3.3_誘拐事件の結末
私は、はっとして飛び起きた。
確か学校で次の授業の移動教室、校内の特別教室棟の渡り廊下で……。
あの人たち、どうして校内にいたの? どうやって入ってきたの?
校門も裏門も藍野さん達が見張っていたのに!
いろいろな事が頭を駆け巡っているけど、それを考えるのは後。
今はここから出ることを考えなきゃ。
――詩織お嬢様。万が一我々と離れても、決して自暴自棄になって犯人を刺激してはいけません。
――我々が必ず助けに参ります。それまでは毅然とふるまってください。
そうだった。この後私『人質なのに偉そうにするの、変じゃない?』って言って笑ったけど、違う。
こんな暗くて狭い部屋でひとりぼっちは不安に押しつぶされるから。
たとえフリだけでも、しゃんとしてれば、気持ちもつぶれたりなんかしない。
私が生きてこそ人質の価値がある。私が死んだらパパは決してお金を払ったりしない。だから犯人は決して私を傷つけることはできない。
少しだけ安心して、周りを見回した。
カーテンが閉められていて暗い部屋、私は後ろ手に縛られてしまったけど、足は縛られてなかった。
手首を触って確認したけど、腕時計は縛るのに邪魔だったのか、あの男達に取り上げられたのかもしれない。
(それにしても……。どこだろう、ここ)
もぞもぞと横向き経由で起き上がり、ベットに腰掛けて部屋の様子を伺う。
ベランダがある窓とドアがあり、それほど大きくない部屋の中は、私が寝かされていたベッドと小さな椅子、天井の照明くらいしかない。
(履いてた上履きもなしか……)
視界に入るドアと窓を見比べて、靴下のままカーテンのかかった窓際に立ち、隙間からそっと外を伺ってみた。
どこかの住宅街なのか普通の一戸建てやマンションが整然と立ち並び、公園で散歩している人がすごく小さく見える。
これは2階や3階の高さではない、自力で抜け出すのは無理そうだ。
窓の外はベランダのようだが、開けない方がいいだろう。
自宅についていた警備システムのような装置が、窓の上の方に見えるから、窓を開けると犯人か警備の人が来てしまう。
まぁ、開けようとしても縛られているから開けられないけれど。
(これから、どうなるんだろ……)
私はまたベッドのはしに腰掛けた。
パパや藍野さんの話通り、あいつらは中東人なんだろうか。
それとも別の身代金目当ての誘拐?
腕時計もないから、藍野さん達も私を探せてないかもしれない。
大体学校から誘拐するなんて、誰も考えないよ。
考え出せば良くない事ばかりで、全然毅然となんてできない。
怖くて不安で泣かないだけで精一杯だ。
怖いよ、藍野さん。
私は座って膝小僧を見つめながら、時間が過ぎるのを待っていると、窓を引っ掻く嫌な音が聞こえ、誰かが小さくノックしている音がした。
何だろうと近づくと、鍵の部分のガラスが半円形に切られて穴が空き、にゅっと手が出てきた。
びっくりしすぎて声も出なかった。
その手は器用に鍵を開けて、ガラス窓を開けて入ってきた。
「あ、」
藍野さんは少し微笑んで人差し指を立て、静かにするように伝えてきた。
私も続けたかった言葉を飲み込んで、藍野さんに近づいた。
ごく小さな声で藍野さんは言った。
「お待たせしました、詩織お嬢様。ああ、ちょっと後ろ向いて頂けますか?」
言われた通り後ろを向くと、私を縛っていた紐を切ってくれると、私はほっとして手首を撫でる。
ちょっと痛かったんだよね。もうちょっと加減してほしかったな。
藍野さんが片手にベルトっぽい何か持って「ところで詩織お嬢様、高い所は平気ですか?」と聞いてきた。
私は聞かれてつい、手すりから下を見た。
すぐに見なければ良かったと後悔した。
「む、無理無理! ここからとか絶対無理!!」
私は一歩後ずさったけど、藍野さんはにっこり笑って鬼畜な事を言った。
「では、目をつぶって下は見ないでください。大丈夫、懸垂下降なんて一瞬です」
藍野さんは距離を詰め、腰の引けてる私に手早くベルトを巻き、紐をつなぐと、無線で話す。
『杜山、今から降りるから機材の回収と撤収頼む』
「こんな細い紐一本……お、重くてこれ途中で切れたり……」
頼りなさそうな紐をちょいちょいと引っ張ってみる。
ほんとに細いのだ。体育祭で使う綱引きみたいなロープなら私だって多少安心するのに。
「しません。紐じゃなくてこれはロープですし、私2人分でも切れません。ご安心ください」
藍野さんはロープのベルト付近の金具を繋ぎ、宙吊りで私を抱えて紐に体重をかけた。
今度はちゃんとお姫様抱っこだ。
咲良が聞いたらきっと喜びそうなシチュエーションだ。
「ほら、大丈夫でしょ」
揺れが怖くてしがみついたら、左脇の硬いものがおでこにあたった。
藍野さん、何入れてるのかしら。
「今から降りますから、目はつぶってください。あと声は我慢してくださいね」
コクコクと頷き、ぎゅーっと力一杯目を閉じ、声が出ないように歯をくいしばった。
藍野さんが壁を軽く蹴った。
「……!」
ひーーーーっ!
