残暑の中、川辺を歩く
八月の終わり、残暑の匂いはまだ町にまとわりついていた。
駅から少し離れた川沿いの道を歩く。日中は肌を焦がすような陽射しだったが、夕方になると少しだけ風が出て、照り返す暑さもやわらいでいた。だが、頬を撫でる空気の中にはまだぬるい熱が残っていて、「秋はもうすぐ」と言いながらも、夏のしつこさが未練がましく居座っているように感じられる。
川の上を、蝉の声と虫の声が交じり合って流れてきた。ツクツクボウシの声はひときわ儚げで、アブラゼミの鳴き声と混ざると、どちらも自分の出番を譲れないと訴えているように聞こえる。耳に届くたび、胸の中に小さな切なさが生まれる。
私は歩をゆるめ、川の土手に沿って進んだ。
土手の草は青さを保ちながらもところどころに枯れが混じっている。風に揺れると、カサカサと乾いた音が立った。子どもの頃なら、草むらに分け入ってバッタやコオロギを追いかけていただろう。しかし今は、その中に足を踏み入れようとは思わない。靴に種がくっついて後で取るのが面倒だから、などという現実的な理由もあるけれど、何よりも「そういうことをする歳ではなくなった」という諦めが先に立つ。
――子どもの頃、この川でずいぶん遊んだな。
そんな記憶がふと甦る。夏休みの終わり、宿題を片付けたと言いながら、実際はまだ自由研究も日記も終わっていなかった。だがそれでも網を片手に、魚やザリガニを追いかけて走り回った。
日が暮れるまで夢中になって、泥だらけで帰宅して母に叱られたものだ。
土手を下りて、小さな橋の上に出る。古びたコンクリート製の橋で、欄干には落書きが消えきらずに残っている。
私は欄干に手を置き、川面を覗き込んだ。濁ってはいないが、決して澄んでいるわけでもない水が、絶え間なく流れていく。漂う草や小さな枝が、思いのほか速い流れに乗って下流へ消えていくのを目で追うと、不思議な安心感が胸に広がった。
と、その時だ。
「よしっ!」
背後から元気な声が響き、思わず振り返る。
小学生くらいの男の子が、ランドセルを背負ったまま橋へ駆け寄ってきた。片手には網を握りしめている。顔は赤く火照り、額から汗がつたっていた。
「おじさん、魚いるかな?」
いきなり声をかけられて戸惑ったが、思わず笑みがこぼれる。どうやら地元の大人か何かと勘違いしているらしい。
「どうだろうな。昔はよく捕まえたけど」
「じゃあ、やってみる!」
少年は迷いなく川岸に降りると、水際に網を突き出した。水が跳ね、靴やズボンがあっという間に濡れる。
魚影はすぐ逃げてしまい、網には何も入らない。けれど彼は諦めずに繰り返す。泥に足を取られながらも笑顔を浮かべ、夢中で追いかける姿に、かつての自分を見ているようで胸がくすぐったくなった。
しばらくして、網の中に小さな稚魚がぴちぴちと跳ねた。
「やった!」
少年は満面の笑みを浮かべ、網を高く掲げた。私も思わず拍手を送る。
「すごいな、よく捕まえたな」
「うん!」
だが次の瞬間、彼は稚魚をそっと手にすくい、川へ戻した。小さな魚は一瞬体を震わせた後、すぐに流れの中へ消えていった。
「持って帰らないのか?」
「お母さんが言ってたんだ。生き物は飼えないなら捕まえちゃダメって」
照れくさそうに笑う少年を見て、私は胸が熱くなる。自分が子どもの頃は、捕まえた魚やザリガニを空き瓶や虫かごに詰め込み、翌日には死なせてしまうことも多かった。その無邪気さは残酷で、そしてどこか懐かしい。
「いいお母さんだな」
「うん。……でもちょっとだけ、持って帰りたい気持ちもあるんだよ」
少年は小さく呟いた。その気持ちが痛いほど分かる。
欲しいものを手に入れたい衝動と、それを我慢する心。その葛藤こそが、子どもから少し大人へ近づく最初の一歩なのかもしれない。
少年はランドセルを背負い直し、「また来る!」と元気に手を振った。夕日に照らされながら土手を駆け上がり、住宅街の方へ消えていく。
残された私は、しばし川を眺め続けた。
川面は朱色に染まり、流れの中に秋の気配が忍び込んでいる。先ほどの出来事が胸に温かく残り、心の奥に沈んでいた記憶を揺さぶった。
――そういえば、あの夏も同じように橋の上から魚を覗き込んでいた。
友人たちと競い合い、誰が一番大きな魚を捕まえるかで真剣に争った。小さな稚魚を逃がすなんて発想はなかった。ただ手に入れたい一心で、夢中になって追いかけた。
だが、今目の前で見た少年は違った。欲しい気持ちを知りつつ、それを手放すことを選んでいた。
その姿に、なぜか励まされるような気持ちになった。
私は欄干に寄りかかり、空を見上げる。
夕焼けは淡い茜色から群青に移ろいつつある。蝉の声はもう遠く、代わりに草むらの虫たちが力強く鳴きはじめていた。
夏と秋が同じ場所で同時に存在しているような時間。
季節の境目に立っている――そう思うと、この瞬間がいっそう愛おしく感じられた。
ただ散歩していただけのはずが、不思議なほど心が満たされていた。




