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第二章 霧を越えし者

※ChatGPTで作成しています。

 谷の霧は、まるで命を持つように渦巻いていた。エシェリが異邦の男の手を取った瞬間、空気が一変し、耳の奥でひゅううという風の唸りが響いた。

 男の手は熱かった。だがその熱は、恐れでも敵意でもなく、ただひたすらに「生きたい」と叫ぶような熱だった。濡れた髪が頬に張りついている。足もとはふらついており、長くこの霧の中をさまよっていたのだとわかる。

 「立てる? わたしたち、案内するから……ついてきて!」

 言葉は通じなかったが、男はエシェリの目を見た。その瞳の奥で、ほんのわずかに霧が晴れたように思えた。

 エシェリとユナは、男を支えるようにして森の奥へと歩き出す。

 だが――。

 霧が、彼らを拒むように立ちふさがった。

 木々の間から風が鳴り、霧が逆巻いて足元に絡みつく。普段は静かなはずの〈ミルワ〉の霧が、まるで牙を剥いているかのようだった。

 「……霧神さまが怒ってる」

 ユナがぽつりとつぶやく。

 「まだ〈祭祀の火〉が灯ってないのに……どうして?」

 そのとき、霧の中に影が現れた。ゆらり、ゆらりと揺れながら、三つ、四つと増えてゆく。霧の民の長老たちだった。

 最前に立つのは、エシェリの祖母、〈聴き手〉のラウだ。細い体に編まれた草衣をまとい、右手には霧神から授かったとされる〈骨の杖〉を握っていた。その表情は、怒りでも悲しみでもなく、ただ厳しく、霧のように冷たいものだった。

 「エシェリ」

 ラウの声は、霧を裂くほどに鋭かった。

 「おまえは、何をしている」

 エシェリは言葉に詰まりながらも、男の手を離さなかった。

 「……助けたかったの。何も知らないで、霧に呑まれてしまうのが、いやだったの」

 「その心は尊い。だが、掟は掟だ。外の者を迎え入れれば、谷と霧神の均衡が崩れる。おまえはその責を負えるのか?」

 「……責なんて、わからない。でも、この人を見捨てるよりは……ずっといい!」

 ラウは、ふうと静かに息を吐いた。

 「ならば、おまえが“語り部”になる覚悟を持て」

 「えっ……?」

 「語り部とは、ただ物語を語る者ではない。谷と霧神と人のあいだに立ち、すべての罪をその身に引き受ける者だ」

 ラウはゆっくりと杖を地に突いた。その音に応えるように、霧が一瞬すうっと引いた。

 「おまえがこの者を助けるというのなら……その者の名を知り、心を聞き、過去を受け入れよ。それができぬのなら、おまえの言葉など霧神には届かぬ」

 谷の中央にある〈語りの囲炉裏〉。長きにわたり、語り部たちが火を囲んで霧神に物語を捧げてきた場所だった。

 エシェリはその男を連れて、そこに立っていた。ユナとラウ、そして十数人の民たちが彼女の背後に立ち、厳かに見守っている。

 「名前を……聞かなくちゃ」

 男はエシェリの言葉が理解できない様子だったが、エシェリは目を見つめた。

 「……あなたの、名前」

 男は少し戸惑ったが、ゆっくりと、ぎこちない言葉で答えた。

 「……カイル」

 「カイル……」

 言葉にした瞬間、囲炉裏の火がふっと揺れた。霧がわずかに揺らぎ、神の気配がそこにあった。

 「わたしは、エシェリ。〈ミルワ〉の谷に生まれた者です」

 そう言って、エシェリは両手を火の前に差し出した。

 「この者の語りを、私にください。カイルが何者なのか、なぜここに来たのか、わたしが語ります。それが掟だというのなら、わたしは――語り部になります」

 そのとき、炎が跳ねた。

 霧が、まるで祝福のようにゆっくりと渦を巻く。囲炉裏の炎が、淡く青白く光った。誰かの記憶が、霧のなかに流れ込んでくる――。

 カイルは、遠い西の国の兵士だった。戦に敗れ、逃れ、道に迷い、霧の谷に辿り着いた。

 夢のように流れる映像。馬の嘶き、炎の海、倒れる仲間たち。震える手で抱きしめた古びた木片――幼い娘の形見。彼の叫び、怒り、絶望。

 「……あの人、家族を……失ったんだ」

 エシェリの目から、自然と涙が零れた。霧が彼女の頬をぬぐうように流れ、囲炉裏の火が穏やかに灯る。

 「この人は、憎しみでも欲望でもなく……ただ、生きる場所を求めていただけ」

 民たちがざわめいた。誰かが、「霧が聞いている」とつぶやいた。

 ラウがゆっくりと前に出て、杖を掲げる。

 「霧神は、語りを聞いた。カイルと名乗る者は、今より〈試し人〉とする。七日間のうちに谷が彼を受け入れるか否かを、霧と神と語りが決めるだろう」

 静寂が、囲炉裏を包んだ。

 そしてその静寂の中、ラウは言った。

 「……エシェリ。おまえはもう、耳持たぬ子ではない」

 エシェリは、自分の中に何かが変わったのを感じた。

 それは恐れではなかった。むしろ、言葉にできないほど澄んだもの――まるで霧のなかで初めて朝日を見たときのような、始まりの感覚だった。


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