第3章 函館 ― 記憶 ―
夜行列車が海沿いに差しかかるころ、窓の外は灰色の朝を抱いていた。
雪のない海。
風が早く、波が細かく跳ねている。
眠りと覚醒の間を漂いながら、主人公は揺れる車体のリズムを数えていた。
函館の駅に着く頃、ようやく空が明るくなる。
ホームを出ると潮の匂いが強く、港町特有の湿気が頬にまとわりついた。
駅前には市場の看板が並び、呼び込みの声が飛び交う。
久しぶりに聞く「人の声」だった。
青森の静けさを思い出しながら、どこか懐かしいざわめきに戸惑う。
通りを抜けると、海に面した通りに出た。
港の先にフェリーが停まり、白い煙を空に放っている。
食堂の前を通ると、湯気と焼き魚の匂いが入り混じる。
朝の街は、疲れた人間さえ動かす力を持っている。
主人公は港近くの小さな喫茶店に入った。
外観は古く、木の看板が傾いている。
中に入ると、海を見下ろす窓際に客は一人もいない。
カウンターの向こうで、五十代くらいの女性がカップを磨いていた。
「旅の方?」
「ああ、そんなところです。」
言葉が短く途切れる。
女性は微笑んで、少し間を置いてから言った。
「うち、旅人がよく来るの。置いていったノートがあるんだけど、よかったら見てみる?」
ノートは分厚く、何年も積み重なった書き込みで膨らんでいた。
旅人たちの文字。
好きな言葉、失恋の愚痴、地図の断片。
あるページで、ふと目が止まった。
> 「明日が来ることを信じなくてもいい。ただ、夜明けは必ずやってくる。」
ペンの色は褪せていたが、筆圧は強かった。
女性が言う。
「それ、東京の人が書いたの。数年前ね。」
主人公は頷いた。
信じられないほど静かな時間が、カップの中のコーヒーと共に流れていく。
店を出ると、風が強くなっていた。
港の方へ歩く。
灯台の光が薄く滲み、波が岸にぶつかって砕ける。
空は暗くなり始め、雲の切れ間から月が出ていた。
波音の中で、過去の声が浮かぶ。
――「作家になる? そんなの無理だよ。お前、現実見ろ。」
学生時代の友人の声。
夢の終わりは、あの言葉で決まったと思っていた。
けれど、今は違う。
あの痛みさえ、たしかに“生きていた証”だった。
風の匂いの中に、その記憶がほどけていく。
宿に戻って机にノートを開く。
「書くことは、過去を消すことじゃない。過去の自分に、もう一度会うこと。」
ペン先が紙を走るたび、少しずつ指先が熱くなる。
窓の外では港の明かりが波に揺れ、霧笛が遠くで鳴った。
その音が、どこかで“続けろ”と言っているように聞こえた。
書き終えてペンを置く。
ノートを閉じると、外の風が止み、港の音だけが残る。
眠りにつく前、ふと思う。
旅は誰かに見せるものじゃない。
でも、誰かの言葉に救われることがある。
そうして世界は、静かに回っていくのだと思った。




