結婚式前日に逃げられた俺。元カノと再会する。
「──結婚は考えられない、やっぱり無理。」
その一言が、俺の人生を丸ごとぶっ壊した。
俺──三浦悠斗、27歳。
明日は大手ホテルでの盛大な結婚式のはずだった。
仕事も順調、貯金もある、婚約者の茜は美人で性格も明るい……すべてが完璧な未来だと思っていた。
──それが、彼女の突然の言葉ひとつで崩れた。
「……何言ってんの、冗談だろ?」
俺は彼女の顔を見つめた。
だが、茜の表情は真剣そのものだった。
「ごめんね。でも……本当に無理なの。悠斗のことは好きだけど、それ以上に怖くなっちゃったの。」
その時の俺の頭の中は真っ白だった。
好きだけど怖い?どういう意味だ?頭が追いつかない。
「明日、式だぞ……?全部準備終わってるんだぞ?もう親戚にも案内出してるし、キャンセルなんてできるわけ……」
必死で理屈を並べる俺を、茜は悲しそうな顔で遮った。
「本当にごめんなさい。でも、結婚したらもっとあなたを傷つける気がするの。だから今のうちに……」
「今のうちに?ふざけんなよ!」
声を荒らげた俺に、茜は目を潤ませた。
まるで彼女が被害者みたいな顔だった。
「私、荷物は全部昨日のうちにまとめてるの。友達の家に泊まるから……もう行くね。」
「待て!」
叫んだ時にはもう遅かった。彼女は俺の家の鍵をテーブルに置き、振り返ることなく出て行った。
その瞬間、俺の中に残っていた何かが音を立てて崩れた気がした。
******
翌朝、俺は起きることができなかった。
いや、正確に言えば眠れもしなかったのだ。
ソファに倒れ込んだまま、彼女が出て行ったドアをずっと見つめていた。
机の上には式の招待状が山のように積まれている。結婚式場の契約書、プランナーとのメールのプリントアウト、二次会の手配書。
どれも昨日までの俺にとっては未来そのものだった。
でも今はゴミだ。全部、ただのゴミ。
「……どうするんだよ、俺。」
声に出しても虚しかった。現実は何も変わらない。
親には何て説明する?会社の同僚には?友人たちには?茜が逃げたことを正直に話すのか?それとも何かもっとマシな嘘をつくべきなのか?考えれば考えるほど胸が締め付けられる。
「……最悪だ。」
茜に愛情がないわけじゃない。
それでも俺は怒りを抑えられなかった。俺の人生をどうしてくれるんだよ。
ここまで築いてきた俺の努力をどうしてくれるんだよ。
泣きたくはなかった。
でも、込み上げるものを抑えられなかった。声を殺し、必死に拳を握りしめる。
……それでも涙は止まらない。
俺の心にはぽっかりと穴が空いていた。それも、埋める術なんてないほど大きな穴が。
そんな状態で動けるわけもなく、夕方になっても俺は家から一歩も出られなかった。
昼過ぎに親から電話があったが、出る気力もなかった。
スマホの画面を見つめるだけで体が鉛のように重くなる。誰とも話したくなかった。
だが、そんな俺の元に容赦なくやってきたのは、大学時代からの友人・健吾だった。
「……おい、悠斗。生きてるか?」
合鍵で入ってきた健吾は、俺の姿を一瞥してため息をついた。
「……まあ、そうなるよな。」
「帰れよ。ほっといてくれ。」
「無理。お前が式場にキャンセルの連絡入れてないの、さっきプランナーさんから聞いたぞ。とりあえず、電話してくれ。じゃないと迷惑かかるから。」
「……無理だよ。」
「だから無理でも何でもやれっての!」
健吾が強引に俺のスマホを持たせようとする。だが俺は力なく突っ伏した。
「もう……どうでもいいだろ……」
「おい、悠斗……」
健吾が諦めたように黙る。
数分の沈黙の後、健吾は口を開いた。
「じゃあ、ちょっと出かけるぞ。」
「は?無理だって。」
「いいから。行くぞ。もう連絡は俺からしとくから」
そう言って健吾は俺の腕を引っ張った。
******
連れて行かれたのは近所の居酒屋だった。
「とりあえず飲め。愚痴でも何でも言え。」
目の前に置かれたジョッキを見つめても、飲む気にはならなかった。俺が一口つけたところで健吾が口火を切った。
「まあ……お前の状況は最悪だよな。俺だって茜さんのこと信じてたし、まさか逃げるとは思わなかった。」
「……だよな。」
「でも、だからって一生落ち込んでるわけにはいかねえだろ?明日の式がキャンセルになっても、お前の人生は終わらないんだから。」
その言葉に、俺は心底苛立った。
「簡単に言うなよ!俺の気持ちなんてお前に分かるわけないだろ!」
「わかるよ。俺だってお前みたいな経験……」
健吾が何か言いかけたところで、店の扉が勢いよく開いた。
「ごめん、遅れちゃった!」
その声に顔を上げると、そこに立っていたのは……俺の高校時代の元カノ、桜井瑞希だった。
「……え?」
思わず呆けた俺を見て、瑞希は少しだけ困ったように笑った。
「あ、久しぶりだね、三浦君。」
信じられない。俺の人生最悪のタイミングで、なぜ彼女がここに……?
