第壱夜 蝶塚村
彼女の一番古い記憶は、いつもここからだった。
その日は、雨が降っていた。
(雨…)
しとしとと、まるで細い糸のような雨が降り続いている。どこか強張った表情の母にまるで引っ張られていくように歩いていく。
「…どこいくの?」
「ごめん」
ざくざく、と一歩ずつ歩く度、買ってもらったばかりの赤い長靴が泥で汚れていくのを、切ない気持ちで見ていたのを覚えている。
母の手はとても冷たくて…痛いくらいにギュッと手を握っていた。小さいからだで見上げるその姿は、何かに怯えているかのよう。
「…すぐに、いかないとだめ?」
「そうよ、揚羽。すぐにここを出ないといけないの」
「でも○○にも、○○にも…きちんとバイバイしてないよ」
「もう、二度と会うことないの。忘れなさい」
その時、誰かの名前を口に出したはずだが、そこはよく覚えていない。
ただ、後ろ髪ひかれるような、申し訳ないような、何か後ろめたいような…どこか胸が苦しく寂しく感じたのを覚えている。
ちょっと大きめで、ぶかぶかの雨具では、フードが顔にかかって前が良く見えなくて…。でも、何度も何度もうしろをふりかえった。
「おかあさん。て、いたいよ…」
「ダメ。振り返っちゃダメ…」
そうつぶやく母の顔はどこか冷たくて恐ろしくて…不安な気持ちになる。
その時、背後から誰かに呼ばれて。
…そこまで。
「次は、蝶塚、です」
ガタン!
突然バスが揺れた。
「!」
薄っすらと赤の混じった白い光が窓から差し込み、揚羽は目を瞬いた。
…頭がぼーっとしていて、一瞬ここはどこだろう、と考えてしまう。
「あ、そうか…もう」
ごしごしと目をこするけど、やっぱり頭に霧がかかったようで、まるで現実味がない。気を取り直し、何度か深呼吸をして、窓の外を見て…愕然とする。
「なんっも…ない?」
見渡す限りの木々と、草むらばかり。今来た道は細い二車線の道路が果てしなく続いているのに、逆側は車一台通れるか通れないかの細い山沿いの道が一本。
やがてバスがゆっくりと速度を落としていき…目的の場所に到着した。
すると、運転手は少し心配そうに尋ねた。
「お嬢さん、本当にここでいいのかい?」
「は、はい。ありがとうございます」
「このバスはもう回送に変わるんだ。…次のバスは明日の昼だよ?」
「大丈夫です!」
バスの運転手は、律儀に礼をする心細そうな後ろ姿の少女を見ながらため息をついた。
「相変わらず薄気味悪い場所だなあ、…あの子、大丈夫かね?」
「わお、絶景」
到着した時刻は、丁度夕暮れ時。
遠くに見える山影は、朱色の光を受け黒い稜線を造り、その手前には果てしなく森が広がっていた。
「んしょっと」
この新天地への唯一の旅の友、大き目のカバンを持ち上げる。するとちりりん、と取っ手に付けた蝶の形の鈴が涼やかな音を立てる。
「…ここで、あってる、よね…?」
太陽が沈んでいくのと同じくらい、揚羽の中の自信はみるみる暗くなっていく。心細い思いでジャケットのポケットに入れていた小さな紙切れを取り出した。
流麗な母の字で書かれた一文字『蝶塚村』―――バスの標識を見る限り、ここで間違いなさそうだ。
「ここからどう行けばいいんだろう?…もう日暮れ時で、次のバスもないし」
きょろきょろとあたりを見渡すも、右に林、左に森。
正面には、遠ざかっていくバスと、延々と長く伸びたアスファルトの道路が見える。脇の方に…獣道?らしくほっそい小道があるんだけど
「……ええと」
『村』というからには、覚悟をしていたつもりだったけど、ここまで何もないなんて。
道に迷ったら、と考えるだけどげんなりする。
「い、一応、寝袋は…ある!から だい、じょうぶ…」
その時、ひゅう、と冷たい風が通り抜ける。…まるで自分を歓迎しないかのようなこの風のせいで、小さなくしゃみが飛び出す。