お、お、お、、、おっ…おちっ……落ちてる!!
全身がぞわぞわぞくぞくして、身体中の血液が逆流してるみたいだ。
ある程度落ちるとぴたりと止まり、藍野さんはまた壁を蹴る。
3回くらい壁を蹴って落下は止まった。
「ほら、着きました。もう目を開けても平気です」
そうっと目を開くとちゃんと藍野さんは地べたに足をつけていた。
見上げれば随分と高い所から降りてきたようだ。
ロープの先がすごく小さい。
「よく頑張りましたね。さあ、早く帰りましょう」
藍野さんはぽん、とひとつ頭をなでてくれて、私をそのまま車に乗せた。
学校からカバンと靴も取ってきてくれたのか、ちゃんと座席に置いてある。
靴を履けば、登校の朝と変わらない風景だ。
いつもの車内の、いつもの匂い。
いつもと同じで藍野さんが運転してる。
いつもの、私の日常。
車窓には見知った公園、電柱、看板、お店。
なじみ深い景色がどんどん増えていく。
本当に家に帰ってこられたんだ。
「う……ふぇっ。こ、怖かっ……」
後は壊れた蛇口のごとくボロボロ涙がでてとまらなかった。
ずっと泣いていた私を見かねたのか、藍野さんはハンカチを差し出した。
「……どうぞ」
さんざん泣いている間に、家についていたらしい。
気がつけば車は自宅の車寄せに停められて、隣には藍野さんが座っていた。
「立てそうですか?」
差し出された手を取って、立ってみたけど、まるで足に力が入らない。
かくん、と倒れ込むのを藍野さんは支えてくれた。
「はは、おかしいね。体が全然いう事きかないや」
「本当に安心したからですよ。失礼ですが母屋までお運びしても宜しいですか?」
「お願いします」
藍野さんは今日三度目のお姫様抱っこで、玄関を抜け、スタスタとリビングへ私を運んで行く。
一度も家の中に入った事ないのに、なんでリビングがどこにあるか分かるんだろ。
「こちらで宜しいですか?」
藍野さんは私をリビングのソファに座らせて、しゃがみこんで靴を脱がせた。
「桐山さん呼んできます。今日は何も考えずにゆっくりお休みください」
そうだ、桐山さん!
