錬金術師と牛乳屋さん
「ふう。やっぱりお風呂は気持ち良いなー」
湯気の立ち込める浴場で、大きく息を吐きながら誰ともなしに呟く。
熱いお湯に身体を沈めているだけで溜まった疲れが抜けていくようで、幸せな気分になれる。
昨日は『妖精の塗り薬』の作りすぎで一時的にエーテル不足になり、そのまま倒れるように寝てしまった。
さすがに二日もお風呂に入っていないのは――もちろん身体を拭くくらいのことはしていたが――気持ち悪く、加えて昨日は森林の中を歩いて汗をかいたこともあり、今日は朝から街の住宅街にある公衆浴場へと赴いていた。
朝一のためか他にお客はおらず、貸し切り状態になっているのは嬉しい誤算だったか。
「ロザリーも来られれば良かったのに……」
石造りの高い天井を見上げながら呟くが、お店があるので仕方がないことは分かっている。
今日は一人で来てしまったが、次はお店が閉まった後で一緒に来ようと心に決め、私は広い浴槽から上がった。
着替えて受け付けのお婆さんに挨拶をしてから外へ出ると、心地の良い春の風が火照った身体を冷ますように吹き抜けた。
大通りから一本外れた道ではあるものの、舗装された石畳をはしゃいで追いかけ合う子どもたちや、道の端で立ち話をするお母さんの姿など、街は賑わいを見せ始めている。
そんな街の様子を見ながら、さてまずは何をしようかなと考える。
今日は一日予定もなく、ロザリーからは「街でも見てきなよ」と言われている。
私としても街のどこに何があるかは把握しておきたいし、ついでに足りない日用品や食材も今のうちに買い揃えておきたい。
特に食材の調達は急務で、今お店には白パン以外だと森林で採れるらしい木の実やジャムなどの保存食くらいしかない状態だ。
ロザリーの体格だと白パン一つで三食賄えてしまうため、当たり前と言えば当たり前なのだが。
「うーん。とりあえず、市場に向かってみようかな」
そう決めて口に出してから街の西側の商業区へと足を向ける。
暖かな陽気に誘われるように街を歩き、中央にある広場を抜けると、住宅街とはまた違った喧騒が出迎えてくれた。
露天商やお客の活気に溢れた声、道行く人の靴や荷車の車輪が鳴らす石畳の音。
バターの焦げた香りだろうか、漂ってくる食べ物の匂いは、まだお昼まで時間があるにも関わらず食欲を刺激してくる。
思わずごくりと唾を飲んでしまうが、いやいやと首を横に振る。
お昼はお店に戻ってロザリーと食べるつもりだ。
買って帰るならまだしも、買い食いは止めておこう。
手提げカバンの持ち手の部分を肩に掛け、気の赴くまま露店を見て回りながら、日持ちしそうな乾物などを中心に買っていく。
やがて飛行船の停泊場に近くなったためか、建ち並ぶお店は宿屋や服飾店が多くなり、露店で売られている物も貴金属や布類などが目立ってくるようになる。
ただ、今日は飛行船が発着する日ではないのか、露店の半分以上が閉まっている。
道行く人も少なくなっており、これ以上進んでも意味がないなと引き返そうとした時だった。
露店の隣に積まれた木箱の陰から人が飛び出してきた。
「きゃっ!」
「おおっと」
驚きで小さく悲鳴を上げながらも、なんとか横へ避けて衝突を免れる。
出てきた男性もよろめきたたらを踏むが、転びはしなかった。
「悪いな、嬢ちゃん。よそ見しちまってた」
「いえ、こちらこそごめんなさい。……あれ?」
謝るように軽く頭を下げたところで男性の付けたエプロンが視界に入る。
エプロンの白い生地にはデフォルメされたウシが刺繍されている。
もしかしてと顔を上げてみると、いかつい体格に対して柔和な顔の男性と目が合った。
この顔、それに可愛いウシのエプロン――やはり街に来た際に親切に声を掛けてくれた人だ。
「うん? あんた、この前の嬢ちゃんか?」
「はい。先日はありがとうございました」
「何、大したことはしてねえさ。無事にやってるようで良かったよ」
