錬金術師とリガロの街
故郷サントスを出発してから約六時間後。
デッキで景色を眺めながら簡単な昼食を取ったり、大部屋でうたた寝をしたりしているうちに、船員から目的地である街が見えてきたという案内を受けた。
私や他の乗客の何人かがデッキの船首の方へ出ると、前方に広がる草原の緑の中に、楕円形に区切られた一角が見えた。
街を囲う灰色の壁が夕焼けに照らされてうっすらとオレンジ色に染まっている。
街の中央には広場のような大きめのスペースがあり、そこから東西南北に大通りが伸びているようで、茶色の屋根の建物が大通りを中心に密集している。
西――つまり私たちの乗る飛行船に近い側に停泊場があり、その南側には牧場か何かだろうか建物のない広場、北東には小さな森林と湖も見える。
「あれがリガロ……! あ、そうだ」
私は手すりから身を乗り出すような体勢で街を眺めた後、思い出したようにローブのポケットから先生に貰った地図を取り出した。
風で飛ばされないように両手でしっかり広げて持つと、徐々に近付きつつある街と照らし合わせるように見比べる。
「えっと、ここが中央の広場で、こっちが北だから……あ、あれ?」
しかし不思議なことに、地図上で丸印が付けられた場所は、街の北東に位置する場所――つまり小さな森林がある場所に当たる。
方角を間違えたかと思い、地図を回したり門の位置を見比べたりと何度か確認してみるが、やはり森林のある場所で間違いないようだ。
もしかして描き間違えた? と一瞬頭をよぎるが、先生に限ってそれはないだろうとすぐに否定する。
そうなると……。
「――引っ越した?」
そんな考えに行き着き、口に出してしまった途端に不安が押し寄せてくるが、頭を振って考えを追い出す。
街の人に聞いてみれば分かることなんだし、まずは先生が描いてくれた地図通りの場所へ行ってみよう。
心の中でそう決めると、地図をポケットに戻して街を見つめる。
それから十数分ほど周りの乗客の会話を聞きながら新しい街へ期待に胸を膨らませていると、飛行船が停泊場に着いた。
ゴンドラに掛かった橋を順番に渡っていく乗客たちの後ろに並び、私も飛行船から降りる。
「お疲れさまです。乗船券を回収させて頂きます」
「ありがとうございました。はいどうぞ」
笑顔で出迎えてくれた船員に乗船券を渡し、停泊場を後にする。
リガロの街の中は、夕暮れ時だからだろうか、それとも飛行船が到着したタイミングだからだろうか、人で賑わっていた。
とはいえ、サントスより王都から離れているためか人の量自体は少なく感じる。
「そこの嬢ちゃん、見掛けない顔だな! リガロは初めてか?」
とりあえず大通りに沿って中央に見えた広場へ向かおうと歩き出したところで、大柄な男性に声を掛けられた。
身長は先生と同じくらいだが、細身であった先生とは違い男性は腕や身体つきががっしりしており、相当鍛え抜かれているのだと一目で分かる。
しかし柔和な顔付きとエプロン――しかも胸元にデフォルメされたウシが刺繍されていてちょっと可愛い――を着ていたことで警戒心が薄れる。
私は男性へ向き直り、ぺこりと頭を下げた。
「はい。今日からこちらで住むことになりました」
「そうか、よろしくな! 場所は分かるか? 案内してやろうか?」
「いえ、大丈夫です。先生……親代わりの人から地図を貰っているので。あ、でも、お一つ尋ねしたいことが」
「おう、何でも聞きな」
いかつい見た目に反して優しく世話を焼いてくれる男性に感謝しつつ、私は街の北東を指差す。
「あちらに小さな森林があると思うのですが、そこに『妖精の贈り物』というお店はありますか?」
「ああ、あるぜ。嬢ちゃん、あそこに住むのか?」
「良かった……。はい、しばらくお世話になる予定です」
