はじまりの気持ち
そんなある日のことだ。珍しく、リリアではなくレアリナにお茶に誘われた。レノンだけではなく、レノンの母であるオーフィリナも一緒で、けれどリリアは不在の場。まさかなにか粗相でもしてしまっただろうかと不安も抱く中、レアリナに真剣なまなざしで見つめられる。思わず、のどが鳴った。
「実は、おふたりにおはなししておきたいことがありますの」
「……おはなし、ですか? レノンにも?」
「ええ。むしろレノン殿下にこそ関わることなのです」
どきりとする。母であるオーフィリナも美しいひとなのだが、レアリナのそれは他と一線を画し、まるで彫刻のよう。そんなひとにまっすぐに見据えられれば、やましいことなどないはずなのに、心臓がきゅっと縮むような気さえした。
「……私に、ですか?」
震えないように。王族としての威厳は、いついかなるときも。膝の上で握った両手はテーブルで隠れて見えないからセーフとして、浮かべようとした笑みが引きつってしまったような気がするのは減点か。……震えないよう気をつけたせいで若干声音が上擦ってしまったのもよろしくはない。
けれど、念のためレノンは形式的な態度で臨んだこの場は、レアリナによる私的な場であると前置かれている。ゆえに、レノンがどんな失態をしようとも、あまりに礼儀に反すことでもない限り咎められることはない。
「ええ。実は、リリアのことなのだけれど……あの子、レノン殿下のお嫁さんになりたいと言い出したのです」
「…………え?」
困った子ね、とでも言いたそうに頬に手を添え溜息をもらすレアリナに、レノンもだがオーフィリナも目を瞬かせる。
「……リリアちゃんが、レノンに? そんなに懐いてもらっていたの?」
「え、えーと……。懐いては、くれていると、思っていましたが……」
ちょっとしどろもどろになってしまう。
けれどレノンの脳裏にはついこの間のリリアの発言が過ぎっていた。
「リリアね、おおきくなったらおにいさまのおよめさんになるわ!」
「え、お嫁さん?」
「うん! おにいさま、リリアのこと、おにいさまのおよめさんにしてくれる?」
「それは……。……そうだね、リリア嬢が大きくなって、そのときに気持ちが変わっていないようだったらね」
「ほんとう⁉ それならぜったいにだいじょうぶよ! やくそくだからね、おにいさま!」
……というやりとりをした覚えは、ある。ちいさなこどもの言うことだし、どうせ成長とともに忘れてしまうだろうな、という一抹のさみしさとともに指きりまでした。はるか東方の国で伝わる約束事を結ぶ際の一種の儀礼的なそれを、よくリリアが知っていたなと感心したものだ。
いや、まさかあれは本気だったのか?
さすがにレアリナにまではなしていたとは思わず、どうこたえていいものか悩んでしまう。そもそも三歳にも満たないこどもの言うことだ。レアリナとて本気にするとは思えなかった。
レアリナもそんなレノンの内心を理解しているのだろう。ゆっくりとくちを開く。
「まだこどもの言うことですもの。いつこころ変わりをしてしまうかと思う気持ちはわたくしにもありますわ。……けれど、変わらない可能性もあると思いますの」
「それは……そうかもしれないけれど……」
「ええ。ですから念のためお二方におはなしをさせていただこうと思いましたの。レノン殿下、不躾だとは存じますけれど、リリアとの婚約、および婚姻がどのような効果を齎すかはご理解いただけますか?」
どのような……。それはもちろん、政略的な意味だろう。
リリアが懐いてくれるのはうれしい。まだこどもとはいえ、お嫁さんにして、などとかわいい妹分に言われてデレデレするなというほうが難しいというのも事実。
だけど。
だけど、レノンはゴルトン王国の王子で、先代の王からも許諾された次期国王となる存在。リリアとて、ビスタリア王国の侯爵令嬢だ。お互い、恋愛感情だけで婚姻関係を結んでいい立場にはない。
そう、恋愛感情だけでは。
「……そうですね。まず、我が国とビスタリア王国との友好関係を、いま以上に確たるものにできます。ユフィ叔母上のおかげで確かに友好国となることができ、交易関係でも軍事的な面でも互いに利のある約定や協定等を結べていますが、それも確たるものとは言えないので……」