男性は照れ隠しをするように軽く肩をすくめると、口元をほころばせる。
しかしその笑顔は前とは違いどこか硬く、まだ数回しか言葉を交わしていない私でも何かあったのだと察することができるほどだった。
お店のことを教えて貰った恩もあるし、何より困っている人がいたら見過ごすことはできない。
「あの……表情が優れないみたいですが、何かありましたか?」
「ああ、悪い。ちょっと仕事のことでな、悩んでることがあるだけだ」
「良かったら相談に乗りましょうか? 私、こう見えて錬金術師なんですよ。まだ駆け出しですが、もしかしたら力になれるかもしれないですし」
「錬金術師? うーん……確かにそれなら何か良いアイデアがあるかもな。……よし、聞いてくれるか?」
「はいっ、もちろんです!」
少しだけ考える素振りを見せたが、話してくれると言った男性に私は力強く頷く。
男性は「どっから話すかな」と前置きした後、言葉を選ぶように話を切り出した。
「俺はこの街の南西の方で酪農家をやっているんだ。ああ、酪農家ってのはウシを飼う仕事のことだ」
南西というと『妖精の贈り物』とは街を挟んで正反対に位置する場所だ。
飛行船から見下ろした時は森林の方ばかり気にしてあまり意識していなかったが、確かに建物のない広いスペースがあった覚えがある。
ついでにずっと気になっていたウシの刺繍のエプロンを着けている理由も解けてすっきりした気分になる。
「今から一ヶ月ほど前、子ウシが生まれたんだ。そりゃもう可愛くて……って今それはいいか。ただ、その中の一匹が、あまり餌を食べてくれないんだ」
「お医者さんには見せたんですか?」
「もちろんだ。けど、病気じゃなさそうと言われてな。原因も分からず対処方法もない以上、このままだと近いうちに処分になっちまう」
「処分……。えっと、食べてはいるんですよね? ちなみにどんな餌なんですか?」
「ああ。まあ少しはな。餌は昔から使っているやつさ。麦や牧草を細かくしたものに『活性粉』を混ぜてできあがり、ってな」
処分という言葉に胸が詰まるが、そうさせないために男性は悩んでいるのだし、私も話を聞いているのだ。
沈んでいる場合ではない。
餌、病気ではない、麦や牧草、それに『活性粉』――男性の言葉を頭の中で反芻していたところで、先生がくれた本のとあるページが思い浮かんだ。
「思い出しました! 『ミネランフィード』です!」
「うおっ、なんだ突然?」
思わず組んでいた腕を解いて両手を軽く打ち鳴らしてしまい、男性が少し目を丸くする。
「あ、ごめんなさい。錬金術で作れる物の中に、動物用の栄養食があったのを思い出したんです。あれならもしかするかもしれません!」
「おお、本当か!?」
「はい! さっそく戻って作り方とか見てきてみますね」
「何から何まで悪いな。そうだ、嫁がここから一本南の通り沿いで『ボダンの牛乳屋』つう店を出しているから、何かあればそこに伝えてくれると助かる」
「分かりました」
お店の名前を覚えるようにしっかり頷いてから、そういえば重要なことを聞き忘れていたと気付く。
「そうでした、まだお名前聞いていなかったですね。私はレティシア・ライエって言います」
「俺はダミアン・ボダンだ。よろしくな、ライエ嬢ちゃん!」
ようやく元の調子を取り戻したように顔いっぱいに笑顔を広げた男性、ボダンさんに、私も釣られるように笑顔を浮かべて返事をした。
◇◇
その後すぐにボダンさんと別れた私は、急ぎ足で大通りを引き返し、『妖精の贈り物』のドアを開いた。
「お帰り、レティ。早かったねー」
「ただいま、ロザリー。ちょっと調べたいことがあってね」
掃除でもしていたのか、ロザリーのサイズに対して大きい布巾を抱えるように持って、テーブルに並べられた品物の上を飛びながら出迎えてくれる。
私は挨拶を返しつつ、お店の奥にある二階へ続く階段に早足で向かうと、ロザリーもふわりと飛んできて隣に並んだ。
