第弐夜 アゲハモドキの舞う夜
「ど、ど、どこまで行くんですかああーー…っ?!」
「もう少し頑張って!!もうつくから」
(つくからって、だからどこに!)
そんな質問を言うような隙も余裕も、今の揚羽にはまるでない。ただただ、前を見てはし続けている。
息が切れ切れで限界くらいまで走っていくと、ふっと一瞬体が軽くなるような不思議な感覚になる。と、同時に、脇をさっと一つの影が走り抜けた。
「え?」
「天地晴明」
静かな歌…の様な、不思議な文言が聞こえる。
思わず振り返ると…そこには、白い着物に袴を着た男の人が立っていた。手には…日本刀のようなものを持っている。
気のせいか、その日本刀はうっすら光を放っており、何となくあの虫たちはそれを嫌がっているようだった。一瞬、青年はこちらを見、思いがけずが目が合う。
「!」
「え?!」
しかし…グルンと思い切り目をそらしてしまった。
「緋炎!あと頼んだ。…あれの退治は彼の専門だから」
「せ専門?え?妖怪??」
「もう、大丈夫。…ここまでくれば」
「!」
『?』マークが頭にたくさん浮かんでいると、それを忘れるくらい大きな家が目に入った。
まるで映画のセットのような大きく、まるで純和風の日本旅館のような趣。かといって決して古いわけではなく、門扉につながる小路に敷き詰められた玉砂利も、しっかりと手入れが行き届いている、
「…大きい」
思わずぽかんと口を開けていると…その家の周りは、先ほどまでおびただしく空を浮遊していた蛾がいないからかもしれない。秋特有の虫の声が聞こえて、いたって普通の光景だった。
「暁!」
がらがらと家の扉が開かれると、そこから現れたのは…着物を着た女性だった。
短めの髪をきちっと一括りにした女性は、揚羽を見て驚いた。
「…え?」
「あなた‥‥」
「母さん、この子」
あきら、と呼ばれた青年はこちらを複雑な表情で見た。
「あ、え え えっと、ひ、日月 揚羽といーます!!」
「ヒヅキ…ってまさか」
(あ、また…)
先ほど暁が見せたのと同じ表情。何かに怯えるような、どこか責め立てるような鋭い光。損表情を見ると、何か苦しくなる。
「あ…その」
どうすればいいのかわからず、おろおろしていると、揚羽はふっと暖かいぬくもりに包まれた。
「…あ…」
「……そう、あなたが、揚羽ちゃん。須世里の…」
「スセリって…お母さんの、名前?…なんで」
見知らぬ人が自分の名前を知っている。それに、母の名前も。
何となく恐怖を感じ、後ずさった瞬間…ぐぐう、と緊張感のない音が場を支配する。
「……」
「……まあ」
「ああ…」
(いや、その、ああハイ、みたいな雰囲気やめてください。)
真っ赤になっていると、再び追い打ちをかけるように更にくきゅるると、切ない音が鳴り響く。頑張って息を止めてみるけど、もう手遅れ。
(…穴があったら、入りたい)先ほどまでの不安よりも何よりも、この腹の音をどうにかしたい。
「ごめんね、おなかすいた?よかったらうちで少し休んでいきなさいな」
「‥‥ハイ。」
そう言って、着物の女性はにこやかに笑った。
「もうあいつらは澳津ヶ域に還ったよ」
突然、背後にめんどくさそうな男性の声が聞こえる。驚いて振り向くと、先ほどの袴の青年だ。
少し色あせたような茶色の短い髪、目つきは鋭くて、思わず委縮してしまいそう。
体が大きく見えるが…もしかすると、自分と同い年くらいかもしれないと思った。
「!」
「……何見てんだ」
「あ、と、そ その、ア、ありがとう、ござい ました…」
「……いや、別に」
「緋炎君、お疲れ様!…貴方もうちでご飯食べてかない?」
「…どもっす」
ぺこりと律儀に頭を下げる。
あれ、以外と礼儀正しい??ちらりと、彼と視線がぶつかると…ふいっとあからさまにそらされてしまった。
「…す、すみません…」
「何であやま…ッチ」
理不尽にも舌打ちをされてしまう。
「子供だな、緋炎」
「うるさいよ、あき兄」
「…きみ、揚羽さん。大丈夫。こいつ愛想は悪いけど、不器用なだけだから。…これからのことは、ご飯食べてから考えたら?」
(揚羽さん?!)
いきなりの名前呼びには不覚にもときめいてしまう。
「ええと…はい」
(もう行く当てもないし、疲れたし、もう夜だし)
結果、揚羽は色々と考えるのを諦めることにした。ふと見上げると…空はすっかり夜の闇に包まれ、先ほどまで乱舞していた蝶たちの姿が何処にもない。
すると、後ろからついてくる仏頂面をしている青年と目があった。
「あの…オウツ何とかって…」
「ああ…オウツガイキ。つまりは、俗にいうあの世という奴だ」
「あの世…」
ふと、言いようもない不思議な感情が沸き起こる。
(お母さんも…いたりするのかな?)
ぼうっとしていると、ちりん、という鈴の音がした。はっとして顔を上げると、揚羽の全荷物を持っていた暁が鳴らしたようだ。
再びちりんちりん、と涼やかな音がする。
「これ。綺麗な音だね」
「あ…はい。お母さんから、もらったお守りの鈴です」
「…そう。さ、どうぞ…ここなら、多分安全だよ」
(あれ?なんか、ぼーっとしてた…かな?)
