003
『私を助けてくれませんか?』
オリガはそう言った途端、恥ずかしくなった。
名前はおろか顔もよく知らない人にいきなり「助けてください」と言ってしまったことに少し心がむずかゆくなった。けれど、いつまでもそんな感傷に浸っている場合ではないことに気づいた彼女は深呼吸してから彼にこれまであったことを話した。
フードを被った男は時折、首を傾げながらも、彼女の話を最後まで聞いてくれた。
「ごめんね。僕には君を助けることはできない」
しかし、彼は彼女の頼みに答えられなかった。
「どうしてですか! すぐそばに悪魔がいるんですよ。倒してくれないんですか」
「それは誤解だよ。悪魔は一匹しかいない。君が見たのは悪魔じゃない。人だよ」
「あれのどこが悪魔じゃないんですか! 人を食べるんですよ。そんなの悪魔しかいないじゃないですか!」
すると、彼女は男に肩を掴まれた。
「落ち着いて。落ち着かないと何もできない。それこそ、悪魔の思う壺だ」
彼女はハッとした。それから彼女は深呼吸をして心を落ち着かせようとした。彼女が落ち着いたのを確認した男はこう語りかけた。
「この世には悪魔は一匹しかいないんだ。僕は大切な人からそう教わった」
「それは私もお父さんからそう聞いています。けれど、悪魔はいました。それも私たちのすぐそばに。しかも、私たちと同じように喋ったり、笑ったりするんですよ」
「当然だ。本物の悪魔もよく喋るし、愛らしく微笑むらしい」
「どうしてそんなことがあなたに分かるんですか? 悪魔に会ったことがあるんですか?」
「——先生がそう言ったんだ」
「その人は戦士だったんですか?」
「——そうかもしれない」
彼は自信なさげにそう答えた。
「じゃあ、あなたも?」
男は彼女の問いかけに短く頷いた。
「なら、どうして三域の中にいるんですか! ここはそれなりに危険なんですよ! それなら、安全な一域の中で一生、生きていればいいじゃないですか!」
男は少し考えてから、答えた。
「——生きるためだよ。君も同じだろ? この世はただ息をしているだけじゃ生きていけないんだ。それに、僕にはこうして獣を狩ること以外にお金を稼ぐ術を持ち合わせていないんだよ。だから、一域じゃ生きていけない」
「それでもお願いします。もし、私が悪魔に食べられたら、今度はあなたが食べられてしまうんですよ」
「そうかもしれないね。もし、その戦士が本当に悪魔なら、僕を食べるかもしれないね。彼ともし遭遇したなら、できる限り足搔いてみるよ」
「どうしてそんなに受け身でいるんですか! 食べられる前に自分で何とかしようとか思わないんですか! それに、あなたはどうしてわざわざ立ち止って私の話を聞いてくれたんですか!」
すると、男は黙り込んだ。それから、「——そうか。そうだった。僕はそうしなくちゃいけなかったんだ」と何度も頷いた。
「あいつと戦ってみるよ。言っておくけど、僕は君を助けるわけじゃない。あくまで僕の命を守るためにあいつと戦うんだ」
「ありがとうございます」
オリガは嬉しさのあまり泣きそうな顔をした。
******
ヘリティオはひどく動揺していた。
元々、彼は彼女たちを最初から食料として目をつけて食べようと思っていた。
だが、そうなる前に大きな魔獣が現れて一人無駄になってしまった。
それでも、アルトの屍肉を見捨てることができなかった。
彼女の遺体が横たわる場所に向かったところ、そこにはあの大きなクマがいた。彼は彼女の遺体を回収するために、クマと戦い、なんとか彼女の死体を取り返した。だが、彼女の身体からは何も感じなかった。
クマを追い払うために力をかなり使ってしまい、なおかつお預けを喰らってしまった気分になったヘリティオは極度の飢餓に苛まれた。
どうしようもなくお腹が空いてしまったヘリティオは我慢できなくて女の子を一人食べてしまった。しかし、不幸にもその場面をオリガに見られてしまった。
彼は彼女を追いかける羽目になってしまった。
万が一、彼女がヘリティオから無事に逃げ切り、冒険者ギルドで彼女に告発されたら、厄介なことになる。そうなったら、教会は必ず彼を守ってくれる。
だが、冒険者ギルドでは悪い噂が広まり、忌避される。そんなことになれば、彼が食料を得る手段を一つ失ってしまう。
そうなれば、まずい。だから、彼は彼女を探すほかなかった。
そんなとき、彼は目の前にフードを被った男が立っていることに気づいた。
途端に彼の目から涙が溢れ落ちた。
「——まさか、君とここで会うなんて」
ヘリティオは感激のあまり声を震わせた。
「僕はお前と会った覚えはない」
「あぁ、俺と君は会ったことは無いよ。ちょっと感動しただけさ。噂で聞いたんだよ。黒いフードを被った戦士喰らいの話をね。君がその戦士喰らいかい?」
「戦士喰らいなんていくらでもいる。それこそ、お前も何人か食ったことあるだろ」
すると、ヘリティオは頬を緩ませた。
「あぁ、勿論。俺も食べたことあるよ。どれも素晴らしいものだった。けれど、初めて人を食べたときに感じた死ぬほど張り裂けそうな心の痛みとそれをはるかに上回るあの極上の美味には巡り合ったことは無いんだ。けれど、君の肉には期待できそうだ。何しろ、噂で聞いた戦士喰らいは戦士を少なくとも二、三十人は食べているらしいからね。さて、そんな君の肉はどんな味がするんだろうね?」
「——人間なんて美味しくないと思うけど」
「嘘はいけないよ。匂いで分かるよ。君の肉が極上なことくらい」
ヘリティオは溢れ出る涎を拭った。
「僕は食われに来たわけじゃない。優しい女性が僕を付け狙う悪い男がいるって教えてくれたんだ」
「——あぁ、オリガか。なるほど、戦士には戦士をぶつけようということか。末端の冒険者にしては多少頭が回るようだ。けれど、俺に勝てるものなどこんなところにはいない。さぁ、君の肉を俺に見せてくれ!」
ヘリティオはフードを被った男の心臓めがけて槍を振るった。
だが、ヘリティオは男の心臓を貫くことはできなかった。
いつの間にか男は自分の背後に立っていて、ヘリティオは身体がバラバラに切り刻まれていたのだ。
彼は首だけになって地面に落ちた。
ヘリティオは細切れになった自分の身体を見て驚いた。
——彼の剣筋が一切見えなかった。なのに、気づいたら、自分はバラバラに切り裂かれている。どうして? どうしてこうなった?