「さて。確たるものと言えない理由はなんでしょう?」
「…………」
にっこり。一部の隙もない笑顔でくちを挟まれ、思わず頬が引きつる。レアリナを謀ろうなどと畏れ多いことをしたつもりはないが、ゴルトン王国の王族として自国の弱味をみせようとしなかった自覚はあった。
レアリナの私的な笑顔を知る身として、いまの彼女の笑みの質を察すると下手に見栄を張れば悪手にしかならないとわかる。
「……失礼しました。ユーフィリア叔母上のおかげで貴国と結べているものの多くは、我が国の利となる部分が大きい。貴国からすれば、たとえそれらが反故になったとして、受けるダメージはさほど大きくはないゆえに、もしもリリア嬢と私が結ばれた場合、貴国との友好関係を強めることで得られる利は我が国にこそ偏ります」
ビスタリアがゴルトンから得られるものがないとは言えない。けれどそれは必ずしもビスタリアが必要としているものではないし、得られるなら得るけど、なければなくてもまあ別に……と思われても仕方のないもの。
可も不可もなく続いてきた先代国王の御代は、ゴルトンの特産であった絹織物や酪農の質を悪くはしないまでも高めもせず、近隣諸国が品質の向上に努めてしまえば埋没して当然のこと。オーフィリナが執政を担うようになってからすこしずつ手を加えていっているといっても、まだまだ王宮内に足を引っ張る輩はいるもので。その最たる存在が現国王だというのだから笑えない。
レノンの祖父であるベルン公爵がすこしずつ掃除をしてくれているとはいえ、それの目途がつき、国政をよりよく回せるようになるまでと考えるととてもではないが一朝一夕でどうなるはなしではない。
現状、ビスタリアに切り捨てられては立ちいかなくなるなど明らかで、だからこそユーフィリアだけでなくリリアと婚姻が結ばれることでその憂いが薄らぐのはゴルトンにとって利でしかないわけだ。
見返りにビスタリアに提供できるものは、正直、薄い。
長い目で見れば、現状の産業からなにか他国に誇れるものが生み出せるかもしれないし、別のなにかを新規開拓できるかもしれない。鉱山も抱えてはいるので、宝石の原石でも掘れるようであれば……とも思うが、いずれにせよどれも希望的観測の域を出ないものだ。
「貴国への見返りは……正直、これと胸を張れるものはないのが現状です。さらに、我が国の醜聞はレアリナ様も耳にするところかと思われます。母や祖父が立て直しを計ってはおりますが、いつまでに整うかまでの見通しは立っておりません。……もしもリリア嬢が本当に私に嫁いできてくれるというのなら……いまの我が国の王宮では、その身をお守りできるかさえも怪しくあります」
さすがに他国の令嬢に毒を盛るまで落ちぶれているとは思いたくはないが……断言できないひとたちであることは間違いないし、それよりもおそらく、リリアの血筋を知れば第一王子とこそ結ばせようと画策してくることだろう。手段を選ばず、既成事実をつくってしまえば……とまで考えそうだと思うとぞっとする。
リリアの身の安全ももちろん、しあわせを思えば、レノンに嫁ぐのはいい選択だとは思えない。政略的にもビスタリア側への利は薄いのだ。嫁がせる意味がないだろう。
自国の醜聞をくちにするのは憚られる心情ではあったが、どうせこの程度、レアリナにはわかりきっていたことだと思えた。一切揺るがない笑みを向けてくる彼女に、ただ自分の認識を確かめられただけだったのだろうなとレノンは思う。
「……なるほど。わかっていて、それでもリリアを求めなかったのは誠実であると思いましょう」
政略的にはゴルトンにしか利のないような婚姻。だからこそ次期ゴルトン国王として、リリアの好意を利用して婚約を願い出るようなことがあるか否か。どうやらレアリナが確認したかったのはそこらしい。
次期国王として、ゴルトンを担うものとして、正しかったのはむしろその選択だったに違いないとは思う。けれどいまのゴルトンの問題は本来、ゴルトンのもので解決するべきものであり、その犠牲を他国の民であるリリアに強いるのは間違っているとレノンは思う。甘いかもしれなくても、それでも自分を兄と慕ってくれるかわいい妹分に、いばらの道を進ませたくはなかった。