急に現実に引き戻されたような妙な感覚は、しばらく消えなかった。
「お、おいひぃ」
多分、本日初めての飯である。
ふんわりとかおるお米のにおいがおいしさを倍増させる。すごい、ご飯ってこんなにおいしかったんだ。そんなことを改めて実感し、思わず目からほろりと涙が出てくる。
「あったかごはん…う、うれしい」
「お、落ち着いて。まだおかわりあるから、ね?」
「はい…ありがとうございます…」
「…い、今までどんな生活してたの?」
暁が微妙な表情でそう尋ねる。
「さっきも寝袋がどうとか…って、いて!」
なんだか話すと長くなりそうだし、どうこたえよう?そんなことを考えていると、着物の女性がにっこりとほほ笑み、その背中をバシバシと叩いた。
「あんたはもう食べ終わったんでしょ?食器の片づけ、よろしく」
「…わかりましたよ、母さん」
「緋炎くんと揚羽ちゃんはどんどん食べて!」
「はひっ」
「じゃ、遠慮なく」
おいしいごはんに、おいしい漬物、おいしいお味噌汁。
なんて幸せなんだろう…!妙なことに幸せをかみしめていると、さっと目の前にお茶が差し出された。
「まだ名前を言ってなかったね。私は日室 美早。あなたのお母さん…セリとは幼馴染になるわ」
「幼馴染っ?」
やっぱりお母さんの故郷はここだったんだ。
なんだかほっとして、ようやくひと心地をつけた気がする。
「…そう言えば、俺の名前も言ってなかったね。日室 暁。こっちは…」
「賢木 緋炎、」
(ひむろ、に、さかき)
何となく口の中で反芻してみる。
どこか懐かしいような不思議な感じがするのは気のせい?
「…あの、わ、私もこの村にいたことがあるんでしょうか」
「ええ。…もうずいぶんと前だけど」
そうなのか、と思いつつ、どこかしっくりこない。
「その、まったく覚えていなくて…私の母が亡くなる直前にここに行けって…」
言いながら、はっとなる。
美早が泣いている。
「…須世里、は本当になくなってしまったのね」
「……」
「揚羽ちゃん。…色々と大変だったでしょう?辛かったわね。…でも、もう大丈夫よ」
「っ…は い」
別に、誰かにそう言ってほしかったわけじゃない。
でも、つられてしまったのか、涙が流れて止まらなかった。
「…ただいま」
「あなた…嶺二さん、お帰りなさい」
時刻はすでに0時を回っている。
「ああ、緋炎君、君も来てくれていたのか」
「お久しぶりです」
「…父さん、どうでした?外の様子」
「今日はモドキがいつもよりも多い。…何があったんだ?
「うちの母も、何かを感じたみたいでしたけど…まさか、あいつがいるとは」
そう言って、緋炎はちらりとふすまの向こうを見やる。
「あいつ?…まさか」
「…彼女が帰ってきた」
暁がそう言うと、嶺二の眉間にギュッとしわが集まる。
「……還ってきてしまったのか」
「今はもうよく眠っているわ。疲れていたんでしょう」
「そうか…」
美早の言葉に、暁は複雑な表情を浮かべた。
「村の入り口で文字通り途方に暮れていて…飛月の家はどこか聞かれたよ。本当に何も覚えていなさそうだった」
「記憶がまるでない…ってこと?」
「…そうだね。単に覚えていないのか。それとも…それより母さん」
「何?」
たっぷりと間をおいて、暁は美早を見た。
「……なんか、変なこと考えてないよね?」
「変なことって?」
「例えば…その、あの子を」
「そうねえ…暁、あなた。手が早そうで心配」
「それどういう意味だよ?!」
「そのままの意味よ。ダメよ?可愛いからって!!…間違いを起こしたら容赦しないんだから!」
「何を馬鹿な…そんなことするわけないだろ?!!」
救いを求めるように振り返るが、嶺二は何度か咳払いをして見せた。
「まあ…若い男女が同じ屋根の下っていうのは…だが。まさか、他家にあの子を渡すわけにはいくまい」
「あー…それ分かります。賢木なんかに来たら、老害のくそじじぃがギャンギャン騒いで大変なことになる」
「緋炎まで…全く」
「うちは広いし、娘ができるみたいで嬉しいわね!」
「うーん…二階の手前の客室をそのまま渡そうか?その前に他家を説得させないとならないな」
「頑張ってね!嶺二さん!!」
「父さんまで…」
暁の想いとは裏腹に、既に両親ともに乗り気だったので、それ以上の追及はやめることにした。
「……はあ、それにしても…何で。記憶がないんだろうな」
「オレは、忘れてないけどな」
「…緋炎」
「忘れた事なんて、ない」
ぽつりと呟く緋炎の顔は、どこか切ない。
…その心情を推し量るのは想像に易いと思う。
「うん……村の入り口で会った時、本当に所在なさげで…ここしか頼るところがなかったんだろうな」
「…ったく、今までどこにいたんだ、あいつ…」
「村を一度出た者は…役目を全うするために何度でも元還るとは言うが…」
この蝶塚村はとても複雑なしきたりと習わしが今に息づいている。
村を出た者は、その後何かしらの事情でこの場所に帰ってきてしまう。村そのものが彼らを呼び戻しているのか、とも言われているが。
それとも、出ていくことすら、必然なのか。
「これが、天の思し召しととるか、それとも…」
「!!」
嶺二が小さく息を吐くと、何かに気が付いたように窓の外を見た。同じように暁も立ち上がると、閉め切っていたカーテンを思いきり開いた。
「父さん、今」
「ああ。…この禍々しい気配は、何だ?」