悪魔の微笑み ー 名声と才能 ー
「私がそのレコードを見つけたのは、祖父の別荘の屋根裏部屋だった。レコードっていうのは、分かるかな?」
老人は、ベッドの横の椅子に座る若い介護士に顔を向けた。
「あの、黒くて丸い円盤ですよね。従兄弟が音楽の趣味があって、見たことはあります」
看護士は笑顔で答えた。
「そう。私が若い頃にも、だいぶ廃れてきてはいたんだが、父親が持っていたもので聞いたことはあった。祖父はまた、古いレコードを収集していたようで、周りを気にかけず音楽を聴ける別荘に籠っていることもあったらしい。
そんな祖父のコレクションだったのだろう。祖父が亡くなってしばらく経っていたので、別荘も少し荒れていてね。一緒に遊びに行った友人と部屋を見て回っていたんだ。屋根裏部屋に入ったときに、レコードが詰まった箱がいっぱいあってね。空いていた箱から、何故かそのレコードを引き出して、気まぐれで居間にあったオーディオセットで聞いてみたんだよ」
※※※
そう。何故そんなことをしたのか、今になっても分からない。たぶん、その時すでに呪われてでもいたのだろう。そのレコードはEP、俗にドーナツ盤とも言われる円盤の真ん中の穴が大きく空いているもので、だいたい片面に一曲だけ録音されているものだった。
私と友人が惹かれた理由は、そのジャケットにもあった。大きく、13と白字に黒く書かれていて、下の方に、
La Risata del Diavolo
と、そう書かれていた。後で調べたところ、イタリアのヴァイオリニストで作曲家のニコロ・パガニーニの『二十四の奇想曲』という無伴奏のヴァイオリン独奏曲の中の13番目の曲で、『悪魔の微笑み』という俗称があるものだった。
そのレコードが変わっていたのは、レーベルらしいものと、演奏者の名前が無いことだった。どこが製作したものなのか分からなかった。それに、裏面には溝があるものの、曲は録音されていなかった。
私家版のレコードだったのだろうか。
私と友人はその時はそんなことも知らずに、それをプレーヤーに乗せて、針をレコードに落とした。しばらく、小さくぷつぷつという針が擦れる音がスピーカーから流れていたが。
ふいに、ヴァイオリンの音色が響き渡った。
音楽を聴いてショックを受ける、ということは時折なくはないが。あれは、ショックというよりは、魅了されたとでもいうか、畏怖したとでもいうか。まるで、何か得体のしれないものの声をきいているような。
ヴァイオリンの音は人の声に近いとも言われているというのは後で知ったが、あれは人の声ではない、別の何者か、確かに、その時悪魔に微笑まれたのだろう。
曲自体は短いものだった。ほんのニ,三分。二人とも聞き入っていたというか。身動きもしなかった。二人を我に帰らせたのは、近くに落ちた雷の音だった。驚いて腰が浮いたことを覚えている。直後に猛烈に雨が降り出して、開けてあった窓を慌てて閉めた。
それから、二人ともちょっと落ち着かない気持ちでいたものだった。妙な焦燥感のようなものに囚われていた。だが、天気も悪く、その日は別荘に泊ることになっていたため、どこかに外出、などということも出来ない。うろうろと、さして広くも無い別荘を歩き回ったりしていた。
その日の夜。雨は上がって静かな夜だった。山の中で、虫の音だけが窓の外から聞こえてくる。それ以外に音は無い、都会の喧騒からは遠く離れた静かな夜。私は却って寝付けなかった。ベッドで何度も寝返りを打っていたが、頭は妙に冴えていて、あのヴァイオリンの音色が響いていた。
そんな状態だったが、それでも明け方頃にはうとうととしてきて、浅い眠りについた。その眠りの中で夢を見た。
黒い人影。シルクハットに燕尾服。顔は見えないのに、何故か笑っているということは分かった。その人影に、お前は何をしている? と問われた。
私は、小説をかいていて、小説家を志している、と答えた。大学の文学部にいて小説を書いてはいたが、本気でそれを目指しているとは口に出して人に言ったことも無かったのに。
小説? なんだ、つまらぬな。音楽家では無いのか。
影は小馬鹿にしたように言う。
まあ、良かろう。お前は名声と才能と、どちらが欲しい?
