004
翌日。ベンさんと二人で森を歩いていたときに、ベンさんにこう尋ねられた。
「あのとき、どうして嘘ついたの?」
「あのときっていつのことですか?」
「ほら、夕食のときだよ。あのときどうして味のことをはぐらかしたの?」
——あぁ、そういうことか。そりゃそうだよな。同じ戦士だったら、おかしいと思うよな。
「人の肉を食べたときの味以外は何も味がしないだなんて言えないじゃないですか! 食べている感覚がするだけだって言えますか?」
彼は僕の言葉に黙って耳を傾ける。僕は言葉を続けた。
「肉を齧ってもなめし革を食べているように感じることしかできないって言えますか? 野菜を食べても紙を食べているようだって言えますか? スープに浸した黒パンなんて水を浸みこませたボロ布に齧りついているようだなんて言えるわけないじゃないですか」
「それじゃあ、どうして普通の人が食べる普通のご飯を毎日食べているんだい?」
僕はしばらく考えて、こう答えた。
「僕が人であることを忘れないためです」
「——まぁ、そうだよね。だから、そんなことをするんだろうね。人の肉を食べるなんて、実際に食べるようになるまでは正気の沙汰じゃないと思っていたよ。なのに、実際食べるようになったら、なぜか美味しいんだよね。まるで昔からごく当たり前に食べていたかのようにそれを求めてしまう。だから余計自分が人間じゃなくなっているって思ってしまう。君の気持ちも分かるよ」
「——そう、ですね」
「けれど、人の肉を食べていないととてつもない空腹に襲われないかい?」
「感じます。けれど、もう慣れました」
「いつから食べていないんだい」
「四域に入ってからだからだいたい二か月ほど、かな?」
ベンさんは上着のポケットに手を突っ込んだと思うと、突然、何かを取り出して僕の口に突っ込んだ。
包装紙に包まっていても分かる。これまでで一番欲しかったもの。喉の奥から手が出るほど渇望していたもの。
——人の肉だ。
まずい。
まずすぎる。
食べたら、人間じゃなくなる。
人を守る戦士じゃなくなる。
僕は口に入った肉を必死に吐き出そうとした。
「ゲホゲホ」
しかし、既に包装紙ごと僕の腹の中におさまってしまったらしく、肉が口の外から出てくることは無かった。
「よくあの人たちを食べなかったな」
ベンさんに冷たい目を向けられた僕は答えた。
「食べるわけないじゃないですか。それに万が一、お腹がすいたら、自分の肉を少しだけ齧って気を紛らわせていますよ」
「言っておくけど、自分の肉を食べても再生しないからね。たまに、自分の肉が美味しいことに気づいて、顎だけになるまで自分の肉を食べ続けていたやつもいるけど、あれは正気の沙汰じゃない。それと、二ヶ月も食べなかったら、普通、人を襲っていたよ」
「しょうがないじゃないですか! 人を食べていたら、悪魔って言われるんですよ! せっかく僕が助けてあげたのに、いざ僕が彼女を追いかけていた戦士を食べていたら、平気で悪魔だって。こっちに来るんじゃないって言われるんですよ! あなたはそう言われても、平気な顔をして人の肉を食べられますか? 僕は出来ませんよ!」
すると、ベンさんは僕を強く抱きしめた。
「泣け。今なら、誰も見ていない。俺も見なかったことにする。だから、泣け」
そう言われた僕はベンさんに抱きしめられながら、一人、泣き叫んだ。
すっかり泣き止んだ僕は急に恥ずかしくなった。赤面しながら、ベンさんに僕はこう問いかけた。
「どうしてそんなに優しくするんですか?」
「まさか、俺が君を食べるんだと思った?」
「僕が会ってきた戦士はみんな僕の肉を狙ってきました」
すると、ベンさんは優しい目をした。
「今まで運が悪かったんだな」
「どうしてですか?」
「そりゃそうだろ。信頼できる仲間に巡り合わなかったってことだろ? 俺は幸運にも早めに信頼できる人に会うことができたからまだ壊れなくて済んだんだよ」
