五、変わるとき
あれから、勉学のときだけでも銀杏の君のところで過ごすことになった。せめて大人がいれば何かあったとしても童を逃がせると思ってのことだった。梔子の君はとても張り切っていた。はじめに兄弟の会話を増やすことを掲げていたからだ。それでこその友だと。
「銀杏の君のお部屋は何回かおうかがいしていますが勉学にはとても適していますね」
日当たりのよさと風通りのよさに嬉しそうに梔子の君は話しかけるが、むっつりと白鷹は一点を見つめていた。つられて梔子の君も顔を向ける。
「白雲は嬉しそうですね」
銀杏の君のところにはあの鞨鼓が大切に飾られている。白く大きな母犬は以前とは違い寝そべっている。その傍らに跳ねているような白雲がいた。とても仲良さそうだ。
「なぁ梔子」
「はい」
「勉学が終わったら開かずの間ともう一つのところへ行ってみないか」
「またお宝があるかも知りませんしね」
「よし!明法もあと少しだ、続けるぞ」
そう言って文台へ向かう二人を目を細めて見ているのは部屋の主だ。その横には梔子の君の下の兄と、もう一人男が座っている。緋景は表情はいつもの通り乏しいが、その隣の男はにこにこと微笑んでいる。
「いやぁ、かわいらしいですねぇ、二人とも」
「当たり前だろう、梔子だぞ」
「え、いや、そういう……」
「そう、生まれたときから白鷹はかわいらしい」
「あー、そういう方でしたか宮……銀杏の君は」
緋景と銀杏の君の言葉に男は苦笑していた。それを横目に、緋景はあの鞨鼓の話を聞いて驚いていた。そんな宝があるとは思っていなかったと言う銀杏の君はため息をついていた。父から贈られたものだと思い出したというのだ。銀杏の君の母嫌いは有名だが、父については聞いたことがない。いや、銀杏の君と白鷹の父はそのような好き嫌いでしばれるような方ではない。父から銀杏の君へ贈られたものはあっても白鷹に贈られたものはない。きっと銀杏の君は退くときにこの鞨鼓も白鷹へと譲るのだろう。それくらいには父よりも白鷹に親いはずだ。
先ほどこの隣の男も言っていた。好い気の鞨鼓だと。どこで手にいれたのかと聞かれたが、銀杏の君もわからないとのことだった。ただ、ずっと宝物庫へ納められていたと。ふいに童の声があがり、緋景は妹たちを見た。
「よし!終わったぞ」
「お疲れ様でした。片付けましょう」
「……梔子はもう終わっていたのか」
「まだまだ白鷹様には負けません!」
悔しそうにしながら白鷹は片付けはじめた。梔子の君の教えもあって、女房の手を借りることもありますが周りのことであれば一人でできるようになったのだ。白鷹は隣で文台の上の書を片付ける梔子の君をうかがった。
忙しく片付ける手元を見ている目がきらきらとしてきれいだ。やわらかな餅のような頬に触れたいと思った。
「どうしたのだ、開かずの間とやらに行かぬのか」
片付けの手を止めている白鷹へ不思議そうに銀杏の君は声をかけた。びくりと身体を震わせ、固まっている。梔子の君も顔を覗きこんだ。
「白鷹様?」
「梔子、あれ、病のことを覚えてるか」
「病……あ!急いで片付けてご相談しましょう!」
病と聞こえ、大人たちは息を飲む。白鷹に何かあったのか。片付けを終えた二人は銀杏の君の前へと畏まった。大人たちも緊張する。二人の手はしっかりとつながっており、不安をあおる。
「申してみよ」
なんのことはない。病は病でも、これは白鷹の片恋の話だった。隠れて暮らすために色々と幼い白鷹と、聞いたり読んだりしたことはあるがこれがそれで、まさか己のことだと思い浮かばない梔子の君の組み合わせでは仕方のないことである。はたしてこの病に名を与えてやってもよいのだろうか。これからのことに障りが出ても困る。少し考えたあと、銀杏の君は扇を閉じて後ろへ指した。
「病ではない、安心しなさい、こやつらは得意としておる」
矛を向ける先にされた後ろの二人は正反対だった。緋景は眉間にしわを刻み、もう一人の男は目を真ん丸にしている。
「そういえば、そちらの方にはご挨拶しておりません」
「そうだな、兄上のお客様ですか?」
礼儀正しく頭を梔子の君が下げるので、白鷹も下げる。
「梔子、こんなのに頭を下げなくてもいい!」
「ひどいこと言うなぁ緋景は」
怒ってはいないようで声もやわらかい。緋景から目を離してから二人に向き合う。
「賀茂風星と申します。陰陽寮の者です」
「陰陽!」
「白雲を見に来てくれたんですか?」
「えぇ、猫についても調べますからご安心くださいね」