影はそういった。名声と才能。私は頭の中で才能、という言葉が文字となって浮かんだ。才能。そう、私は才能が欲しかった。これまで小説家になりたいと密かに思って書き記したものは、人に見せても誰からも褒められたことも無い。それだけでなく、どれも自分自身で納得のいくものでは無かったから。
そうか。才能か。
どうだ、呉れてやったぞ。どう扱うかはお前次第。
影の声は楽し気に笑っていた。
窓から漏れる日差しが顔に当っていた。眩しさに目が覚めた。もう日は高く昇っていて、昼近いようだった。
夢のことは覚えていた。夢の中で、何者かに才能を与えてもらった夢。才能を? 本当に?
友人も遅く起きてきて、二人ともむっつりと黙り込んで朝食を食べた後に、車に乗って別荘を後にした。車は私が運転し、助手席の友人はずっと窓の外を見てばかりだった。二人とも会話を殆どしなかった。
その帰り、私はちょっとした異変に気が付いていた。信号待ちをしてる間に前の横断歩道を通り過ぎた女性の姿を見て、デートに向かう途中だろうか、とふと思っただけで、その先のストーリーが頭に思い浮かんだ。バス停のベンチに腰かけている老人の人生を思い浮かべたり。空を飛ぶ鳥や木々や花々を見るだけで物語が浮かんでくる。
友人と別れの挨拶もほどほどに、下宿しているアパートに帰り着いた私は、着替えることも無く親からもらったワープロに向かっていた。昔は、パソコンなどではなく、ワードプロセッサー専用の機械があったのだ。それのキーボードを私は夢中で叩いていた。時間も忘れて。
ストーリーはいくらでも湧いてきた。それを抑えるのに苦労するくらいに。
私は翌日にはそれを仲間に見せていた。何故か、そうするだけの自信もあった。読んだ仲間たちは、そこそこ好評だった。密かに思いを寄せていた女性に面白い、と言ってもらえて有頂天になったりした。
それからは、仲間と出した同人に載せたものが編集者の目に留まって、雑誌に小説を載せることができた。それからぽつぽつと仕事も舞い込むようになった。
そんなあるときある編集者に呼ばれて、私も名を知っている作家の元に行った。そこで、仕事を手伝ってもらえないか、という話をされた。編集者はその作家に、私のことを、仕事が早く、どんな依頼もこなせるような器用なやつだ、と伝えていた。
そう。これは、ゴーストライターの依頼だった。幾つもの仕事を抱えた著名な作家の作業を手伝うという名目の。
私は断れなかった。編集者には多少の恩も感じていたし、その作家のことに興味もあった。何より、報酬が大学生の私にとっては下手なアルバイトよりも魅力的だったのだ。
私はその作家の元で、”才能”を発揮した。作家は自分が書きたい雑誌連載の小説に注力し、その他の読み切りの短編やエッセイなどを私が代筆することが多かった。その作家の癖や趣味なども熟知するようになると、殆ど作家本人が書いたものと区別がつかなくなっていった。その作家自身、インタビューで短編小説の出来を褒められたときに自分が書いたものの様に自慢げだった。
ある時からは、連載小説の続きを思い浮かばなくなった作家に代わって私が書くようにもなっていった。それを作家も編集者も私も、次第に気にならなくなっていった。
そんな生活をしつつ、私は大学も卒業したが、そのままその作家の元で働いていた。時折自分の作品を書いて雑誌に載ることもあったが、仕事と収入の大半はその作家のゴーストライターとして得ていた。
私のその時の気持ち? どうだっただろう。湯水のように湧いてくるストーリーを言葉にして活字にすることだけに注力していたと言ってもいいだろう。まるで小説、文章を書く機械のようだった。
その頃付き合っていた女性からは、そんな私に呆れ、どうして自分の作品を書かないのか、独立しないのかと言われたが。
私には、他人の作品でも創作を辞めるということが出来なかった。出来なくなっていた。それに、世のベストセラー小説を実は自分が書いているのだ、という、秘めた満足を得ていた。放火魔が火事に右往左往する群衆を眺めて喜ぶような、歪んだ欲望だったかもしれない。
ある日。
私はふと仕事の合間に見たテレビのニュースで、新人文学賞の受賞者のニュースを見た。受賞者としてインタビューを受けていたのは、私の友人だった。あの日、一緒に『悪魔の微笑み』を聞いた。
気恥ずかし気にインタビューを受ける友人の姿を見て、私は彼も、あの日夢を見たのだはないだろうか。そして、かれは、あの”影”から、名声を受け取ったのではないか?
