第1章 東京 ― 出発 ―
目覚ましの鳴る三分前に目が覚めた。
カーテンの隙間から、まだ白くならない空がのぞいている。
冷蔵庫のモーターが低くうなり、壁時計の秒針がひとつ進むたび、部屋の空気が薄くなる気がした。
最後の出勤日、と頭で繰り返す。
言葉に重さはない。
ただ事実だけが床に転がっている。
駅までの道で、自販機の缶コーヒーを買う。
季節外れの冷たさが指先に刺さって、掌の血の巡りだけがはっきりする。
高架の上を電車が渡るたび、金属が軋む音が空に散る。
あの音はいつも同じ速さで、誰の事情も待たない。
歩道の端で信号を待ちながら、ガラスに映った自分の顔を見た。
眠れていない顔。
ひと晩か、数年か、見分けがつかない疲れ方をしている。
オフィスの自動ドアは、今日も遅れて口を開いた。
エレベーターの中に他人の香水が残っている。
背中越しに、どこかの部署の笑い声。
フロアに出ると蛍光灯の白さが一斉に押し寄せてきて、視界の角を削っていく。
自分の席はいつも通り整っていた。
引き出しの中身を空にして、社用のキーボードを布で拭く。
こういうとき、手はよく動く。
心は静かだ。
静かすぎて、何かが死んでいるみたいだとふと思う。
昼前、ロッカーの奥から古いメモ帳が出てきた。
学生のころに使っていた、表紙が角から剥がれたもの。
最初のページに、雑な字で「旅をしたい」とあった。
メモをめくる指が一度止まり、笑うでも泣くでもない顔になる。
いつからだろう、行きたい場所より、締切の表を先に見るようになったのは。
後輩が「お疲れさまでした」と軽く頭を下げて通り過ぎる。
彼の靴音は、たぶん明日も明後日もここを通る。
それが良いとか悪いとかではなく、単にそういう速度で世界が進んでいるだけだ。
退社のとき、入館証を返す。
受付の人は手慣れた笑顔で頷く。
誰も悪くない、と心の中で言う。
悪いのは多分、何かを感じる機能がとっくに摩耗していたことだ。
ビルの外に出ると、風が背中を押した。
高架の影が長く伸びて、街が別の生き物みたいに見える。
夕方、新宿の高架下。
ベンチに腰を下ろして、缶ビールを開ける。
音があまりに小さい。
周りの音が大きすぎるのかもしれない。
行き交う人の会話が断片だけ耳に入っては、すぐに遠ざかる。
うまく笑えている人、急いでいる人、誰かに電話している人。
誰もこちらを見ない。
見られなさに安心して、同時に少しだけ取り残される。
頭上を電車が通るたび、会話の意味が砕けて、金属の響きだけが残る。
スマホの地図を開くと、細い線が日本列島に張り巡らされている。
線と線は知らない駅で出会い、別れて、またどこかで重なる。
沖縄のあたりだけ、海の色が濃くて、線は届かない。
指先で北へとなぞる。
青森。
函館。
文字は知っているのに、どの匂いも思い出せない。
線は記憶を運ばない。
運ぶのはいつも、体のほうだ。
理由を整えるのは、いつも後だ。
生きていくうえで、順番が逆のほうがうまくいくことがある。
そう思った瞬間、背中のほうで、さっきまで固まっていた何かが音を立てて崩れた。
もう少しだけ、やさしい場所で息をしたい。
誰にも見えないところで、息の仕方だけやり直したい。
ビールの泡はすぐに消えて、缶の底から金属の匂いが上がる。
立ち上がる。
歩ける。
夜明け前、上野駅。
人影は少なく、駅員の声だけが広い空間に届いては消える。
ホームの端に立つと、レールが灯りを拾ってまっすぐ延びているのが見える。
荷物は少ない。
ノートとペン、薄い上着、充電器、最低限の洗面道具。
失って困るものを置いてきたのか、持ち出してしまったのか、自分でも判然としない。
切符売り場で「北へ」と言いかけて、具体的な駅名を口にする。
口にした瞬間、実在がこちらに寄ってくる感覚がある。
ホームのベンチで列車を待つ間、ノートの最初のページに日付を書いた。
ペン先が紙を噛む小さな音が、やけに正確に耳に届く。
何を書けばいいのかは決めない。
決めないことが、今日だけは許される気がする。
遠くで発車ベルが鳴り、体が勝手に立ち上がる。
列車の窓に、薄く白んだ空が映る。
誰もいない席に腰を下ろすと、背中の筋肉がゆっくりほどけていく。
肩の力を抜く練習を、何年分かまとめてやっているみたいだ。
列車が動き出す。
ホームが退き、柱が数えるのを諦めた数になり、トンネルの黒が一度だけ窓を塗りつぶす。
揺れのリズムが一定になったころ、ノートに一行だけ書く。
生きる理由は、見つけるものじゃない。
動いているあいだだけ、仮にそこに置いておくものだ。
書き終えて、窓の外を見る。
街が、ゆっくりほどけていく。
ビルの間に小さな空き地が混じり、屋根の色がばらばらになり、川がやっと地上に顔を出す。
遠くの空はまだ白い。
白いままでいい、といまは思う。
答えを待つより、今日の速度を受け入れる。
金属の響きが一定になって、心臓がそれに合わせて打ち方を思い出す。
列車は北へ向かう。
理由はあとでいい。
いまはただ、息をする。




