2.1_高坂社長、神戸へ帰る
「……長。高坂社長?」
怪訝そうな百瀬君の声にはっとして、目の前のタブレットに表示された稟議書に目を落とした。
稟議書は社内の研究室からで更なる研究のための追加予算要求だ。
「いかがなさいましたか?」
「いや……済まない。理由は妥当で正当なものだろう。承認しよう」
添付された計画も無茶な金額の使い方ではない。
スワイプで資料にパラパラと目を通して、稟議書にタッチペンで“Takashi Kousaka”とサインを入れ、百瀬君に渡した。
「それと原田から、本日のルードヴィンス社とのランチを明日のディナーに変更しました、と伝言です」
「明日? そこ確か四ノ宮君の新規案件だろう。早く決めないと……」
「先ほどからずっとぼんやりなさってますよ? お気づきになっておりますか?」
タブレットを確認して百瀬君は少し呆れたような顔をした。
気の重さがすっかり表情に出ていたようだ。
「高坂社長。ご要望のオフは夕方ですが、調整して本日11時30分から明日13時の役員会までオフにしました。明日までに必ず立て直しておいてください。30分後に柴田がお迎えに来ます」
百瀬君はさらさらと手帳に決定事項を書きつけ、タブレットを小脇に抱えると一礼してパタンと社長室の扉を閉めた。
ほっと一息ついてコーヒーを一口飲む。
やれやれ。せっかく淹れてもらったのに、すっかりぬるくなってしまったな。
内線で新しいコーヒーを頼み、ノートPC のデスクトップにあるフォルダから写真を一枚開く。
事故前に撮影されたこの写真は、スタジオで時代劇を撮影中だった妻と娘が並んでいた。
(ごめん沙織……。詩織に全部話すことにしたよ)
年頃の娘は大抵父親を嫌うものだけれど、今度ばかりはそうもいかない。
良かれと思って伏せていた真実を伝え、また詩織を傷つけてしまうのは明白だ。
私はどれだけあの子から奪うのか。全く情けない父親だ。
私はHRFからの調査報告書ファイルがずらりと並んだフォルダに飛び、ファイルを時系列に並び替えて最新版を開く。
カチカチとページをめくって、こんなことになった原因の写真を見つめる。
報告書には少し浅黒い肌の男、年齢は40代くらい、見た目はごく普通の中東人のようで、表向きは中東石油関連会社の社員。
結局今回も警察は動かない、自衛すべきだと彼らは結んでいた。
自衛……。嫌な言葉だ。
彼らが言う自衛はもう一つの意味も含んでいる。あいつらをつぶすのに自分達を使えと暗に言っているのだ。
仕事柄、真っ白という訳ではない。黒に近いグレーな事もやってきた。
会社と自分だけなら迷わず、進言通り彼らに始末を依頼しただろう。
でも今は娘がいる。詩織はまだ13歳。そんなものを詩織が背負う必要はないし、この先も知らないままでいい。
軽やかなノックの音がして、ドアが開けられる。
「高坂社長、お迎えに参りました」
HRFから派遣された私の護衛、柴田燈李さんが迎えに来た。
彼女は普段、私の直属である秘書チームに社員として紛れている。
女性らしく華奢で見栄えするのに、いざとなったら大の男相手の近接格闘でも互角に渡りあえて、こと精密射撃に関しては支部内でもトップクラスの実力を持つ女性だと黒崎君が太鼓判を押す人物だ。
「ああ。今行く」
私が立ち上がると、柴田さんはハンガーにかけてあった私のジャケットを取り、私に着せる。
こういった教育も行き届いていて、彼らの仕事には抜かりがない。
バックを柴田さんに預けると、さっとドアを開けて私を先に通し、ドアを閉めた。
長くない役員フロアの廊下を渡ってエレベータ前に来ると、柴田さんは言った。
「高坂社長。本日の護衛は神戸駅まで私と黒崎がお供し、神戸は黒崎と藍野が担当します」
彼らの警護方針は最低二人がつくチーム制。
行きの新幹線で神戸駅まで柴田さんがこのままついてくれ、神戸駅からは藍野君が担当してくれるらしい。
「わかった。神戸からとんぼ帰りさせてすまないね」
「いいえ。仕事ですから当然です」
エレベータが止まり、ドアが開くと、私より年若くて背の高い黒髪の偉丈夫な男の出迎えを受けた。
彼の名は 黒崎伶司君で、私や詩織の護衛を一手に引き受け、その指揮と責任者を任されている。
黒崎君達と私の相性を見るため、警護シミュレーションで入った時も、全く私の邪魔になることないし、秘書と比べても遜色のない仕事ぶりで、私は即決で彼らに決めた。
後で聞いたが、黒崎君は元々幹部候補な上、現場経験も豊富で1課内でもトップクラスの実力者、彼のパートナーの藍野君も顧客の間では評判が高く、スケジュールが難しいペアなのだと聞かされた。
おかげで警護費用の見積もりは驚くほど高かったが、二人ならどちらでも詩織を任せられると思った。
柴田君が正面玄関に寄せた車の運転席に乗り込み、黒崎君は「お疲れ様でした。高坂社長」と言って、後部座席を開けてくれた。
「急に無理を言って済まない、黒崎君。ランチはご馳走させてくれ」
「喜んで。ご一緒します。高坂社長」
こうして私と黒崎君、柴田さんは一緒に神戸の自宅へ向かった。