そして、ベンさんは僕の胸を強く叩いた。
「あと、若者の肉を食べるような真似は絶対にしないよ。こんな老いぼれが未来のある若者を食べちゃダメだろ? それに、俺はもう十分、人の肉を食ったよ。これ以上は気を紛らわせる程度で十分さ」
「老いぼれっていうほどの歳ですか?」
僕は涙交じりにそう答えた。
「それに、俺には夢があるんだ」
「夢?」
「いつの日か俺より強いやつに出会って、自分の肉を食べてもらって俺の力を託すんだ」
僕はベンさんの言葉に驚いた。
「バカだと思うかい?」
「いや、あなたは悪魔を自分が倒そうって思わないんですか?」
「思わないさ。いや、思えなくなったのかな」
ベンさんは言葉を続ける。
「最初は自分こそが悪魔を倒してやる。悪魔を殺しきれなかった伝説の戦士なんかよりも歴史に名を遺す英雄になってやる。そう思っていたんだよ」
彼は一息置いてからまた語り出す。
「けれど、いざ悪魔を殺すことはおろか、その心臓すら拝めずここまで年食ってしまうと、暗いことばかり考えちまうんだよ。君はそう思わなくて済むことを祈るけどね」
すっかり黙り込んでしまった僕にベンさんはこう言った。
「なぁ、少年。俺がちょっとだけ戦い方を教えてやるよ」
「戦い方なら教わっていましたよ」
「別に少年が弱いとは思っていないさ。弱かったら、四域まで来ていないだろ? まぁ、その魔狼と戦っているところを見ただけだが、人間相手なら、十分やれると思う。けれど、第四の壁を越えた際に、少年がこのままじゃ生きていけないと思ったのさ。老婆心ならぬ、老爺心ってやつだな」
僕はベンさんの提案にすぐには答えられなかった。
「どうする? 別に、断ってもいいんだぜ? お前さんが魔獣に殺されようが、悪魔に食べられようが正直、俺には関係ねぇ。別に今のお前に救われるほど俺は弱くないし。お前が死んだとしても、この世界に取ってみれば、たった一人の悪魔もどきが神の元に帰るだけだ」
しばらくしてから、僕は答えた。
「やります。教えてください」
「じゃあ、これから俺のことを先生と呼びたまえ、少年」
ベルさんは笑みを浮かべてそう言った。
******
僕はベンさんに修行をつけられることになった。だが、自分の思っていたことと全く違っていた。まず、ベンさんに魔獣の巣穴に放り込まれる。そのたびに、僕は巣穴を出ようとする。だが、
『全部倒すまで上がっちゃダメだからね。えっ? 死にそうだから逃げるだって? ほら、その魔獣が誰かを殺したらどうするの? どう責任取るの?』
と、ベンさんに言われて渋々魔獣を殺す。
人を魔獣の巣に放り込んだ本人は僕を叩き落とした途端、距離をとって遠くから
「おい! ちゃんと心臓を狙うんだ。心臓さえ斬れば、魔獣は動かなくなるんだぞ! 目を凝らせばそれくらい分かるだろ?」
と注意する。
「分かりますよ! けれど、いくら何でも多すぎませんか!」
「狼じゃないだけマシだろ?」
「だからって自分に殺意を向けてくるリスの群れの中に放り込むのはないでしょうが!」
「言っておくが、本当に危ないと思うまでは絶対に回収しないよ。まぁ、200ボルヌ(1ボルヌ大体1.4メートルほど)からすぐに助けられないんだけどね」
「もし、僕が死んだら、あんたのことを呪ってやる」
「そのとき、君は悪魔の餌になっている。それに、そんなこと言っている暇があるなら、さっさとリスを殺してこの崖を這い上がるんだな」
「絶対許さないぞー!!!」
僕は必死の思いで魔獣を倒すのであった。
******
「戦い方を教えてくれるんじゃなかったんですか」
ベンさんから無理矢理渡された干し肉に渋々齧りつきながら、僕はそう尋ねた。
「戦い方なら、師匠から教わっているだろ? だから、俺が仮に剣術とか教えても変な癖がついてしまってまともに戦えなくなる。それなら、君の長所と勘を磨く方がいい」