そう思ったが、それは私の思い込み、嫉妬だったかもしれない。彼は私よりは才能には恵まれていたのだから。
友人の受賞作は、評判となってベストセラーとなり、映画化もされ、その映画もヒットした。友人はその映画の主演女優との交際が噂され、その後、ゴシップ誌にホテルでの密会をスクープされたりした。
それからは、その女優と別れた後も、友人の小説のファンだという人気アイドル、タレントやモデルなどとも浮名を流すような、流行作家となっていた。
有名な作家となった友人の姿はテレビのコメンテーターとしても見かけるようになった。そのころから、私の周りでは、彼のことを一発屋の作家気どり、などと馬鹿にするような言葉を聞くことが多くなった。
実際、彼は文学賞を受賞して映画化された作品以降、これと言ってヒットしたようなものも、話題になったようなものもなかった。二作目が、あの、ヒット映画の原作者の二作目、として注目を浴びたくらいだった。その作品も、ある程度は売れたが作家としての一作目のようにはいかなかった。
「久しぶりだな」
私は、どうやって調べたのか、友人に電話で呼び出された。彼は少しやつれた様子だった。
「どうしたんだ、急に」
大学を卒業してからは、彼と会ったことは無かった。もう互いに三十を過ぎる年になっていた。
「昔、お前と行った別荘があったよな」
私は友人のその言葉に、ゴーストライターとして生活している私のことを知って、私に創作の依頼でもするのでは、と想像をたくましくしていた。
「あの別荘にあったレコードとかはどうなったんだ?」
レコード? 私はその言葉に戸惑った。
「別荘は、もう使わなくなったんで、親父が売ったはずだ。中の物をどうしたかは知らない」
「なんだって? どこに処分したとか知らないのか?」
異様に食い下がる友人の顔を見て、私は気が付いた。そうか。
「レコードのコレクションとかは、まとめて売っただろうから調べて見たら分かるかもしれない」
「そ、そうか。じゃあ、調べて連絡してくれないか」
「どうして、そんなにレコードにこだわるんだ」
私は、ちょっと意地悪く聞いてみた。
「え、いや……」
友人は私の顔を訝し気に見つめた。どこか、お前も夢を見たのではないのか? と問うようだった。
「ちょっと、あの時聞いた曲で気になったものがあったんでな」
そうだろう。気になるどころでは無いはずだ。
「そうか。分かったら連絡するよ」
「すまんな。よろしく頼むよ」
ゴーストライターとして、世間に知られることも無く生活している私は、名声も才能も得たりしているようには、友人には見えなかっただろう。
その後、私は父に訊ねて、レコードを処分した業者を聞き出し、その場所を調べて友人に連絡した。私はメールなどではなく、直接電話をして伝えた。彼の反応が知りたくて。
「分かったのか? どこだ?」
私は住所を伝えた。そこを尋ねたとして、あのレコードがあるかどうかはわからないのに。
「そうか! ありがとう。恩に着るよ」
藁をもつかむような、切迫した声。もうこれではっきりした。彼は、あの”影”、悪魔から名声を得たのだろう。そして、こんどは。
それからしばらく、友人と連絡をとることも無く、私は彼のことは忘れていた。久しぶりに、彼の姿を見たのは、テレビのニュース映像だった。
それは、付き合っていた元アナウンサーという女性に暴力を振って怪我を負わせたというものだった。その怪我というのも、数か月入院するほどという酷いものだった。どうしてそんな暴力を振ったのか。
最近は酒におぼれるようになって、創作活動も上手くいかず、ヒット作以降ぱっとしないことを愛人に揶揄されたことに激怒したのだという。
彼の名声はこれで地に落ちて、誰もが憚ることなく一発屋の落ち目の作家と言う様になった。
私は、収監されてから暫くして仮出所した友人と顔を会わせた。それは彼の方から連絡をしてきたからだった。今更私に何を言いたいのだろうか?
