第2章 青森 ― 静寂 ―
列車は夜のトンネルを抜け、音を変えた。
空気が重くなり、窓の外の闇に雪が混じる。
天井の蛍光灯がひときわ白く、車内の顔を一瞬ずつ照らしていく。
長い走行の末、アナウンスが淡々と終点を告げた。
ホームに降りた瞬間、冷気が肺を満たす。
吐いた息が白く、指の感覚がすぐに鈍る。
街の灯りは遠く、風が吹くたびに雪の粒が頬に刺さった。
人の声がない。
誰もいない。
降り立った自分が、地図の端に来たような錯覚を覚える。
改札を出ると、構内の時計が止まりかけているのに気づいた。
針が震えながらも進まない。
時間が凍る場所が、実際にあるのだと思う。
駅前のベンチには、古いポスターが半分剥がれていた。
観光案内の笑顔の人物は、冬の風に何度も晒されて、もう誰かわからない顔をしている。
手袋の中で指を擦り合わせながら、ノートを取り出す。
最初のページに「旅のはじまり」と書いた。
インクが寒さでかすれた。
紙の上に置いた手が震えて、筆跡が少し歪んだ。
書き終えた瞬間、かすかな安心が落ちてくる。
書くという行為が、自分の存在を確認する唯一の仕草になっていた。
郊外行きの小さなローカル線に乗り換える。
車両は一両だけで、座席の端にストーブが置かれている。
鉄の網の向こうで火が小さく揺れている。
暖かいというより、ただ“火がある”という事実が心を落ち着かせた。
車掌はいない。
雪で埋もれた線路を、ゆっくりと列車が進む。
窓の外は白しかない。
途中の無人駅で降りた。
駅名は聞いたことのない漢字だった。
改札はなく、木造の待合室がひとつ。
中には古いストーブと、新聞紙を重ねた椅子。
奥に、一人の老人がいた。
「列車は、あと三本しか来ないよ。」
そう言って、火ばさみで炭を動かした。
声が低く、雪に吸い込まれるように静かだった。
何も言い返せず、ただ頷く。
老人は続けた。
「このあたりはね、冬が来るたびに人が減るんだ。でも、雪は毎年ちゃんと降る。不思議なもんだよ。」
ストーブの火がぱちりと音を立てた。
言葉の意味より、声の温度が沁みた。
外に出ると、雪は音を消していた。
世界がまるごと静まり返る。
靴底の下で雪が潰れる感触が、唯一の現実だった。
道の脇に「旧線路跡」という木の標識が立っている。
そこを歩く。
線路はもうなく、雪の下に眠っているらしい。
足跡も灯りもない道。
遠くでカラスが一度だけ鳴いた。
無言のまま進むうち、冷たさの中に奇妙な安堵が混じる。
風が体をすり抜けていくたびに、自分が生きていることだけが確かだった。
孤独が恐怖ではなく、静けさそのものとして体に馴染んでくる。
「何もないことが、こんなに心地いいなんて。」
声に出すと、雪に吸い込まれて消えた。
返事はない。
それでも、少しだけ満たされる。
夕方になり、町外れの小さな民宿に泊まった。
木の引き戸を開けると、囲炉裏の火が赤く灯っている。
女将が湯気の立つ味噌汁を運んできて、「旅の人かい?」と微笑む。
「はい。少し、北へ。」
そう答えると、女将は「寒いところが好きなんだね」と笑った。
テレビでは東京のニュースが流れていた。
渋谷の交差点、満員電車、ネオン。
その映像がまるで別の惑星の記録のように思えた。
箸を置き、外の音に耳を澄ます。
風の音、屋根を打つ雪。
それだけで、世界は十分に生きている。
夜、布団の中でノートを開く。
「今日の静けさは、恐れではなく、呼吸だった。」
書きながら、指先の感覚がゆっくり戻ってくる。
ペンを置くと、外の雪の音が再び聞こえた。
そのリズムが心臓の鼓動と重なり、しばらくして、眠りに落ちた。
夢の中で、誰かが笑っていた。
その声が、どこかで聞いた風の音に似ていた。