「まだ幼いこどもの言うこととはいえ、そんな純粋なこどものこころを利用するようなことがあれば……と思いましたが、杞憂でしたわね。大変失礼な真似をいたしました」
「い、いえ。レアリナ様が頭を下げるようなことなどなにもありません! どうぞ顔を上げてください」
「寛大なおこころ、ありがとうございます」
ふっと、顔を上げて笑ってくれたレアリナの笑みは、レノンが向けられる私的なものになっていてほっとする。レアリナはそのまま、今度は穏やかな雰囲気を纏って続ける。
「政略的なうまみも薄く、むしろ苦労しかしないことが目に見えている以上、親として、そしてこの国の貴族としても、諸手を挙げて送り出す、などということはできかねます。……けれど同時に、あの子の親であるからこそ、あの子が強く望むのであれば、その背を押してあげたい気持ちもありますわ」
いまのアライドフィード侯爵家の事情はともかく、もともとレアリナはその夫とかなり仲睦まじいのだと聞いていた。それこそビスタリア王国では恋愛の象徴、かくありたいと望む姿と言われるほどに。
ゴルトン王国の国王と側妃の真実の愛とやらは嘲笑と侮蔑の対象だというのに、この差である。
と、それはともかく。そんなレアリナだからこそ、娘が想い想われるということを望むのであれば、それを後押ししたいと願うのだろう。
「ですから、お互いに猶予期間を設けないかと打診をしに参じたのです」
「猶予期間、ですか?」
「ええ。レノン殿下ご自身と、ゴルトン王国の都合を考慮していただき、すりあわせが可能であれば、レノン殿下に我が国への留学をお勧めしたいと思いましたの」
「……留学……」
「期間は、十四歳から十八歳までの四年間。こちらの王侯貴族出身者が多く通う王立学院となります。その入学に至る年齢である十四歳。準備期間も設けまして、レノン殿下がその年に至る一年前まで、つまりリリアが八歳に至るまで。それまでに、お互いがお互いを想いあい、苦難を乗り越える覚悟さえも持てたならば、そのときは正式に将来を視野に入れはなしを進められればと思いますの。いかがかしら?」
「八歳では……まだ、その、恋愛感情が本気かどうか判断つきかねるのでは……」
「あら。うふふ。ものごころつく頃にはすでに婚約を結んでいることも珍しくはない貴族社会ですわ。あとはリリアが、そちらの事情を理解してなお、覚悟が持てるのか否か。その覚悟が持てるかどうかの判断を下すために手を抜くことは致しません。それでもなおあの子が諦めなかったのであれば、あの子の愛を疑うものなどなにもありはしませんわ」
つまり、八歳までにリリアは本気でレノンに嫁ぐ気持ちが、気概があるのか試験をされるということか。お互いに、と言われたからには、それはレノンとておなじだろう。むしろ現状リリアに恋愛感情を抱けてなどいないぶん、それも加味して判断される。
十三までにリリアを愛し、さらには愛するがゆえに穏やかに生きられることを願うことなく、愛するがゆえにいばら道をともに歩む覚悟を持てるかどうか。
それはおとなでさえ難しい選択、感情。だというのに、たった十三歳で、そしてたったの八歳で、覚悟を求められるなんて。いくら貴族社会に、王族に身を置くとはいえ、さすがに壁が高すぎる。ゴルトン王国の現状を思えば、レノンが戸惑うのも無理はない。
「そんなに難しくお考えにならないでくださいませ。そのときに至り、悩みや迷いが生じるくらいならば、なかったことにすればいいだけのおはなし。もちろん、お互いに気持ちが沿わなければそれはそれでなかったことになるだけですわ。ああ、もちろん、留学のおはなしは、このおはなしが調った場合我が家が責任をもって預からせていただきます。破談であったならば、それはそれでレノン殿下の望むようになさればよろしいかと。その場合でも我が家の協力が必要とあらば、できうる限りのことは致しますわ」