「昔、お前の、お祖父さんの別荘だったか。そこでレコードを聞いた事があっただろう?」
昔通った大学近くの公園。私はベンチに彼とならんで腰かけていた。
「ああ。そんなこともあったな」
彼はやつれて、年よりも十も二十も老けたかのようだった。
「あの時聞いた曲が頭から離れなくて、夜に夢を見たんだ。曲名どおりに、悪魔がでてきた」
私は黙って聞いていた。
「そして、こう言ったんだ、お前は名声と才能と、どちらが欲しい? って」
そう。それは私も聞いたセリフだった。
「俺は、名声だ、そう答えた。そして、俺は文学賞を取って、それは売れて映画にもなった。その映画も売れた」
ここで彼は暫く言葉を探すように黙り込んだ。
「でも、それ以上、俺の小説は売れなかった。それで、思ったんだ。もう一度、あの悪魔に会って、今度は才能だ、と言おうと。馬鹿な妄想を語っていると思うだろ?」
どこか泣きそうな顔で彼は苦笑を浮かべた。
「前にお前にレコードの行方を聞いたのはそんな訳だ。そして、見つけた。あのレコードを」
彼は手を握って空を見上げた。
「レコードプレーヤーを買って聞いてみた。何度も聞いた。ただ眠れなくなっただけだった。一度だけ、あの悪魔の夢を見たっけな。笑っていたよ。心底楽しそうに。それだけだった」
彼の歪んだ顔から涙が流れた。
彼の姿を見たのはそれが最後だった。彼はそれから程なくして電車に飛びこんで命を絶った。
※※※
「私は、それからも作家のゴーストライターとして働いていた。その作家が亡くなってからも、様々な作家やタレントのゴーストライターとして作品を書いていた。私は、”業界の便利屋”という、知る人ぞ知る存在になっていた。それで、もうキーボードも叩けなくなって引退するまでずっとそうして生活してきたってわけだよ」
ベッドの上の老人はそう言ってため息をついた。
「あのう、名声の方は、欲しいと思わなかったんですか?」
恐る恐るという感じで、介護士がたずねた。
「いやあ。どうだろうな。若い頃はそんなことを思っていたこともあるかもしれない」
それだけ言うと、老人は喋り疲れたのか、目を閉じた。話を聞いていた介護士は、それを期に席を立った。
「またあのお爺さんの長話?」
廊下に出ると、同僚が笑って話しかけて来た。
「ええ。でも、何時も話が面白いの。小説を書いてたってのは本当なのかな」
「どうだろ。妄想を語る人も多いけど。あ、でも一度、出版社の編集者って人が来たことがあったみたい」
「そう。やっぱり本当のことなのかな」
「作家とかだったとしたら、余計話を作ってるんじゃないの」
同僚はそう言って笑った。
※※※
うたた寝をする老人。その夢の中でも、物語のストリーが展開していた。ゴーストライターを務めていた作家が亡くなったことで続きが書けなくなったものだった。いや、正確には、発表できなくなったもの、と言った方が良かったか。老人の頭のなかで、どこにも発表されることもない、ベストセラー小説の続編が今も続けられていた。
それは、老人が死ぬときまで止むことなく続く、悪魔から得た”才能”という呪いだった。
その、ストーリーがふいに、途絶えた。
つまらぬな。つまらん。貴様の生き様は。あの男は綺麗に散って見せたぞ。私を楽しませてみせろ。才を与えた甲斐が無いではないか。これで終いとは。
何十年かぶりに見る、”影”だった。その声は苦々し気だった。それでも、シルクハットを手に取って、フィナーレを迎えた舞台の役者の様に頭を下げると、姿を消した。
その姿を見て、老人は静かに笑みを浮かべた。
看護士が気付いた時には、老人は、眠るように息を引き取っていた。




