第10章 東京 ― 始まり ―
列車が北へ走り続ける。
トンネルを抜けるたび、空の色が変わる。
鹿児島を出たときの光の濃さが薄れ、景色の輪郭が都会の色に戻っていく。
窓に映る自分の顔が、見慣れていて、それでいてどこか違う。
駅ごとに人が増え、言葉の速さが上がっていく。
博多、新大阪、名古屋。
東京という二文字が電光掲示板に現れた瞬間、心臓がわずかに跳ねた。
上野駅のホームに降り立つと、空気が冷たい。
鉄の匂いと人の匂いが混ざって、懐かしさと疲労の両方を思い出させる。
足音が重なり合い、エスカレーターが人を飲み込み、吐き出していく。
初日にこの駅を出たときと同じ場所に立っているのに、風景の奥行きがまったく違って見えた。
人波の中で、誰も自分を見ていない。
それが安堵にも自由にもなっていた。
駅を出て、かつて通っていたオフィス街の方へ歩く。
昼休みの時間らしく、スーツ姿の人々が列を作って食堂に入っていく。
かつての自分もその列のどこかにいた。
今日の特価ランチを気にし、午後の会議を頭で組み立てながら歩いていた。
ガラスに映った自分は、同じ街の中にいながら異物のようだ。
だがそれは、不思議と痛くなかった。
近くの喫茶店に入る。
かつて出勤前に立ち寄ったことのある店だ。
テーブルの配置も、メニューの字体も、変わっていない。
カウンターの奥にいる店員は新しい顔だった。
コーヒーを頼み、窓際の席に座る。
ガラス越しに人の流れを眺めると、見知らぬ誰かの動きが、すべて何かの物語の断片に見える。
カップを両手で包む。
熱が指先から腕に伝わる。
ノートを取り出し、ページをめくる。
青森の白、広島の灯、鹿児島の灰。
すべてが今この街の光と同じ場所に並んでいる。
どれも現実で、どれも夢のようだった。
ページの隅に書きかけの言葉がある。
> 「生きるとは、書き続けること」
その下に、新しい文字を加える。
> 「書き続けるとは、今日を選び続けること」
コーヒーの香りが、朝と昼の間を曖昧にしていく。
外を歩く人々の顔が、少しずつ光を帯び始める。
夕方、高架下を歩く。
旅立ちの朝に座ったベンチはまだそこにあった。
あのときの冷たい空気を思い出す。
列車を待ちながら飲んだ缶ビールの味。
そこから始まったすべての道が、今ここで一つにつながっている気がした。
電車の通過音が頭上を震わせる。
音の粒が胸の内に落ち、鼓動のリズムと混じる。
夜、部屋に戻る。
机の上にノートを置き、パソコンを開く。
白い画面に黒いカーソルが点滅している。
タイトルを入力する。
> 『レールの果て、光の在処』
エンターキーを押す。
画面が静かに切り替わり、空白が広がる。
指が動き出す。
言葉がひとつ、またひとつ現れる。
旅の記憶が文章に変わるたび、心の奥で何かが形を持つ。
これは思い出ではなく、現在を描く行為だった。
夜更け、窓の外に電車の灯が見える。
あの灯りはもう遠くのものではない。
自分の中にも同じ明かりがある。
ページを閉じて深呼吸をする。
呼吸の音が部屋に小さく響く。
朝、目を覚ます。
カーテンの隙間から光が差し、部屋の中に細い線を描く。
机の上には昨日書いた原稿。
インクの匂いがまだ残っている。
窓を開け、冷たい空気を吸い込む。
街が動き始める音が聞こえる。
電車の走行音、信号の切り替わる電子音、誰かの笑い声。
すべてが「生きている音」だった。
ノートを手に取り、最後のページに一行だけ書く。
> 「旅は終わり、物語が始まった。」
そしてもう一行。
> 「生きることはいつも、その続きを書くことだ。」
ペン先を止め、ページを閉じる。
窓の外で太陽が昇る。
街のビルの隙間を光が縫う。
今日が始まる音が、確かに聞こえた。