私の靴を手に引っ掛けて、桐山さんを呼びに行こうとする藍野さんを私は引き止めた。
「ま、待って!!」
私は強引に手を伸ばし、藍野さんのジャケットのすそをぎゅうっと握った。
桐山さん、今日は通いの日だから時間がくると帰ってしまう。
パパは東京で今すぐに帰ってはこない。
また一人になる。今の私に、それはどうしようもなく怖い事だった。
「パパが帰ってくるまで、ううん、今日だけでもいいから私一人にしないで、お願い!」
藍野さんは少し考えるような仕草を見せて、
「承知しました。桐山さんを呼んでから、警備変更の手配をしてきます。少しだけお時間頂けますか?」
と、座っている私の目線に降りてきて、言った。
「ちゃんと戻ってきてくれる?」
「戻ります」
力強く藍野さんは答えてくれたので、私は握りしめていたジャケットの裾を手放した。
可哀想なジャケットは、そこだけ皺になってしまった。
程なくして桐山さんも来てくれ、藍野さんを待っている間にパパからも電話が来た。
パパは「声を聞いて安心した。明日は神戸に戻るから、夕飯を一緒に食べよう」と言ってくれた。
藍野さんが約束通り戻ってきた頃には、きちんと立って歩けるようになっていた。
桐山さんには2人分用意してもらい、夕飯も付き合ってもらった。
この家でパパと桐山さん以外の誰かと夕飯を一緒に食べるなんて、初めてかも知れない。
食欲なかったから、それほど食べられはしなかったけれど。
夕飯の後、藍野さんと拉致された時の話を少しした。
「嫌な事を思い出させて申し訳ないのですが、拉致された時、何か痛い事やおかしな事はされましたか?」
藍野さんが私の姿を確認した時、私はベッドに寝かされていた。
もし、眠るために薬を使われていても、中身が絶対に医療用の麻酔薬の類とは限らない。
闇で手に入るドラッグにも使い方や量でそういう効果があるから、明日は学校はお休みして、薬物検査を受けた方がいいという。
「臭いハンカチ嗅がされたくらいしか覚えてないけど……わかった。明日病院行くよ」
お風呂から上がると桐山さんはもう帰っていて、代わりに藍野さんがお
やつにとミルクティーのムースを出してくれた。
一口食べてみた。
いつもの桐山さんの淹れてくれるミルクティーよりお茶の香りがして、スパイスが入ってない。
桐山さんが淹れるときはシナモンが入るはずなのに。
美味しいんだけど……お酒の味がすごく濃い!
「藍野さん、これ……お酒?」
私、未成年だけどこんなの食べていいのかな?と目で訴えかけた。
「食べられそうなら食べてください。ブランデー多目のロイヤルミルクティーのムースです。先程桐山さんにお願いして作って頂きました」
ああ、ロイヤルミルクティーなら納得。
道理でシナモン入ってない訳だ。
私はシナモン入れるチャイ派なんだよね。
「ほんの気休めですが、ミルクとブランデーで少しは眠りやすくなるかと。でも、高坂社長には内緒にしてくださいね」
ふふっと笑って藍野さんは人差し指を立てて、口元に当てる。
藍野さんの前にもあって、ついでに自分も食べていた。
ちゃっかりさんめ。
「さて、眠くなるまで何かお話しでもしましょうか」
「話しかぁ……そうだ私、藍野さんの事聞きたい」
「よろしいですよ、眠くなったらそのまま寝てください。後で2階にお運びしますから」
「じゃあ質問。藍野さん、名前の漢字はどう書くの?」
報告書や名簿で読みは知ってるけど、漢字は知らないんだよね。
「湊です、さんずいに奏でるで湊です」
指で空中に漢字を書いた。
「湊さんて呼んでもいい?私も詩織でいいから」
「構いませんが、その呼び方は二人だけの時だけです。他の警護員がいる時は今まで通り藍野とお呼びください。でないと他に示しがつかないので」
「湊さん、ママの映画とかドラマ、見たことある?」
「そうですね……一番好きなのは『空より高く』で、『闇夜のねがいごと』なんかも好きです」
「うわぁ、空より!青春恋愛映画って全然湊さんのイメージじゃないよ」
『空より高く』は高校生が飛行機を作って飛ばす話で、ママは同じ部の男の子と恋に落ちるヒロイン役、『闇夜のねがいごと』は新人女性SPが誤射事件を起こし、それに巻き込まれ両親を失い一人ぼっちになった男の子をママが演じるSPが引き取る話だ。
最後は上司と恋人になったっけ。
あれ?湊さんって恋愛物好きなのかな?
「空より公開の頃、俺は高校生です。人並みに青春時代はありましたよ」
大きな図体でぷんすかして言い訳する姿はかわいいなぁ。
ちょっとからかいたくなってしまう。
「へぇ、誰と見たの?一人って事はないと思うけど」
「当時付き合っていた彼女と見ました。見終わったら何故か振られていましたけど……」
「うわぁ、リアル空よりだ、なんかゴメンなさい」
空よりは恋人になってから一度別れてしまい、再会したあと盛り上がってよりを戻したんだよ。
その別れ話を映画館でしてたんだよね。
なんだか似ていて申し訳ない気持ちになった。
話題を変えようと、私は明るい声を出す。
「そうそう、闇夜はね、私も出たんだよ。3話の野次馬の子供役。あれってSPのドラマだけど、湊さんはSPになりたかったの?」
今も護衛なんてやってるし、警察官とかなりたかったのかな?
