英雄の矜持
―――時は少し遡る。
「ちょっとフィル! 待ちなさいっ!」
サレマバートの屋敷にて、カルアは部屋を出て行こうとする主人の腕を掴んだ。
「離せよ、カルア。気づくのが遅すぎたんだ……今どうなってるのか分からない。ミリス様が『裁定派』の晩酌材料にされるかもしれねぇんだ」
主人の顔にはいつものおちゃらけたものはない。
真剣に、表情に焦燥を滲ませ、掴んでいる腕が強張っているように感じた。
それでも、メイドは主人の腕を離さない。
何せ、今から主人が行こうとしているのは嫌悪している娼館などではなく、死がいつ迫ってもおかしくないお遊戯大会なのだから。
「あなた、お父様と約束したんでしょ? 『南北戦争』には行かないって。約束破って首を突っ込むなんて―――」
「じゃあ、みすみす殺される可能性があるミリス様を放置しろってか? 笑えない冗談だな、救えるかもしれない力がこの手の中にあるのに、俺は優雅にワインを飲めるほど落ちぶれちゃいねぇよ」
落ちぶれると言うが、果たしてこの世に落ちぶれている人間はどれほどいるのだろうか?
人は誰しも死に対しての恐怖がある。他人よりも自分、自己犠牲を向けるのは自分に対してのみ。
それは決して自己中などではない―――当たり前のことだ。
お菓子を恵んであげるといった慈善事業じゃないのだ。自分の命を天秤に乗せてまで、人助けに走るという偽善の極地。
普通、そんな偽善活動は行わない。
そこいらにいる人間であれば、優雅とは言わないが当たり前に不安を抱えながらワインでも飲んでいる。
けど、このフィル・サレマバートはそれをしない。
「あなたが優しいのは分かるわ……でも、戦争よ? 魔術師が戦場を動かすほどの力を持っていても、何が起こるか分からないの」
「今までもちゃんと帰って来たじゃねぇか」
「帰って来たとしても、死ぬかもしれないに変わりがないの。それこそ、あなたの言う『可能性』の話よ。死んだらどうするの? あなたが死んだら、周りがどう思うか考えたことはある?」
それは今回に限った話ではない。
今までも、これからも。フィルは誰かを助けるために拳を握って敵と戦いに行く。
魔術は強力だが絶対ではないというのは、魔術師であるカルアもよく分かっている。
戦場というのであれば同じ魔術師など現れるだろうし、ふと背後から剣が刺さってしまうかもしれない、矢じりが飛んでくるかもしれない。
カルアも、フィルの優しさは大好きだ。
そんなフィルだから救われ、好きになったといっても過言ではない。
だが、どんな時でも死の可能性がある以上、カルアはその足を止めてほしいと思う。
この間知り合った人間よりも、目の前にいる主人の方が大切なのだから。
義務でもない、目に見える権利が転がっているからでもない。
結局、これは偽善な活動の一環でしかないのだ。
それでも、フィルは―――
「カルア、これは偽善でも慈善でも、義務でも権利でもない……俺なりの矜持の話なんだ」
カルアの掴んだ腕を、振り払う。
「人は生きている限り、必ず誰かの自由を奪っている。極端な話、呼吸だって同じことだ。空気を吸えば、減った空気の分だけ誰かが吸えなくなる。手元にある食料を自由に食べれば、その分誰かが食べられなくなる。自由に生きれば生きるほど、人は誰かの自由を踏み躙っていることになるんだ。俺は、そうやって生きてきた」
フィルは真剣に、紅蓮色の双眸を覗き込む。
端麗な顔には、縋るようなものがどこか残っていた。
しかし、フィルは言葉を続ける。
「幸せになってほしいと助けるが、それは俺の一方的なものでしかないんだよ。襲っている人間にも自由があるし、俺が手を出さなければそいつは自由に生きられたかもしれない。そういうのを踏み倒して、俺は俺でいられるんだ―――善とか悪とか、そういう話じゃない。踏み躙ったからには、助けた人間には最後まで自由に、幸せに生きてもらわないと踏み躙ってきた奴らに申し訳ない。だからこそ、救った人間には最後まで幸せで自由な生活を送ってもらう必要がある」
そのためであれば、フィルは何度でも手を伸ばす。
縛られない自由を求めるからこそ、しっかりとした筋だけは通すために。
「それが『自由』を理想とした俺の矜持だ。命の危険? それは、俺の理想の中にある矜持を曲げるほどか? もし曲げちまったら……そいつは自由じゃねぇよ。《《命に縛られる》》のと同義だ」
話は終わったと、フィルはカルアから背中を向ける。
どこまで行っても魔術師。理想を追い求めるためだけに人知の外に手を伸ばした異端者。
―――譲れないものは、どうしても譲りきることはできない。
それはカルアにも分かった。
己も魔術師だから、言わんとしていることも矜持も理解できる。
であれば、譲歩しよう……その代わり―――
「だったら、私も行くわ」
「……おい、それは」
「あなたにも矜持があるように、私にも私が理想とする矜持があるのよ。フィルがそれを突き通すなら、私も突き通させてもらうわ」
カルアの理想は『寄り添い』。
その刻み名は―――『いついかなる時でも望む相手と寄り添えるための力を』。
フィルが理想を求めるのなら、自分も。具体的には、戦場という死の危険があるアトラクションであっても、フィルが乗るなら一緒に乗りたいということだ。
それが分かっているフィルは逡巡した。
果たして、自分の理想にカルアを巻き込んでもいいのか? ということだ。
ただ、自分がそうであったように魔術師が理想を掲げて生きている以上、その頑固さは身を持って知っていた。
故に、フィルは大きなため息を吐く。
「はぁ……死ぬなよ、カルア」
「あなたが死なない限り、私は死なないわ。逆に言えば、あなたが死ねば私も死ぬから―――ちゃんと生きていなさいよ」
「はいはい、分かったよ。ここで心中でもされたら、生きているカルアのお父さんには地獄でもどやされそうだからな」
フィルは床を小突いた。
すると、馴染みの黒い沼が一体に広がっていく。
「ミリス様はパーティーの時に縛っておいた。俺の魔術で縛れる対象は『敵対心がない』こと、『手の甲に印をつける』ことだからな」
「……ねぇ、フィル? 今、聞き捨てならないことを聞いたんだけど……あなた、ダンスのお誘いの最中にマーキングしたってこと?」
「言い方に悪意があるなぁ!? 俺は可愛い子犬さんか!?」
事実、マーキングと言えばマーキングであるのだが、それを出されると卑猥な方向に持っていかれそうで怖い。
「カルアも一緒に行くか?」
「遠慮しておくわ。フィルの空間って、本当に縛られている感覚がして好きじゃないの。もちろん、私は別で走っていくわ。どうせ、私の魔術があれば十分かからずに国境線に辿り着くもの」
「……相変わらず、えげつない魔術なこって」
フィルは苦笑いを浮かべると、沼の中に潜り始めた。
そして—――
「そこまで言うんなら、ちゃんと助けてきてね……英雄さん」
「お前も無茶だけはするなよ……帰ったら、ワインを飲みながら武勇伝を一緒に語ろうや」
カルアは開いた窓から姿を消し。
英雄は、己の縛りで姿を消した。
―――次に姿を見せる時は二人が二人共、誰かを助ける時だろう。