どうこたえたらいいものか。難しく考えなくともよい、とは言われたけれど、自分の人生だけでなく、リリアの人生だってかかっている。安易に考えていい案件だとはとても思えなかった。
躊躇うレノンを察してか、レアリナはさらに続ける。
「本当に、レノン殿下が思い悩む必要はありませんのよ。此度の件はあくまでリリアの気持ちだけのもの。リリアに関してはあの子が自分でする選択の責を負っていくだけ。多少厳しさが増すことは否めませんけれど、どのみち貴族令嬢としての教育は必要なのです。手札が増えることに悪いことはありませんもの。あの子の心配は不要ですわ。レノン殿下はこれまでどおりにお過ごしいただいて、その中でリリアへの愛情を育めるか、その愛情をもって、戦地で肩を並べられるか否かだけを判断していただければよいのです。あの子を妹以上に思えなかったとしても、それはそれで仕方のないこと。そうなってもレノン殿下にはなんら非もありませんから、どうかあまり悩まれないでくださいませ」
ことばを重ねられても、気持ちが軽くなることはない。どうしたってリリアの笑顔がちらついて、わかりました、と、安易に返事をすることに躊躇ってしまう。
レアリナの言うこともわかる。さほど難しいことなどないのだ。あんなに幼いリリアなのだから、気持ちが移り変わることだって容易に起こり得るだろう。
思わず傍らの母の様子を窺おうとして……寸前で堪えた。まだ十にも満たないレノンが庇護者の判断を仰ぐことが悪いこととは思えないが、それでもレノンは王族だ。次期国王だ。他者の意見を聞くことの重要性がわからないわけではないが、ここはだれかを頼るべき局面ではない。
リリアの姿を思い浮かべる。幼い彼女はどう考えてもかわいい妹分でしかない。そんな彼女を、今後異性として見られるようになるのか。……正直、そうなれるとはとても思えなかった。
そして同時に、彼女の熱が、八歳まで続くなんてとても思えはしなかった。
だけど。
「……わかりました。よろしくお願いします」
このとき、国を思う打算的なものがなかったとは言えない。むしろ正直なところそういった面のほうが大きかっただろう。
十三歳に至ったときの自分の気持ちも、八歳に至ったときのリリアの気持ちも、ともに想い想われるものになっているという想像なんてできはしなかったのだから。
ただそれでも。いまのリリアの気持ちを、慕ってくれる笑顔を、最初から摘み取ることはできないという気持ちが確かに勝った。
まっすぐに見つめた先で、レアリナはどこか満足そうに笑みを深める。そうしてひとつ頷いた彼女は、ああそうだ、と、思い出したようにくちを開く。
「レノン殿下、リリアに告白をされたとき、リリアが大きくなってもあなたを好きでいられたなら、お嫁さんにしてあげると仰られたそうですわね」
「え⁉」
なぜ知っているのか。など愚問だ。リリア本人からそう聞いた可能性も充分あるし、そうでなくともリリアにつけられている侍女や護衛から報告を受けたのかもしれない。一字一句違わず、とは言わずとも、概ねそのような返答をした記憶はあるので、レノンの肩が跳ねた。
「幼いこどもをあしらうには体のいいことばを選ばれたようですけれど、いけませんわよ? 紳士たるもの、思わせぶりな言動をとられては。特に好意を抱いてくれているかた相手にはなおのこと。たとえ相手がご自分と年が離れていようと、いくつであろうと恋は恋。真摯に向き合えないお相手には、きちんとお断りをすることも礼儀ですわ」
「う……は、はい。肝に銘じます」
「ふふ。今回はそのおかげでリリアの初恋がひとまず潰えずに済みましたからありがたく受け取らせていただきますけれど、疑惑も含めて不貞はよろしくありませんし、軽薄なのも好印象は受けられません。ご理解いただけると幸いですわ」
つまり、特定の相手ができたなら、きちんとはなしを通せと釘を刺されたということか。正式なはなしとして契約が結ばれたわけではないにせよ、了承したからにはレノンにも誠実さが求められるのは当然か。
なんの気もなしに軽くこたえてしまったが、今後はそうした方面での受け答えにも注意しなければ。若干身を縮こませながら、レノンはひとつ、学習したのだった。