第三章 霧の言葉
※ChatGPTで作成しています。
霧は深く谷を包み、時間の流れさえも鈍らせているようだった。〈試しの七日〉が始まって三日目、エシェリは囲炉裏の前でじっと火を見つめていた。霧が揺らぎ、ぱちりと木がはぜる音が耳に心地よく届く。
向かいにいるカイルも、静かに火を見つめていた。言葉は通じなくとも、火を囲むという行為は人と人とをつなぐ。そこには不思議な安らぎがあった。
エシェリはふと、自分の胸に浮かんだ言葉を、そのまま口にした。
「……話せたら、どんなに楽なんだろう」
カイルは顔を上げた。エシェリの目を見つめ、問いかけるように眉を寄せる。
「ううん、独り言みたいなもの。でも……わたし、あなたのことを知りたい。ほんとうに」
カイルは小さくうなずいた。彼もまた、伝えたいことがあるのだと、エシェリは感じた。言葉ではないけれど、そのまなざしが確かにそう告げていた。
ユナがそっと言った。
「言葉は違っても、霧は、わたしたちの“思い”を伝えてくれるのかもしれないね」
エシェリはその言葉に目を見開いた。
「霧が……伝えてる?」
「うん。私たちは、カイルの言葉を正確に理解しているわけじゃない。だけど、言葉の“奥”にあるものが、ちゃんと届いてる気がする」
エシェリは思い返した。初めてカイルと目を合わせたとき、自分でも驚くほどにはっきりと「助けて」という叫びが伝わってきたことを。
「霧の中では、言葉の形より、心の声のほうが強いのかもしれない」
その詩的な表現は、エシェリの中で不思議と腑に落ちた。谷の人々は、足の裏や皮膚で霧の声を感じとるように育ってきた。であれば、霧が心のひださえも運ぶことは、自然なことなのかもしれない。
◆
四日目の朝、エシェリはカイルを連れて、谷の南にある〈響きの泉〉へと足を運んだ。ここは、古くから語り部たちが物語を紡いできた場所で、水面に浮かぶ霧は声の記憶を蓄えているといわれていた。
「泉の水をすくって、静かに見てるとね、時々、霧が言葉を返してくれることがあるの」
エシェリがそう言うと、カイルはそっと泉に手を伸ばした。透明な水に手が触れると、細波が立ち、その中央にうっすらと像が現れた。
――砂塵の渦巻く大地。焼けた建物。倒れた兵士たち。
エシェリは息をのんだ。泉が、カイルの記憶を映し出していたのだ。
カイルはそれを見つめながら、低くうめくように言った。
「ミリア……」
その言葉の意味はわからなかったが、声の震えから、それが誰か大切な人の名であることはわかった。
エシェリは言葉を慎重に選んだ。
「……あなたの家族?」
カイルは一瞬驚いたように目を見開き、そして、ゆっくりとうなずいた。
その動作だけで、エシェリには十分だった。霧が、彼女の心をほんのわずかでも彼の心に運んでくれたのだと、はっきり感じた。
◆
試しの五日目、カイルはエシェリの家の外で、谷の民たちが編み物や石器作りをしている様子を興味深げに眺めていた。子どもたちが彼の周囲に集まり、恐る恐る声をかけている。
「カイルって変な服だなー」
「でも、手がでっかい!」
言葉が通じないとわかっていても、子どもたちは気にせず話しかける。カイルも、笑って肩をすくめたり、軽くお辞儀を返したりしていた。
言葉ではなく、態度で通じ合う。エシェリはその光景に、心の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
カイルはもう「よそ者」ではなかった。
◆
試しの七日目。霧がいつもよりも重たく、冷たく谷を包んだ朝だった。〈月鏡の岩〉には、谷の長老たちと、村の民たちが集まっていた。
カイルとエシェリもそこに立つ。ふたりの間に言葉はなく、ただ静かな気配だけが流れていた。
杖を手にしたラウが前に出た。
「七日間、霧はすべてを見ていた。語り部エシェリよ。おまえの口から、彼の物語を語れ」
エシェリは一歩前へ出る。
「……彼の名はカイル。遠い西の国から来た人。彼は戦の中ですべてを失い、生きる意味を探していた。そして霧に手を引かれてこの谷に辿り着いた」
彼女はカイルのほうを見た。
「言葉は通じなかった。でも、心は届いた。泉が彼の記憶を映し、火が彼の痛みを伝え、子どもたちが笑顔を交わした。言葉が違っても、思いは届く」
そう言って、エシェリはきっぱりと口にする。
「私たちの言葉は違っても、霧が繋いでくれる。だから、私はカイルを信じる」
その瞬間、谷の霧がやわらかく舞い、月鏡の岩に淡い光が射した。
ラウはゆっくりとうなずいた。
「語りは聞かれた。霧神は、それを否定しない。カイルは、試し人から〈通り人〉となる。掟の外にあって、谷の内に留まる資格を与えられる者として」
谷の人々がざわめき、数人の子どもたちがカイルに駆け寄って手を振った。
カイルはその様子を見て、ふと、かすれた声で言った。
「ありがとう」
エシェリはそっと微笑み、彼の手を握った。