お店があると聞けて安心した後、男性の質問に頷いて返す。
「そうか。新しい生活は大変だと思うが頑張りな! 何かあれば、俺で良ければいつでも相談に乗るぜ!」
「ありがとうございます」
白い歯を覗かせ屈託のない笑顔を広げた男性は、親指を立てていた手を広げて「じゃあな」と軽く振りながら雑踏の中へ消えていった。
声を掛けられたついでとばかりに聞いてみたが、ちゃんとお店が存在すると確認できたのは幸いだった。
心の中で再度エプロンの男性にお礼を告げると、私は森林へ向うため再び大通りを歩き出す。
この街は中央にある広場を中心に大通りに沿って大まかに区画が分かれているらしい。
飛行船の停泊場がある西側は商業区になっており、宿屋や飲食店、服やアクセサリなどの服飾店が目立つ。
飛行船で街へやってきた人や出ていく人向けであろう、おみやげ屋なんてお店もある。
特に夕食時ということもあり、どの飲食店からも胃袋を刺激する良い匂いが漂ってきて大変だった。
対して東側は住宅街になっているようで、明かりの灯った一軒家が建ち並んでいる。
家の中からは子どものきゃっきゃとはしゃぐ楽しげな声が聞こえてきて、思わず私も顔を緩めてしまう。
そんな暖かな家々も徐々に少なくなり、大通りも途切れたところで左手に森林が見えた。
森林の奥まで続いている、申し訳程度に舗装された道の上をさらに歩くこと数分。
木々の奥に赤色の屋根を見つけ、私の足は自然と早くなる。
やがて現れたのは、二階建てのお店だった。
「わあっ、可愛い……!」
その幻想的な風景に思わず言葉が漏れる。
森林の中にひっそりと佇む木造の建物は、遠くから見えた通り落ち着いた赤に塗られた三角屋根があり、そんな屋根や壁には周囲の木々から伸びた蔦がところどころに絡み付いている。
またお店の前には、まるで来るものを歓迎するかのように、大小さまざまな鉢に植えられた色とりどりの花が咲き乱れている。
そんな花たちに出迎えられながらお店の前の段差を登り、ドアの前に立つ。
ドアに掛かった木製のプレートにはこれまた可愛らしい文字で『妖精の贈り物』と書かれている。
街で男性が言っていた通り、ここで間違いないようだ。
私はボストンバッグの持ち手をギュッと握り締めると、意を決してドアを開く。
ドアに取り付けられたベルがチリンチリンと音を立て、私という来訪者の存在を告げる。
「こんばんは」
お店に入った途端、数種類の花や薬草の匂いが混ざった、どこか落ち着くような匂いが漂ってくる。
一部の花や薬草は嗅ぎ慣れているので分かるが、他は何の植物ともつかない。
私は商品の並べられたテーブルや棚を眺めつつ部屋を見渡すが、店主や店員らしき人影は見えない。
もしかして留守だったかと頭をよぎるが、しかしカギの掛かっていないドアや付けっぱなしの明かりがそれを否定する。
「二階にいるのかな?」
お店の奥に上へ続く階段を見つけ、誰ともなしに呟いた――その時だった。
「こんばんはー」
「――ひゃっ!?」
突如、耳元で囁かれた声に、肩が跳ね上がる。
その拍子にボストンバッグを手放してしまい、ぼすんっという音でさらにびっくり。
そのままバランスを崩し、ガタンと大きな音を立てながら派手に転んでしまう。
テーブルや棚を避けるように倒れることができたのは不幸中の幸いか。
「うわー、ごめんごめん、そんなに驚くとは思わなくて! 怪我はない?」
「ら、らいりょうう……れふ」
「いや、あんまり大丈夫そうには見えないけど……」
半分心配、半分驚いたような声が掛かり、私は木の床に突っ伏したまま返事をする。
女の子特有の高い声だ。
なるほど、どこかに隠れていて不意打ちを掛けられたのかとそこでようやく状況を把握する。
しかし隠れるような場所なんてあっただろうか?