(うう。…まだ、3月になったばかりだもんね)
むしろ雪がないのを幸運と思うべきだろう。声だけでも元気を出そうと、大きな声を出す。
「いくぞ!!」
覚悟を決めて一歩前に進む。
「ホッカイロ、だしとこ」
ごそごそと鞄の中を探っていると…再び吹いた風に、絵葉書が一緒に落ちてしまった。
「…ここに、いるんだよね、ヒヅキ…さん」
先日、母が亡くなった。
…父は知らない。ずっと前に死んだと聞かされていた。
「…ごめん、揚羽。私が死んだら、この蝶塚村のヒヅキ、という家を訪ねなさい」
「蝶塚村?」
「…揚羽もずっと昔に住んでたのよ」
そう言って母が見せてくれたのが…この、ただの何処かの山間の殺風景なだけの景色が描かれた絵葉書。
差出人は、『飛月 天馬』という名前で、メッセージも何もない。色鉛筆で塗られた、都会とかけ離れたのどかな風景は、今まで見たこともない場所だった。
身よりもない揚羽が唯一頼れるのは、この『飛月』という親戚らしき苗字の人間しかいない。ただ、心配なのは、揚羽の苗字は同じ『ヒヅキ』でも、字が違う。
「日曜の日に、月…だけど、ほんとはこっちの字なのかな?」
そしてもう一つ…母の死に、親族は誰も来なかった。
母の死は簡素なもので、職場の同僚らしい女性と、病院の看護師さんだけ。揚羽自身、生まれてから誰かの墓参りのような物には一度も行っていない。
父ですら、どのお墓にも入ることなく、母は手元に持っていたのだ。
「ごめんねえ、揚羽ちゃん。…うち、賃貸だから」
「い、いいえ!だいじょうぶです!!親戚がいるらしい、ので…」
遺品整理、なんて言っても、ほとんど何もないに等しい。
ただ、少しだけの家具と、母が必死にパートで貯めた貯金があるだけ。
最低限の生活はできるだけの家具はあるけど、それを維持する宛も何もなく…身寄りもない、15歳になったばかりの揚羽には、他にどうすることもできなかったのだ。
スマホというものがもう手元になく、絵葉書の場所は、ネットカフェで調べた。
何とか場所を特定でき、なけなしのお金でようやくここまでこれたのだ。もう後戻りなど、できるはずもない。
「無計画、過ぎたかな…せめて、このヒヅキさんも連絡先位書いてくれればいいのに…」
日はもう落ち、辺りが真っ暗になる前にここから抜け出さねばならない。ひたすら歩いていくと、遠くに家の灯りのような物が見えたので、そこを目指す。
(うん、泣き言を言ってもしょうがない)
まだ春の風冷たく、身にしみて泣きそうになるのをぐっとこらえ、顔をあげた。
すると、目の前をひらひらと大きな蝶が横切った。
「あ…蝶?」
アゲハ蝶が、この夕焼け時に?
そう思って上空を見上げると…どこから飛んできたんだろう?
一見すると揚羽蝶に見えるその蝶の模様はどこか違う。鮮やかな黄色はくすんでいて、全体的に黒ずんでいる。後ろの羽根揚羽蝶によく似赤い斑点と、黒い筋が見えるが…なんだかそれすら不気味な顔に見えてしまいそうだ。
「えっ…?これ蝶、じゃないの?」
それが、いつの間にかおびただしいほどの数の蝶…らしきものが頭上を飛んでおり、しかもやたらと揚羽を取り囲むように飛んでいる。
「な、何か…怖い」
ぞぞっと背中に悪寒が走る。
―――この蝶はどこか不吉。
揚羽の直感がそう告げている。やや下りに差し掛かった荒い道を下り、逃げるように走るのが、なぜかその虫たちもこちらに向かってくるではないか。
「や、やだ」
半ば鞄を抱きかかえるように全力疾走していると、ぬっと目の前に大きな人影が現れて道をふさがれた。
「?!うひゃあああっっ」
「あ、…ごめん、大丈夫?」
思った以上に爽やかな声に思わず顔をあげる。
長めの前髪がはらりと落ち、心配そうにこちらを覗き見る青年。
(わあ、なんだか拝みたくなるくらい綺麗な顔…!)