「いえ、その辺は特になかったんですが、高田沙織の上司がカッコよくって憧れましたね」
ぽろっと湊さんの口から出てきたママの名前に、本当に湊さんの記憶に高田沙織は生きてるんだと思えた。
どんな偉い評論家や監督さんにママは凄い女優だったんだよって聞かされるより、普通の人の湊さんからママの話を聞くほうが何倍も嬉しいのは何故なんだろう。
「どうかしましたか?」
怪訝そうな顔で湊さんは私を覗き込む。
「ううん、何でもない。湊さんの中で高田沙織はちゃんと生きてるんだなぁって実感したから、嬉しくて」
ママの話を一つ思い出し、そのまま続けた。
「ママが言ってたの。映画もドラマも覚えててくれる人が一人でもいれば、ママはその記憶の中でずうっと生きられる、だから女優は楽しくてやめられないのよって」
「俺でさえ女優、高田沙織を覚えているんですから、忘れ去られる方が難しいですよ、あと『闇夜の』はテーマソングあったでしょ。高田沙織が劇中で歌った方、あれも好きだったんです」
「ああ、英語の歌だよね?引き取った息子に歌ってあげてた」
不法滞在の子どもだったから日本語が通じない設定で、泣き止ませるためにいろんな曲を歌った中で一番食いついた曲。
えっと、確か……。
「「サマータイム」」
「ウチは両親がジャズとかブルースとかそういう音楽が好きで、俺が子供の頃はそういうのばっかり聴かされて育ったんですけど……詩織様?」
ああ、ダメだ。
頭がグラグラして、目も開かなくなってきた。
ねぇ、湊さんは何が好き?
もっと知りたいのに、肝心な事が聞けない。
「み、なとさん。ご…め……なさい、そろそろ限……」
「いいですから、そのまま眠ってください」
湊さんは私の肩を引き寄せ、頭をもたせかけた。
湊さんが小さく歌う声が聞こえる。
あの男の子に歌ったサマータイムだ。
―――One of these mornings
―――ある朝
―――You’re going to rise up singing
―――あなたは歌い出し
―――Then you’ll spread your wings
―――そして翼を広げ
―――And you’ll fly to the sky……
―――あなたは空を飛ぶでしょう
※ ※ ※
詩織様が穏やかな寝息を立て始めるのにそう時間はかからなかった。
出会ってすぐの俺に食ってかかる気の強い彼女が、随分と怯えて誰かを側に置きたがる姿なんて、初めて見た。
桐山さんに事情を話し、消化が良さそうな軽めの夕飯にしたにもかかわらず、あまり手をつけていなかった。
心配させたくないのか、さも平気そうな顔で動き回り、かと思えばやたらとはしゃぎ、家にいて安全だというのに、全く落ち着く気配のない様子の彼女は、側で見ていて痛々しいものだった。
あんな事があった直後だ。こんな行動も無理ないだろう。
恐らく急性ストレス障害の症状が出始めている。
ウチの警護員なら一度は通る道だ。
俺にも覚えはあるから、彼女の辛さもよく分かる。
あまり良くない兆候に睡眠薬なり安定剤なり使えればよかったのだが、薬物検査もしないまま更に薬を使う訳にもいかず、苦肉の策で酒にしたが、とっくに身体は限界だったのだろう。
あんな菓子程度の酒でもよく効いてくれた。
(しかし、女の子を酔わせてベッドへ連れ込むなんて、俺も悪い男になっちゃったなぁ)
状況だけは一丁前な事に苦笑しつつ、俺は詩織様を抱き抱えて2階の彼女の部屋へ入り、ベッドへ運び入れた。
桐山さんが用意していてくれたらしい布団を掛けてやり、邪魔そうにかかる髪の毛をそっと撫でつけて直した。
―――But till that morning
―――でも、その朝が来るまで
―――There’s a’nothing can harm you
―――あなたを傷つけるものはない
―――With daddy and mamma standing by
―――父さんと母さんが守るから
「おやすみなさい、詩織様。いい夢を」
俺はそっとドアを閉めた。