ヘリティオは自分の死が近づいていくのを感じた。
——あぁ、これが死ぬということなのか。身体中を激痛が走る。それに、これまでのことがありありと思い浮かんでは消えていく。今更、走馬燈が流れても、こんな状態じゃ何の意味もないんだけどね。
『ヘリティオ。君なら、きっと悪魔の心臓を貫けるはずさ。悪魔に一番槍を突いたこの私が保証するよ』
——師匠。どうやら、俺は先生の期待には応えられないようです。
ヘリティオは深く溜息をついてから、フードを被った男に語りかけた。
「やっぱり君は俺の思った通り戦士喰らいのようだったね。完敗だよ。次会ったときには必ず雪辱を晴らしたいところだけど、リベンジする機会なんてもうどこにもないね」
「驚いた。首だけになっても人は喋られるんだ」
「それは俺の方もさ。よりによって、その喋る生首が俺自身だったっていう話だけどね。笑ってしまうよ」
ヘリティオは苦笑した。
「ところで、君はどうしてこんなところに居るんだい?」
男は答えない。ヘリティオは笑いながら、言葉を続けた。
「まぁ、分かるよ。怖いんだろ? あの白い壁をあと、二つ越えた先に待っている地獄が怖いんだろ? 俺はまだ、ここに来たばかりだから分からないけれど、おめおめと逃げてきたやつらが口々に言っていたよ。——あんなものに俺たちが束になっても勝てるわけがない。——どうして、神さまはあんな化け物を野に放ったんだって。まぁ、そんな腰抜け共はみんな俺の腹の中に入っていったんだけどね」
「——別に怖いわけじゃない。先生の言いつけだ」
「へぇ、そこまで教えてくれたんだ。俺の師匠なんて五つ目の壁を越えたら、そこには悪魔がいるとしか言ってくれなかったよ。こりゃ、師匠の差が出てしまったかな。俺の師匠は脳味噌が筋肉でできたような人だったからな。ずっと槍のことしか教えてもらえなかったや」
ヘリティオは次第に自分の頬の筋肉が硬くなっていくことに気づいた。
「あぁ、もうこれ以上喋るのも辛くなってきたな。——そうだ。俺を食べてよ」
「僕は人間を食べるつもりなんてない。後でちゃんとどこかに埋葬してあげる。それに、できることならもう誰も食べたくない」
すると、ヘリティオは大きな声で笑い出した。
「いやぁ、食べてほしいなんて誰も思わないよ。けれど、俺たちは違う。人間は美味しいものだって悪魔に仕組まれている。どうせ君もすぐに俺の肉に喰らいつくだろうよ。それに、食べられることで自分の命が次の人に繋がれることも悪魔によって仕組まれている。俺たちにとって最高の弔いは食べられることなんだよ。その人の目となって、耳となって、舌となって、肉となって、血液となって、皮膚となって、爪となって、いつの日か悪魔の心臓に槍を突けたら、これほど喜ばしいことは無いんじゃないか! ひょっとして、俺の師匠も俺に食べられる前はそう思ったのかな?」
——まぁ、君の武器は槍じゃないか……とヘリティオは苦笑した。
「僕にはそこまで行けるほど自分が強いとは思わない。だから、お前の期待には応えられない」
「できないなんて言っていたら、何もできないよ。こんなところで首だけになっている俺が言えたことじゃないか」
ヘリティオは苦笑した。
「じゃあね。未来の英雄さん。いつかまた会おう」
ヘリティオはフードを被った男にそう言ったきり、喋ることはなかった。
一章は次回で終わりです。
次回は今日の午後に投稿します。