焚火で暖を取るベンさんは真面目な声で答えた。
「まぁ、教えてもらったにしては弱いけどな」
——分かっている。僕が弱いことなんて自分が一番分かっている。僕は先生のように強くはない。
「それよりそろそろ帰りません?」
「えっ? ダメだけど」
「いや、俺、宿の人に野宿するって言っていないんですけど」
「あぁ、実は俺が今朝、言っといた。彼に稽古つけるって言ったら、快く了承してもらえたよ。君、あの子に好かれているんだね?」
「——嘘でしょ」
「軽薄だって言われることはよくあるけど、俺はつまらない嘘だけはつかないよ」
項垂れる僕にベンさんは笑いながら、火を消して立ち上がった。
「さて、今度はどの群れにアタックしてもらおうか」
「これが何になるんですか?」
僕がそう尋ねると、彼は笑いながら答えた。
「少年は一対一ならほぼ問題ないでしょ?」
「どうしてそんなことが分かるんですか?」
「噂になるほど目立つ戦士喰らいは数年に二、三人は出てくる。けれど、この四域にいると思われる戦士喰らいは中肉中背で黒いフードを被ったごく普通の顔立ちをした若い男だって聞いていた。それって、君じゃないの?」
僕は咄嗟にベンさんから距離をとった。
「君は獣か? そんなに警戒したって、俺は君を食べやしないさ。何度もそう言っているだろ?」
——それとも食べてほしかった? と、揶揄うようにベンさんは僕に話しかける。
「——いつ気づいたんですか?」
「戦い方だよ。戦士のほとんどは昔話の英雄とかそういうのに憧れて槍を好む傾向にある。けれど、その戦士喰らいは不思議なことに槍を持たないらしい。そして、気づく間も与えず、身体をバラバラに切り裂くらしい。あのとき、魔狼と戦っていた際に見たけど、君はそれに見事に合致している」
「僕ってそんなに有名なんですか?」
すると、ベンさんは意地悪な顔をした。
「おやおや、知らなかったのかい? ここ二、三年ほどは結構噂になっているぜ。三域で戦士を何十人も食べる戦士がいるって」
「そうだったんですか」
「まぁ、君のことをすぐに戦士喰らいだって気づく奴がいたら、とっくの昔に君は誰かのお腹の中だったけど。——まぁ、一対一でそんなに強ければ、気づかれても食われはしなかったか」
ベンさんは僕の腰につけてあるダガーを一瞥して、
「まぁ、そのダガーの二刀流なら、隙を見つけて気づかれないうちに切り刻むのかな? それじゃ、戦士じゃなくて暗殺者っぽいけどね」
「一応、槍も使えますよ。武器は一通りどれも使えるように教えてもらいました」
「なら、どうして槍を使わないの? 心臓を狙うときにダガーだと不便じゃない?」
「槍よりこの戦い方が向いているって先生に言われたんですよ」
「良い師匠だね。その人」
ベンさんにそう言われた僕は首を傾げる。
——どうして、たったそれだけのことで良い師匠だと思うんだ? 事実だけど……。
「ほら、普通の戦士なら、どんなに向いていなくても槍を使えるように教えるよ。けれど、君の師匠は一通り武器を教えて、その中でも弟子に合う戦い方をすすめた。その人はかなりのやり手だと思うよ」
「そうだったんですか」
感心する僕にベンさんは、遠くの方を指差した。
「おっと、あんなところに蟻の巣があるぞ。さぁ、潜ってきてご覧?」
「ちょっと大きくないですか? これ本当に蟻の巣なんですか?」
「仮に蟻の巣じゃなかったとしても、君にはこの穴に潜って戦ってもらうよ。これも経験だ! さぁ、潜りたまえ」
僕が嫌そうな顔をすると、ベンさんはこう言った。
「そんなに、いやなら帰ってあげてもいいけど、そのときはどうなると思う?」
僕は少し考えて、答えた。
「潜ります」
「それでこそ戦士だよ。少年」
彼はそう言って、早く巣穴に入るように急かした。