第4章 京都 ― 喧騒 ―
新幹線の窓から見える景色が、急に平坦になった。
山の連なりが途切れ、建物の密度が増えていく。
京都駅のホームに降りたとき、空気はぬるく、湿り気を帯びていた。
春の初め、観光シーズンの始まり。
人が多い。
久しぶりに人の群れに混ざると、体のどこかが軽く緊張する。
改札を抜けると、外国語の看板とカメラのシャッター音が重なった。
土産物屋の前には行列ができていて、駅前のロータリーには観光バスが並んでいる。
人の流れが止まらない。
群れの速度に自分の歩幅を合わせるだけで精一杯だった。
坂道を上りながら、主人公はふと立ち止まる。
風が頬を撫でていった。
街全体が呼吸しているようだった。
青森や函館で感じた「静けさ」はここにはない。
代わりに、喧騒が生の音として響いている。
清水坂に向かう途中、着物姿の若者たちが笑いながら写真を撮っている。
スマートフォンの画面越しに、彼らの笑顔は完璧な構図で収まっていた。
だが、その笑い声が過ぎたあと、坂の石畳に落ちた影だけが残る。
「俺は、どこに向かって歩いているんだろう。」
そう思いながら、観光客の列を外れて路地裏に入った。
人通りが減る。
舗装の割れた道の奥に、古い木製の看板が見えた。
そこには「古書・喫茶」と書かれていた。
戸を開けると、小さな鈴の音が鳴る。
店内には本の匂いと焙煎した豆の香りが混ざっている。
カウンターの奥に、若い男性がいた。
髪は少し長く、眼鏡の奥に穏やかな目をしていた。
「旅ですか?」
「ええ。……少し、遠回りをしています。」
青年は笑って頷く。
「僕も似たようなもんです。東京で働いてたけど、燃え尽きちゃって。今はこの店をなんとか続けてる。」
主人公はカウンターに腰を下ろす。
カップを渡され、湯気が立ち上る。
青年が言う。
「逃げる勇気って、意外と大事ですよ。」
その言葉が胸に残った。
逃げるという言葉が、初めて優しい響きを持った。
店を出ると、日が暮れかけていた。
祇園の方から三味線の音が聞こえる。
通りには灯籠が並び、人々の笑い声が夜の風に溶けていく。
主人公は人の流れの中を歩いた。
すれ違う顔のどれもが、何かを目指しているように見える。
ふと、青年の言葉が頭の中で繰り返された。
――逃げる勇気。
それは、自分を守るための選択だったのかもしれない。
川沿いに出ると、鴨川の水面が街灯を映して揺れていた。
橋の上で立ち止まり、欄干に肘をつく。
風が川面を渡り、指先を冷やす。
ノートを取り出し、ページを開く。
「人はなぜ生きるのか」――そう書いてみて、すぐにペンが止まった。
答えは出ない。
けれど、無理に探す必要もないと思えた。
代わりに、別の言葉を書いた。
> 「生きる理由は、後から見つけてもいい。」
夜が完全に降りていた。
人の声が遠ざかり、川の流れの音だけが残る。
その静けさの中で、心臓の鼓動がゆっくりとしたリズムに戻っていく。
主人公はノートを閉じ、ポケットにしまった。
次の行き先を決める必要はなかった。
まだ旅は終わらない。
足元の影が、街灯の下で長く伸びていた。




