発車ベルが鳴る。
列車が動き出す。
窓に映った街がゆるみ、川が離れていく。
胸の奥で、昨日よりも軽い音で心臓が打った。