そこまで考えてようやく痛みも引いてきたので、両手をついて身体を起こす。
そして文字通り目の前に現れた相手を見て、私は「へ?」と間抜けな声を漏らす。
「……妖精?」
「そうだよ? ……もしかして頭でも打った? ホントに大丈夫?」
「あ、はい。本当に大丈夫です」
私の手のひらよりも小さな顔に心配そうな表情を張り付けて再度聞かれてしまうので、慌てて両手を顔の前で振りながら言葉を返す。
「って、腕、血出てるじゃん! ちょっと待ってて!」
妖精の女の子はそう言って後ろを振り返ると、すーっと音も立てずに飛んでいってしまう。
飛んでいるにも関わらずなぜかほとんど動いていない背中に生えた透き通るような羽を目で追いかける。
私のいる入り口から遠くにある棚に着地して「うんしょ……!」と銀色の何かを引きずり出し、それを両手で抱えるとふらふらと飛びながら戻ってきた。
「これ使って」
やがて戻ってきた妖精の女の子は、床にぺたんと座ったまま待っていた私の膝の上へ、銀色の物体を落とした。
拾い上げたそれは、私も幼い頃からよく見る丸い缶だった。
「ありがとうございます。……これ、『妖精の塗り薬』?」
「あれ、知ってるの?」
「知っているも何も、先生がたまに作っている物ですよ。私も小さい頃、よく転んで怪我した時とかに塗ってもらったなあ……」
そういう今も転んで怪我していることを思い出して、少し顔が赤くなるのを感じる。
誤魔化すように缶の蓋を開けて中に白色のクリームが詰まっているのを見て、確かに先生の作った物だと確信する。
「……先生? もしかしてキミ、オレールの弟子?」
すると妖精の女の子から先生の名前――しかも呼び捨て――が飛び出してきた。
そういえば、お店に入ってきてから派手に転んだりこの子と話ししたりしているけど、一向に他の人が来る気配がない。
半ば確証を得ながらも、まさかと思い疑問を口にする。
「そうですけど……あなたがこのお店の店主なんですか?」
「うん、そうだよ」
きょとんとした顔で当然のように頷く妖精の女の子。
しかし、妖精族はこんな人里に下りてこないし、ましてやお店を経営しているなんて聞いたこともない。
でもこれでお店の名前を聞いた時に先生が苦笑いした理由が分かった。
本当に妖精が経営しているとは予想だにしなかったが。
「ふーん。まさかオレールの弟子がこんな可愛い娘だったなんてね。それより、早く薬使った方がいいよ?」
「あ、そうですね」
妖精の女の子に促されるようにクリーム状の薬を指で掬い、左腕の血の滲んでいる箇所に塗る。
触れた際にちくっと痛みが走ったが、見た目通り軽く擦りむいているだけのようだ。
他にも怪我していないか腕や足を一通り確認しておくが幸いそこだけだった。
缶の蓋を閉めるとシャツワンピースを軽くパンパンと払って立ち上がる。
「お薬、ありがとうございました」
「どーいたしまして。元はと言えばアタシが驚かせたのが悪かったからね、ホントにごめんね。あ、お詫びと言っちゃ何だけど、その薬はあげるよ」
「いえ、ではお言葉に甘えて貰っておきます」
ありがたく頂いた塗り薬の缶をローブのポケットへしまうと、改めて私の顔の高さでふわふわと飛んでいる妖精の女の子を見る。
頭頂部より少し後ろの左右で束ねて垂れている金色の髪が揺れているが、相変わらず羽はほとんど動いていない。
一体どういう原理で浮いているんだろうとちょっとだけ好奇心が刺激されるが、まずは挨拶からだ。
「挨拶が遅れました。今日からこちらでお世話になります、レティシア・ライエです。レティって呼んで下さい」
「これはご丁寧にどーも。アタシはロザリー。この雑貨屋『妖精の贈り物』の店主だよ」
「ロザリーさん、ですね」
「ロザリーで良いよ、レティ。それと敬語は禁止ね!」
「分かりまし……じゃないですね。うん、分かった」
「アハハ! まー、徐々に慣れていけば良いよ。じゃあ、これからよろしくね、レティ」
「よろしくおねが……よろしく、ロザリー」
ロザリーが握手を求めるように差し出してきた右手に私も右手を伸ばすと、小さな手で人差し指を握られる。
こうして駆け出し錬金術師の私と、妖精の女の子ロザリーとの同居生活が始まったのだった。