第5章 広島 ― 痛みの継承 ―
新幹線が減速し、窓の外の景色がゆっくりと縞になって流れた。
到着のアナウンスが終わるころ、胸の奥で何かが細く縮む。
駅を出て路面電車に乗る。
金属の車輪が軌道を擦る音が、街の空気に低く響いている。
川を渡り、降車ボタンを押す。
指先にほんのわずかなためらいが残った。
原爆ドームの前に立つと、風が突然言葉を奪った。
観光客の会話は遠く、シャッター音だけが間欠的に落ちてくる。
建物は、ただそこにある。
倒れず、語りすぎず、過去と現在の間に立っている。
金属の骨組みが空を縫い止め、その隙間から薄い雲が流れていく。
目を閉じると、足元で川の水が静かに擦れる音がした。
息を吸う。
肺に入っていく空気の温度が、ほとんど無色になる。
資料館の前のベンチで、年配の女性が一人で座っていた。
隣に間を空けて腰を下ろすと、彼女は小さな紙袋を膝に置き直し、こちらを見ずに話し始めた。
「母は、被爆していてね。何も語らなかったの。若いときは、それが不思議で、少しだけ恨んだりもした。でも、今はわかるの。沈黙そのものが、語りだったのよ。」
声は小さいのに、聞こえない言葉まで含んでいた。
「あなた、旅の人でしょう。」
「はい。」
「人はね、抱えたままでも、生きられるのよ。」
彼女はそこで微笑んだ。
笑顔の形が、そのまま祈りの形に見えた。
言葉の余韻が残るうちに、川沿いを歩く。
水面に映る空の色が薄い。
遊歩道の石に、誰かが落とした花が残っている。
ひとつ、またひとつ。
拾わない。
拾わないこともまた、関わり方のひとつだと思う。
橋の上で立ち止まり、欄干に手を置く。
金属が冷たく、掌の熱を奪っていく。
奪われた熱の分だけ、体の輪郭が正確になる。
夕方、風が止んだ。
広場の片隅で、紙の灯籠を配っている若い人たちがいた。
指で折り目を整え、ろうそくを中に立てる。
油性ペンが回ってきたので、面に一言だけ書く。
「ありがとう」
他に何を書いても嘘になる気がした。
夜、川に灯籠を浮かべると、弱い火は水面の流れを受けて揺れ、やがて小さな群れになって遠ざかる。
手を伸ばしても届かない速度。
目で追うことだけが許されている。
灯りが点々と小さくなって、黒い水に飲み込まれていく。
そこに悲しみは確かにあるのに、同時に、静かな肯定もあった。
消えたから終わるのではなく、見えなくなっても続いていく何か。
胸の中で固くなっていた部分が、ほんの少し柔らかくなる。
呼吸が、以前より深く下まで届く。
宿に戻る道、商店街のシャッターが順番に降りていく音を聞いた。
生活の音は、どの街でも似ている。
違うのは、こちらの耳だ。
部屋に入って、机の上にノートを開く。
薄い明かりの下で、紙の白が少しだけ黄味を帯びる。
ペン先が触れたとき、言葉はすぐには出てこない。
無理に引きずり出さない。
時間を置く。
息を整える。
「生きるとは、痛みを抱えて歩くこと」
書いてみて、短すぎると思う。
けれど、長くしたところで核心から遠ざかるだけのような気もする。
線を一本引いて、言葉を囲う。
箱のような形になる。
そこにさらに小さな字で付け足す。
「抱えたまま、誰かの手を借りて」
ペンを置いた瞬間、窓の外から遠い汽笛が聞こえた。
夜を縫う低い音。
どこかで、誰かが移動している。
どこかで、誰かが帰っている。
便箋を取り出し、封筒を一枚用意する。
宛名を書こうとして手が止まる。
具体的な名前が浮かぶが、書かない。
書かないことで、届く場所が増えることもある。
紙の中央に、たった一行だけ残す。
「俺はまだ、生きている。」
それ以上の説明は、今は要らない。
便箋を畳み、封をする。
切手を貼って、明日ポストに入れようと思う。
誰に届くでもない報告が、今夜の自分には必要だった。
明かりを消す前に、もう一度だけ窓を開ける。
夜の川風が部屋に入り、カーテンの裾が微かに揺れる。
耳を澄ますと、街の音はほとんどしない。
静けさは、からっぽではない。
生き残った音たちが、互いに場所を譲り合っている。
目を閉じる。
今日出会った人の顔が、声が、順番に遠のいていく。
遠のきながら、どれも消えずに残る。
それを「継承」と呼ぶのだろう。
眠りに落ちる直前、胸の奥で小さな灯りが点った気がした。
名前はない。
ただ、確かに温かい。
明日の自分まで届く程度の温度で、静かに燃えている。