******
「久しぶりだね、三浦君。」
桜井瑞希──俺の高校時代の元カノが、突然目の前に現れた。
動揺して言葉を失った俺をよそに、瑞希は健吾の隣の席に座り、慣れた手つきでビールのジョッキを手に取る。
「お疲れさまー。乾杯!」
俺が何も言えないまま見つめていると、瑞希が不思議そうに首をかしげた。
「どうしたの?そんな顔して。」
「……いや、どうしたもこうしたも、なんでお前がここにいるんだよ。」
ようやく言葉を絞り出すと、瑞希は笑みを浮かべて健吾に目をやった。
「だって健吾君が『ちょっと助けてくれ』って呼ぶからさ。久しぶりに飲みに来たらいきなり君の愚痴を聞くことになるとは思わなかったけど。」
俺は驚いて健吾を見た。
「おい、どういうことだよ。」
健吾は肩をすくめる。
「お前があまりにも落ち込んでるからな、頼りになりそうな人に助けてもらおうと思ったんだよ。桜井なら昔のことも知ってるし、話しやすいだろ?」
「話しやすいって……俺、瑞希と別れてから一度も会ってねえんだぞ?」
「だからこそ、だ。」
健吾はそれだけ言って、ジョッキを一気に飲み干した。
瑞希は目の前の枝豆をつまみながら、俺をじっと見ていた。
「……三浦君、そんなにひどい目に遭ったんだ?」
「まあな。」
それ以上言葉を出す気にはなれなかった。まだ頭の中が混乱している。
それに、瑞希とこうして向き合うのはどうにも居心地が悪い。
高校時代、俺たちは付き合っていた。
でも、最後は俺が振ったんだ。理由は単純。
大学進学を機に、もっと自由で「将来性のある」付き合いがしたいとか、そんな身勝手な理由だった。
あの時の瑞希がどんな気持ちだったか考えたこともなかった。
「……ごめんな。」
つい、口をついて出たその言葉に、瑞希は少しだけ驚いた顔をした。
「え、何が?」
「いや、その……高校の時のこと。」
瑞希は一瞬黙り、そして吹き出した。
「なにそれ。今さら謝ること?あたし、そんなのもう気にしてないけど。」
その軽い調子がかえって胸に刺さる。彼女は本当に気にしていないのか、それともそう見せているだけなのか。
どっちにしろ、俺が触れるべき話題ではない気がした。
「で、話を戻すけどさ。結婚式直前で逃げられるなんて、災難だったね。」
瑞希はジョッキを置きながら、あっけらかんと言った。
「おい……それ言うか?」
「ごめんごめん。でも事実でしょ?私ならそんな奴、スパッと忘れるけどな。」
俺はむっとした顔をしたと思う。瑞希はそんな俺を見て肩をすくめた。
「だって、逃げるほうが悪いんじゃん。三浦君が悪かったってわけでもないでしょ?」
「それは……そうかもしれないけど。」
「なら、さっさと切り替えなよ。そのほうが絶対いいって。」
瑞希の言葉は正論だった。だけど、その正論を受け入れられるほど、今の俺は強くなかった。
「切り替えろって……簡単に言うけどさ。」
「簡単に言ってるんじゃないよ。」
瑞希が急に真剣な顔になった。
「でもね、悠斗。ぐじぐじ引きずってたって、何も変わらないよ。茜さんが帰ってくるわけでもないし、明日の式が急に復活するわけでもない。だったら、今ここでリセットするしかないじゃん。」
彼女のまっすぐな瞳に圧倒され、言葉が詰まる。
瑞希の言葉は、俺の胸の奥にズカズカと入り込んでくるようだった。
その後も瑞希と健吾の二人に押し切られ、なんとか酒を飲み、話をした。
瑞希が話題を変えてくれるおかげで、俺は少しずつ気が紛れた。
だけど、店を出た後、瑞希がふと真剣な顔で言った。
「悠斗。明日、一緒にどっか行かない?」
「……は?」
「まあまあ。とりあえず、行きたい場所があるんだ。詳しいことは明日話すけど、朝迎えに行くから準備してて。」
一方的に話を進める瑞希に困惑する俺をよそに、彼女は健吾に軽く手を振り、そのままタクシーに乗り込んだ。
「なんなんだよ……」
つぶやいた俺の横で、健吾がニヤリと笑った。
******
翌朝、瑞希は本当に俺の家に迎えに来た。
「おはよ、三浦君。」
ドアを開けると、瑞希が笑顔で立っていた。片手にはコンビニで買ったらしいコーヒーの缶が2本握られている。