頭一つ分自分より大きいであろう男性に思わず見とれてしまいそう。すぐに我に返ると、ばっちり目があった。
「あ、あの、蝶塚村ってここですよね?」
「…そうだけど」
青年は不審そうにこちらを見ている。が、やがてすぐさまさっと顔色が変わった。
「……きみ、この村の人じゃないね」
「え。ええと、ヒヅキさんって人を探していて…」
「ヒヅキ?」
その名前を口に出した途端、彼の目に鋭い光が宿り、やがて何かを考え込むような表情を見せる。
(え?な、何かやばいのかな…?)
「…残念ながら、あそこは人の住める状態じゃないよ」
「え?!」
驚きのあまり、つい、大口を開けてしまう。
(ウソ!正直に言うと、何もないこの場所で、唯一の希望だったのに…っ!)
「こ、ここ ココみ 民宿とかって」
「いや…残念ながら」
絶望。
ああ、どうしよう、今晩。
「え、えと、歩いて中心部までは…」
「ストップ」
確か、ここまでバスで2時間くらいかかったような。
そんなことを考えておろおろしていると、その人は何かを気にする素振りであたりを見回した。
「…集まってきたな」
「え?」
「ここは危ない。こっちに来て」
「え?危ないって…」
「後ろ」
何のことだろう、と彼の視線を追い…揚羽は再び言葉を失った。先ほど私にまとわりついていた虫が大量に集まってきてるのだ。
「ひいい?!」
「モドキがいつもより多い…君、振り返らずにそのまま走って!」
「は、はいい!?モドキ?!こ、こに蝶だか蛾だかの蟲のこと??」
彼はバッとカバンを奪うと、そのまま揚羽の手を引いて軽やかに走り出す。
必死に追いかけるが、その俊足に到底追い付かない。
「はあはあ、ま、待って…!」
そうこうしていると、ひらりと一羽の蛾が舞い降り、服にぴたりと張り付いた。大きく羽を広げて止まるとそれは、揚羽の広げた両手程の大きさだった。
「っっぎゃぁあー--!!私の手より大きいってどういうこと!!!」
間髪入れずに叫ぶと、ふと、耳元で誰かの声が聞こえた。
―――おかえり、揚羽。待ってたよ
その声は、とても優しく聞こえるのに…どこか底知れぬ恐怖を感じた。
ふと、気づく。
(あれ?走ってたのに、なんで声が)
空耳?と、思わず後ろを振り返ると、ひらひらと羽ばたく虫の群れの中に、長い髪をなびかせた女の人を見た気がした。それと…仮面の男性。
「え?」
かちん、と頭の中で何かが結びつく。
…あの人を私は知っている気がする。昔、どこかで会ったことあるような…でも。
すると、突如自分の肩に衝撃を感じ、我に返った。
「ひゃあ?!痛い?!」
じゃらん、という聞きなれない音が聞こえた。
…それは、彼が持つ黒い数珠だった。
(この人お坊さん?!)
「それにあまり集中するな!…つれていかれる」
「つれ…?!」
先ほど見た人影はもういない。その代わりに物凄い量の蛾が空中を乱舞しているのが見えて、慌てて私は前方に集中する。
「も、もういやああ!!!」
そして、訳も分からず走り出したのだ。
土着信仰的な世界観で、過去になくした記憶とその村に伝わる民話を辿っていくような話です。鬼と天女伝説がベースで、恋愛に関しては、よくある鈍感主人公ということで。