第一章 霧の谷の少女
※ChatGPTで作成しています。
その谷には、昼でも霧が立ちこめている。空が晴れても、風が吹いても、白く細やかな霧は地を這い、枝を舐め、谷間の家々の屋根をぼんやりと包み込んでいた。
エシェリは、霧のなかを歩いていた。まだ背の届かぬ草が朝露に濡れ、その冷たさが裸足の足裏に心地よかった。谷の人々は皆、靴を履かない。土の感触、草の囁き、虫の這う気配を足で感じることで、この谷に「聴く」耳を持つといわれていた。
エシェリは十と三つ。まだ「耳持たぬ子」と呼ばれる歳だが、この霧の谷〈ミルワ〉で生まれた子の中では、最も早く霧の声を聞いたという噂があった。
「……今日も、狩りに行くの?」
霧の奥から声がした。声の主は、ユナ。エシェリと同じ年頃の少女だが、彼女の瞳は生まれつき淡く、霧と同じ色をしていた。誰よりも静かで、よく笑い、けれどその笑いはいつもどこか儚かった。
「うん、鹿の痕跡があったって、お父が言ってたから。でも……今日はちょっと違う気がする」
「違う?」
「うん。なんだか、霧の匂いが変わってる。……ね、ユナ。谷の外に行ったこと、ある?」
ユナは霧のむこうを見つめたまま、すこしだけ黙った。それから、霧のように柔らかく答える。
「……ないよ。でも、夢では何度も行ったことがある。谷の外には、大きな水の流れがあって、空に近い木が立ってて、鳥の言葉を話す人がいるの」
「それ、昔語りでしょ?」
「でも、夢の中では本当なんだよ」
エシェリは笑って、肩をすくめた。
「そっか。でも、今日はちょっと、本当に見てみたくなったかも」
そのとき、霧のなかで「音」がした。誰の耳にも聞こえるような音ではない。谷に生まれ育った者だけが、足の裏と骨の髄で聞く音。〈霧声〉と呼ばれる、谷の声だった。
エシェリは息を止めた。霧声が二度、三度、鳴った。
「……誰かが、谷に入ってきた」
そう言ったユナの顔が、まるで霧そのもののように、すっと翳る。
◆
〈ミルワ〉の谷によそ者が入ることは、あってはならない。そういう掟だった。
この谷は、〈語り部の血〉を引く民が、遥か昔に「霧神」と契約を交わし、外の時の流れから切り離された場所。千年が一夜で過ぎるとも、逆に一夜が千年になるともいわれる。実際、谷の外に出て帰ってきた者は誰もいないし、外の者が入れば、霧に飲まれて骨も残らないと伝えられている。
しかし今、谷が「それ」を告げたのだ。
「急がなきゃ、〈祭祀の火〉が焚かれる前に!」
「……どうして?」
霧の中、ユナがエシェリに問いかける。
「祭祀の火が焚かれたら……この谷が、よそ者を霧で喰っちゃう! 霧神さまが、その人を『穢れ』って決めたら、もう助けられない!」
「でも、それが掟でしょ……?」
「それでも……! 死んじゃうかもしれないのに、何も知らずに霧に呑まれるなんて、あたし……それだけは、いやなの!」
叫び終えたエシェリは、肩で息をしていた。胸の奥に渦巻いていた何かが、声となって外に出ていった。小さな体にしてはあまりにも大きな衝動。それは、自分の中にあったと知らなかったほどの、はっきりした意志だった。
ユナは、何も言わなかった。
ただ、霧のなかでエシェリをじっと見つめていた。 目はやはり、霧のように淡く、輪郭のあいまいな光を湛えていた。
少しの間、静かな時間が流れた。
霧がふわりと流れ、ユナの髪がわずかに揺れる。 その中で彼女は、すっと手を伸ばした。 そして、エシェリの手を握る。
冷たく、けれど確かな手だった。
言葉はいらなかった。
その手の温度と力の込め方だけで、エシェリはわかった。 ユナは、ついてきてくれる。
エシェリが前を向いて一歩踏み出すと、ユナも黙って並んだ。 二人の足音だけが、霧に吸い込まれていった。
◆
エシェリとユナは、霧をかき分けるように走る。二人の足は迷いなく、谷の端にある〈月鏡の岩〉を目指していた。
そこは、霧の谷の唯一の入り口。巨大な石が月光を反射するため、「月の眼」と呼ばれていた。普段は何もないただの石だが、異なる気配が谷に触れれば、霧がそこを取り囲むようにざわめき始める。
やがて、岩の前にたどり着いた二人は、ひとりの男を見つけた。
男は異様な格好をしていた。金属のようなものを身にまとい、腰には奇妙な筒を携えている。目はぎらついており、肌は焼けたように濃かった。
「……人?」
ユナの声はかすかだった。
男も二人に気づいた。驚いたように一歩踏み出し、何かを叫んだ。その言葉は、二人にとってはまったく意味を持たない音の連なりだった。だがエシェリには、感じ取れた。
――助けを求めている。
霧がさざめいた。まるで、谷そのものが怒っているかのように。
「……ユナ、あたし、この人を……助けたい」
ユナは目を伏せ、何かを決めるように深く呼吸し、頷いた。
二人の少女は、男の手を取った。霧が渦巻き、咆哮のような風が谷を駆ける。
――その瞬間、エシェリの中で、何かが目を覚ました。
「……これは、語りの始まり」
誰の声でもない、もう一人の自分の声が、霧の中で囁いた。