陰陽の者たちはあまり人に好かれない。目に見えないものを人は嫌がる。だからこそ陰陽の者が必要だというのに、見えもしないで嘘だと言う。もちろん、どうしてか変人と呼ばれる者がたくさん集まってくるから陰陽寮が嫌だと思うのであればわかるのだが。それがこの童たちはどうだろう。おもしろそうに目を輝かせている。さすがは神童と呼ばれた緋景から教えを受けているだけのことはある。ものごとを決めつけたり蚊帳を透して見たりはしないのだろう。
それはそれとして、この清い瞳にどう応えればよいのか。緋景を見ると、ちょうど口を開くところだった。
「吾らが得意かは別として、まずは白鷹様がお気付きではないことをお話ししましょう」
「ん?気付いていないこと?」
「えぇ、白鷹様は梔子を男だと思われますか?それとも女だと思われますか?」
今度は銀杏の君が目を丸める。緋景には感情の動きはない。梔子の君は首を傾げる。
「あれ?申しておりませんでしたっけ?」
「どう言うことだ、男だろう」
「いいえ、女ですよ」
さらりと梔子の君は言ってのける。今度は白鷹が目を見開く。風星は楽しくなってきた。
「おや、この風星も知りませんでした。白鷹様、梔子の君を女の童として考えて、お顔を見てみましょうか」
「うん……梔子、こっちを向いて」
「はい」
じ、と見つめあった。すぐに真っ赤になる白鷹に梔子の君は慌てる。風星は肩を震わせて笑った。
「おい風星」
「いえ、だって、これ」
「まだ白鷹様へお教えは難しいか……」
「えー?いいのかな、いきなり弾けとんで梔子の君が泣くはめにはならない?」
「……病のせいにしよう」
こほん、とわざと咳払いする銀杏の君に風星は笑うのをやめた。ため息をつきながら緋景は白鷹へと説く。
「白鷹様は女の童と遊んだことがありましたかな?」
「な、ない」
「梔子は女の童ですが、遊んで楽しゅうございましたか?」
ちらと梔子の君を見ると、頷いた。楽しくないなどと言えば、たちまち緋景は妹を大納言邸から出すことはなかっただろう。
「うん、楽しいし、勉学もはかどる」
「ではきっと女の童にお慣れになっていないためでしょう。病の一つでしょうが慣れによって治るでしょう」
「そうか……それなら大丈夫そうだな」
「白鷹様、私が女でごめんなさい」
「いや、はじめてだっただけだ、梔子のせいじゃない」
赤い頬で白鷹は微笑んだ。梔子の君も少し赤くなって、身じろぎする。なんか、かわいらしかった、お互いにそう思っていることをわかったのは風星だけだ。うんうんと頷く。おもしろくてたまらないから、焚き付ける。
「そうですそうです!仲良しのまま大きくなって北様に梔子の君をお迎えすればすべてが良い感じにおさまります!」
「風星!なんてことを!」
「北様、ですか?」
「私と梔子が子を作るのか?」
たいへんいらついている緋景には悪いが、とても楽しい風星は、銀杏の君もおもしろそうに聞き役になっているため、続ける。風星には見えていた。二人は契る。どんな形でなのかは言えない。しかし、童二人にはあまり良い手応えがなかった。どちらかというと戸惑っている。
「えぇ、白鷹様はもっと梔子の君とくっついていたいでしょう。そろそろお二人とも大人になりますし、ね?」
「ちぃ兄上、そうなのですか?」
「そうなることもあるだろうが、妻にならなければ友のままでいるし、梔子はどう思う?」
「友のままでも楽しいです。白鷹様はどうですか?」
「うん、友のままでも梔子は好きだ。兄上、そうですよね?」
「そうだな、北の話は大人になってからでも考えればよい。それで、病だが病ではないのだ、わかったか?」
「はい兄上」
「よかったですね白鷹様」
なんてことだ、と銀杏の君と緋景へ顔を向けると、銀杏の君はただおもしろそうにしているが、緋景の美しい顔が怒りに燃えていた。怖い怖い、と肩をすくめてみせるが風星はふざけているだけだ。
それに緋景は先ほどまで真っ赤になっていた白鷹にも思うところがある。赤くなっていたのに、契るかどうかの話でなぜ友でよいと思えるのだろう。これでは今よりもっと梔子の君に縁談があるようならすぐに白鷹など梔子の君に忘れ去られるだろう。
梔子の君には帝の血が流れているというだけでも貴族の気を引いていた。そこに左大臣家や大納言家がからんでくる上に、当世の学者たちがこぞって誉める。噂にならないはずがない。そのせいで左大臣家の末姫が裏では、偽真珠の愚か姫と呼ばれ、梔子の君は清きに薫る賢き姫と呼ばれている。そう、梔子の君に知らされていないだけで大納言家には裳着の宴で見合わせたいという文が数多く届いているのだ。そんな中で白鷹が残っていけるものか。
