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一般向けのエッセイ

ユーチューバーやインフルエンサーの炎上

 最近、ユーチューバーとかインフルエンサーが失言して叩かれたという記事をよく見ます。


 内容は大抵どうでもいい事で、差別的な発言であるとか、暴言とか、そんな感じです。世間的、一般的には(良くない事)なので、批判され、炎上したりします。


 しかし、インターネットの検索機能を使って検索すると、ファンの人は、タレント(的な人)を擁護する人が多い。「それの何が悪いんだ!」「そう言って、何が駄目なんだ!」という感じです。


 このギャップというのは、そもそもインフルエンサーとかユーチューバーとかいったものが、私的なノリを周囲にばらまいて、それに対してファンが称賛するという形式が原因になっていると思います。インフルエンサーやユーチューバーは、あくまでも私的な、一部の人間がわかる「ノリ」で受けているので、その「ノリ」のまま発言していたら、いつの間にか世間の目に見つかってしまい、気づいたら叩かれるという構造です。


 これは私的なノリが、そのまま公的なものへと接続してしまうネット社会の在り方をよく示しているとも言えます。もう少し踏み込んで言えば、この社会そのものが、私的なノリを集団に広げて、「公的なもの」がなくなってきているという事です。


 例えば「背の低い人間には人権がない」という発言が炎上する。これを見ているファンは、あくまでも配信の「ノリ」の中で聞いているので、それを公的な領域に持ち出されると少し違う、と感じるのでしょう。


 私が問題だと考えるのは、これらのユーチューバーやインフルエンサーが炎上する発言をする事ではありません。それよりも、公的なものへの希求を失い、ただ全てが各自の「好き嫌い」だけで決定されるような、そんな世の中の変化です。


 こうしたユーチューバーやインフルエンサーが人気であるという事が、そうした「私的社会」への移行を示していると私は思います。


 これは私のまわりの人間を観察していても、実感される事です。彼らは、「みんな違ってみんないい」「自己肯定」の論理で育っているので、主観を客観視する視点を持っていないし、それを持たなければいけない、という考えもまったくありません。「楽しんでいるから、何が悪いの」という感じです。


 しかし、そもそも「主観を客観視する視点」という言葉の意味も伝わらないだろう、と思います。「それもあなたの主観でしょ?」と人が言うのが聞こえてきそうです。


 全てがそれぞれの主観に過ぎないのなら、その主観を集めたものが、一番価値があるものだという事になります。それがどれほど、客観性を欠いた偏頗なものであっても、それは素晴らしい、となります。


 自分の「好き」や「嫌い」でしか価値判断ができない社会は一体、どこへ向かうのでしょうか。


 私は最近、歴史を勉強していますが、ある社会集団が成長していく過程においては公的なものへの追求があるのではないかと考えています。公的なものへの追求、ある理想への到達が目指されるのですが、一旦、完遂してしまうと、それぞれの人間は満足してしまい、自己の快楽や利益だけを追い求めるようになり、怯懦で脆弱な存在になってしまい、滅びます。


 わかりやすく言えば、貧乏人が頑張って金持ちになり、金持ちになると満足して、自己の快楽だけを求めるようになり、怠けて働かず、どんどんと凋落していっているのにいつまでも過去の幻想にしがみつき、他の人間に追い抜かれてもそれを認めず、最後には、自分の幻想を抱いたまま死んでしまう、というような事です。


 今の社会はそんな状態ではないかと思います。それぞれの人間が「自分」というものを大切だと思い、私事に閉じこもり、パーソナルな発言に「共感」したり「反発」したり、そういうゲームをひたすら繰り返す。こういう集団は、何かの為に命を賭けて戦う事もできないし、そんな機会があれば、怯えて逃げ出します。この集団は緩やかに衰亡していくのだろうと思います。


 最もこの衰亡は緩やかなものなので、私もまた、死ぬまでこの社会の破滅を目撃する事はないのかもしれません。ただ、衰亡の後に破滅があるのは確かであるとは思っています。


 私事に耽る社会の衰退は、「自分を大切にする」とか「好き嫌いでいい」という美名の下に静かに進んでいます。インフルエンサーやユーチューバーの発言の炎上、あるいは擁護は、そうした衰退の過程で起っているのでしょう。


 そこでは、戦って勝ち取られるべき公的なものはどこにもなく、あるのはただそれぞれの「私」に共感するゲームであり、このゲームは「私」の消滅、即ち、死という現象によって終末を迎えます。これほどまでに「私」にしがみつく現象はそれを越えるものを自らの内に持たないので、ゲームのプレイヤーが死ぬ事は、本当に全てが終わっていく事を意味するのでしょう。


 聖書には次のような言葉が記載されています。この言葉の中では、現代とは違う意味で生死の問題が考えられています。


 『一粒の麦は地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが死ねば、多くの実を結ぶ』




 注:この文章に反論があるとすれば、「公的なものもまた、私的な欲望の総合に過ぎない」というものでしょう。これはその通りですが、現状、そこまで頭が回らないので、これは宿題とさせてもらいます。



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― 新着の感想 ―
[一言] その「好き、嫌い」の感情で政治を判断し、左右ともに先鋭化してる人たちがいますね。残念なことに、そういった人たちほどSNSの活動が活発であり、そこから左右の対立が深刻になっていることに危惧して…
[一言] でも公的な追求をした結果歴史が示す通りに他者を虐げ支配して最終的にはキューバ危機という核戦争で地球滅亡一歩寸前まで行きましたよね。 公的なもののためには人間は反対意見をそれこそ殺すことで退け…
[一言]  公的なもの・理想への追求とその完遂による滅亡という点でいうと、余り一般には知られていないところで言えばイブン・ハルドゥーンのアサビーヤ論がありますね。  イブン・ハルドゥーンは中世イスラー…
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