第6章 高知 ― 孤独 ―
広島を出た翌朝、列車は瀬戸内海沿いをゆっくりと走っていた。
窓の外では光が柔らかく揺れ、海と空の境界が曖昧になる。
車両の中はほとんど人がいない。
手すりの金属が陽を受けて、かすかに温かい。
途中の駅で乗り換えると、線路は山に向かって進み、やがて視界が一気に開けた。
太平洋。
大きな空。
風が違う匂いをしている。
誰かの生活の気配が途切れたあとの静けさ。
窓を少し開けると潮の香りが入り込み、喉の奥に残る。
高知駅に着いたときには、陽が傾き始めていた。
宿を決める前に、地図を見ずに歩く。
商店街を抜け、川沿いの道を下り、海が近いことだけを頼りに進む。
灯りの数が減っていき、空の青が濃くなる。
やがて住宅が途切れ、漁船が並ぶ小さな港に出た。
「泊まるとこ、ないのか?」
背後から声がした。
振り向くと、腰の曲がった老人が立っていた。
手には漁網。
「ええ、探してるところです。」
「うちに空き部屋がある。たいしたもんじゃないが。」
老人はそう言って、先に歩き出した。
断る理由も思いつかず、ついていく。
家は海辺のすぐ近くだった。
古い木の引き戸の向こうに、囲炉裏の火が見える。
「好きに使え。夜は冷えるからな。」
そう言って、老人は火のそばに座り込んだ。
「ずっとここで?」
「生まれてから、ほとんど。漁ができる間は生きてるってことさ。」
火がぱちりと弾ける。
炎の明かりが、老人の横顔を照らす。
「寂しくないですか。」
問いながら、自分でも陳腐な質問だと思う。
老人は笑って首を振る。
「寂しいってのは、誰かを必要としてる証拠だろう。でもな、ここにゃ波も風もいる。話しかけなくても、だいたいわかる。」
その言葉に、胸の奥が軽くなった。
言葉で埋めようとすることばかり考えていた自分が、静かに恥ずかしくなる。
夜、囲炉裏の火が弱まると、外の音がはっきり聞こえた。
波が岸に当たっては引く。
等間隔の呼吸のような音。
ノートを開き、ペンを動かす。
> 「誰もいないことと、孤独は違う。」
書いた文字が、紙の上でゆっくり乾いていく。
翌朝、まだ暗い時間に目を覚ます。
老人はもう外に出ていた。
浜辺に立ち、網を引き上げている。
空が少しずつ明るくなる。
潮の香り、冷たい風、手のひらの塩。
世界のすべてが無音に近いのに、何も欠けていない気がした。
太陽が水平線から顔を出す瞬間、思わず息を呑む。
光は静かに海を割り、身体の中を通り抜ける。
理由も言葉もいらない。
ただ、それがある。
朝食のあと、出発の準備をしていると、老人が玄関で待っていた。
「また来い。生きてりゃ、どっかで会える。」
主人公は笑い返す。
海風が髪を揺らし、列車の時刻が頭を過らない。
時計を見ずに、ただ歩き出す。
ノートの最後に一文を書く。
> 「自由とは、誰にも見られずに息をすること。」
ページを閉じると、指先にほんのり潮の香りが残った。