「調べもの?」
「うん。街で困っている人を見かけてね。ボダンさんっていう酪農家の人なんだけど、どうやらウシが餌を食べてくれないらしいんだ」
「ボダン? ……あー、あの牛乳屋さんか。アタシも何度か牛乳貰ったことあるね」
顎に人差し指を当てて考えながら、階段を上がる私に器用に飛んでついてくるロザリー。
この街では有名なお店なのか、ボダンさんが誰かすぐに誰か思い当たったようだ。
私は二階の奥、ベッドの元まで歩くと、枕元に置いてあった本を手に取った。
「確かこの本に『ミネランフィード』について書いてあった覚えがあるんだけど……」
「『ミネランフィード』? それが必要なの?」
「動物用の栄養食なんだ」
会話を続けながらも、故郷サントスを発つ際に先生から貰った手書きの本のページをめくる。
本は見出しでそのページに何が書かれているのか分かるようになっており、先生の几帳面さが窺える。
やがて見出しに『ミネランフィード』と書かれたページに行き当たった。
「あった! えっと、必要な素材は『活性粉』と……『ミネランベリー』?」
見つけた喜びで声を上げるが、聞いたことのない素材にすぐに眉をひそめる。
ページを戻って調べようとする前に、隣で金色の髪を寄せて本を覗き込んでいたロザリーが口を開いた。
「『ミネランベリー』が必要なの? でもそれ、人が食べられるような物じゃないはずだし、どこにも売っていないと思うよ?」
「ええ……。あ、森林にもないのかな?」
このお店の周りにある森林は、ロザリーの妖精としての影響で珍しい植物なども生育している。
もしかしてと期待を込めた目を向けて尋ねてみるが、しかしロザリーは首を横に振った。
「残念だけど見たことないね。そもそも平原に生えてるものだから、ここにはないと思うよ」
「そうなんだ。うーん、なら街の外まで取りに行く必要がありそうだね」
「――えっ!? 街の外に行くつもりなの!?」
飛行船の上から見た、街の外に広がる平原になら生えているだろうと考えを口にした私に、ロザリーは目を丸くして見つめてくる。
言いたいことは分かるが、私も駆け出しとはいえ錬金術師だ。
錬金術師が錬金術を行うには、当たり前だが素材が必要で、中には危険な魔獣の生息する地域にしか存在しないような素材や、そもそもその魔獣の部位自体が素材のこともある。
ゆえに錬金術師は、自らの理想とする素材を求めて街の外へと繰り出す人が意外と多い。
先生もそんな人の一人であり、基本的には部屋にこもって研究するのが好きなのだが、たまに思い付いたように街の外へと出掛けていた。
そして、そんな先生の弟子である私も身を守れるようにと、最低限の戦い方は教えられている。
「大丈夫だよ。先生から身の守り方は教えて貰っているし、いざとなればこれがあるからね」
心配そうに見つめるロザリーに苦笑しながら、私はローブの右に縛ってある布の袋を軽く触る。
素材を入れる用の左側の袋とは違い、こちらには常に物が入っている。
「……それ、もしかして、オレールも使っていた『元素石』?」
「やっぱりロザリーも知っているんだね。うん、これがあれば大丈夫でしょう?」
「逆にちょっと心配になってきたかも」
「ええー!?」
「アハハ、じょーだんだよ。うん、それがあるなら大丈夫だと思う」
低くなったロザリーの声に一瞬困惑するが、すぐに戻ったことでホッと息を吐く。
心臓に悪いから変な冗談は止めて欲しい。
でも、確かに『元素石』は切り札、奥の手みたいなものだから、使わないに越したことはない。
なるべく魔獣との遭遇は避けるよう慎重に進もうと改めて決意し、私は本を閉じてローブの内ポケットにしまう。
「でも、その前にご飯食べよっか? それと、荷物も降ろしたら?」
「あ、そうだね」
ロザリーの言葉に肩から提げたままだったカバンをテーブルに降ろすと、私はロザリーと一緒にお昼の用意を始めるのだった。