「ほら、飲んで。眠そうな顔してるよ。」
「いや、昨日寝たの遅かったし……」
「あたしも。ていうか、今起こしてなかったら一日中寝てたでしょ?」
図星だった。何も言い返せず、缶を受け取る。
「で、どこに行くんだ?」
「まあまあ、お楽しみってことで。」
瑞希はにっこりと笑った。その無邪気な表情を見ていると、昨日までのどんよりした気分が少しだけ軽くなるのを感じた。
車に乗って、瑞希に連れて行かれた先は、俺たちが高校時代によく通った公園だった。
駅から少し離れた静かな場所で、芝生広場と小さな池があるだけのシンプルな公園。
地元の人しか来ないような隠れたスポットだ。
「あー懐かしい。ここ、よく来たよね。」
瑞希は車を降りると、懐かしそうに広場を見渡していた。俺もなんとなく昔の記憶がよみがえってくる。
「覚えてる?あたしがここでお弁当作ってきたら、三浦君が『味濃すぎ』って文句言ったこと。」
「いや、それはお前が醤油を入れすぎただけだろ。」
「でもさ、ちゃんと全部食べてくれたよね。優しいところもあったじゃん。」
瑞希がくすくす笑いながらそう言うと、俺もつい笑ってしまった。
「あったな、そんなこと……」
俺たちは広場のベンチに腰を下ろした。瑞希が缶コーヒーの残りを飲み干し、ふと真剣な顔になった。
「昨日は、ちゃんと話せなかったけど……実は、悠斗のことをずっと気にしてたんだ。」
「気にしてた?」
「あたしが高校卒業してからさ、いろいろあったけど……結局、あの頃のことが頭に残ってた。悠斗とちゃんと向き合わなかったことが。」
瑞希は遠くを見るように目を細めた。
「だから、健吾君から連絡もらった時、正直迷ったけど……行かなきゃって思ったんだよね。あのまま逃げてばかりじゃ、あたしも前に進めない気がして。」
俺は思わず彼女を見つめた。
「……俺のこと、まだ恨んでるか?」
瑞希は苦笑した。
「うーん、ちょっとだけ?」
「おい。」
「あはは。でも、もうそんなことどうでもいいかな。悠斗も今すごく辛いでしょ?だったら、恨むより力になったほうがいいじゃん。」
瑞希の言葉には裏表がなく、素直だった。
俺が振った相手なのに、なんでこんなにも俺を気にかけてくれるのか。その優しさが心にしみた。
昼頃になると、公園には親子連れやカップルが増えてきた。瑞希は木陰のベンチでのんびりと日向ぼっこをしている。
俺はぼんやりと、隣に座る彼女を見た。
「……なんか、お前変わったな。」
「そう?どこが?」
「高校の時は、もっとさ……ガツガツしてたというか、前に出るタイプだった気がする。」
瑞希は「そっかぁ」と笑った。
「まあ、いろいろあったからね。仕事で揉まれるうちに、丸くなったのかも。」
「仕事って、何してるんだ?」
「今はイベント企画の会社で働いてるよ。ステージ作ったり、司会進行したり。忙しいけど、楽しいかな。」
「へえ……似合ってるかもな。」
「でしょ?」
瑞希は胸を張って得意げに笑った。その笑顔を見て、なんだか心が温かくなった。
帰り道、車の中で瑞希がふと呟いた。
「ねえ、悠斗。」
「ん?」
「これからどうするの?」
その問いに、俺はしばらく黙り込んだ。正直、自分でも分からない。だけど……。
「少しずつだけど、前に進もうと思う。」
瑞希が俺を見る。
「そう。それが一番だね。」
彼女のその言葉には、どこか安堵の色が含まれていた。
瑞希は俺の家の前まで送ってくれた。そして別れ際、少し躊躇うような素振りを見せた後、こう言った。
「もしまた迷ったら……いつでも連絡してね。」
「……ありがとう。」
瑞希は柔らかく微笑んで、手を振りながら去って行った。
彼女の車が見えなくなった後、俺は空を見上げた。
茜に逃げられたことで、すべてが終わったように思えた。
でも、瑞希と話しているうちに、少しずつだけど「終わりじゃない」って思えるようになっていた。
もしかしたら、瑞希との再会はただの偶然じゃないのかもしれない──。
俺はそう思いながら、部屋に戻った。新しい一歩を踏み出すために。
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