「それでは白鷹様、探しにいきましょう」
「うん、それでは兄上行って参ります」
「ちぃ兄上、行って参ります」
挨拶するが早いか、二人は飛び出していった。銀杏の邸へ連れてきたときに風星にはすでに浄めと結界を張り直してもらっているから、この間のようにはならないと思われる。銀杏の君はちょいちょいと童二人の座っていたところを扇で指す。緋景と風星はそちらへ座り直した。
「さて、少しは落ち着いたか風星」
「緋景に封じられましたがね」
「まったく……それで、猫はどうすればよい?」
風星はうっすらと目を細めた。
開かずの間は最後に回すことにした。今日は蒼嗣がいないので、緋景にお願いしなければならないのだ。白鷹につれられて歩いていくが、どうも白鷹は何か考えているように見える。前を向いてはいるが、ついていけないほど足が早い。小走りに白鷹へついていく。手をつないで歩くのに、こんなに歩く早さが違うとは思わなかった。いつもはゆっくり歩いてくれていたのだとわかる。
「……白鷹様!」
「ん?なんだ」
突然止まったので、梔子の君はつんのめった。倒れそうになったところを白鷹が抱き止める。
「す、すみません」
「止まったからだな、すまない」
「白鷹様、何かお考えでしたか?」
立たせてもらって、たずねてみた。白鷹は難しい顔をして廊下へ座り込んでしまった。せっかく立たせてもらったが、隣へ梔子の君も座る。
「妻などできるのだろうかと思ってな」
「元服したらできるのでは?」
「兄上の母上様はお許しにならない」
銀杏の君の母上様はきびしい方のようだ。それなら、と梔子の君は笑顔で言った。
「私が妻になればよいでしょう」
「梔子が?梔子は大納言家の大姫だけど大丈夫なのか?」
疑わしいと言わんばかりに顔をしかめられる。それでも父である大納言からは好いた相手を選ぶようにと言われている。
「たぶん大丈夫です!ね!」
「うん……本当に大丈夫か?」
「大丈夫ですって!あ、それなら巻物で読んだ契りの方法を試しますか?」
「なんだそれは、知らない」
「お教えしましょう!」
梔子の君は男女の仲を描いた巻物で、夜にまた会いに来ると言う男が女にした契りの方法を話した。その話が終わる頃には白鷹は真っ赤だ。目が泳いでいる。
「あの、本当にそれなのか?」
「はい!やりましょう?」
「わ、わかった」
もしここに誰かがいたら、とても困ったことになっていただろう。梔子の君の言うことは、決して間違いではないだ。そして、いったい誰が梔子の君にそのような巻物を見せたのか。
「い、いくぞ」
「はい」
真っ赤な白鷹はぎゅっと目をつむって、梔子の君の口へ吸い付いた。そして、単の襟元へ手を入れ、小さな膨らみを恐る恐る揉んでみる。そして、ぱっと身を引いた。
「こ、これで約束だぞ!」
白鷹が目を開くと、首まで真っ赤に染めた梔子の君が両腕で胸元を隠していた。それを見て白鷹もまた赤くなる。
「だ、大丈夫、です、けど、今日は、邸をまわるの、やめておきませんか?」
「あ、あぁ」
「えっと、白鷹様のお部屋へいきたいです」
「わかった」
ぎこちなく二人は立ち上がり、元来た道を戻るが、銀杏の君の部屋の前では走った。白鷹の部屋へ来た頃には、梔子の君はもう赤みは消えていた。二人は乱れを直して、ほっとしたように笑った。それを、悪意に満ちたが覗いていたとも知らずに。
「大丈夫ですか!」
「え?風星様」
「今嫌な気配が……なんだか、甘い匂いがする」
風星が走ってきたが、別に何もなかった。梔子の君は鼻をひくつかせる。
「そうでしょうか」
「梔子はいつも甘い匂いがしているぞ」
「あ、あぁ、梔子の君の……え、ちょっと待ってください。お二人とも今までここで何をなさっていましたか?」
じっとりとした目に、白鷹と梔子の君は口ごもる。とても言えたものではない。そうやって抗ったために風星にはほとんど見えなかった。
銀杏の君が顔を出す。
「そなたは少しうるさいの?もっとゆるりとできないか」
「そ、そうです、ゆるゆるしましょう!」
「あぁ、ゆる、ゆら、何もないのだからよいではないか!」
白鷹と梔子の君が言うことも正しい、と風星は今はなくなってしまった危ない気配を深追いするのをやめた。この二人がゆるりと暮らせるのは今だけなのだから。