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ゆるり  作者: 兵衛 律
出会い
4/6

四、親子の犬

 今日も銀杏(いちょう)(きみ)(やしき)で子犬たちを遊ばせていた。真っ白な白雲(しらくも)と名付けられた子犬。そして、弟君の白鷹(しらたか)、その友として連れられてきた女の童の梔子(くちなし)(きみ)。その明るい笑い声はこの(やしき)には相応(ふさわ)しくない。それなのに、とても心地がいい。


「兄上!ご覧ください!」


 白鷹が銀杏の君に話しかけることなどかつてあっただろうか。目を閉じて声を聞いていた銀杏の君は白鷹の呼びかけに顔を向けた。


「お手!」

「あん!」


 白鷹が差し出した手の平に、白雲の丸い足が乗せられた。銀杏の君は目を細めて誉める。


「素晴らしいな、白鷹は教えるのがうまいのだな」

「そんなことは……」


 照れたように言葉を濁しているが、白鷹の目は優しい友へと向けられていた。心得たように梔子の君は微笑んでみせる。それを見た白鷹は顔を真っ赤にし、銀杏の君は苦笑を浮かべる。そして、傍らの何を考えているのかわからない梔子の君の下の兄へと声をかける。


「そなたの妹は危ういの」

「守っていただくためにこちらへ参ったのです。そうでなければわざわざあんな格好などさせません」


 梔子の君は(みずか)らの容姿にはあまり興味を持っていない。男の童の衣装であっても大人たちには女の童にしか見えなかった。そして華やかな上の兄、蒼嗣(あおつぐ)と魔性のような下の兄、緋景(あかかげ)の良いところをすべて抜き出し、混ぜたような顔つきだった。

 もしも大人たちが目を離してしまったとしたら、たちまちに遠く神殿や仏門の奥へとさらわれて帰ってこないことがわかっている。今も噂を聞いたどこぞの寺から母を供養すべしと強く梔子の君の髪を下ろさせようとして使いを寄越す。母の兄である大納言がすべてを退けているから、梔子の君はそれを知らない。尊い親王の血を持ち、左大臣家の姫を母に持つ梔子の君の高貴さに、権威と神聖さを身に付けたい者たちが群がり、花を散らすことがわかっていて、なぜ引き渡すと思うのか。そこにはもう、女人禁制などという戒律を守る気などない。髪を下ろせば女ではない。梔子の君と交わったとしても誰にも力は与えられないし、神に近付くこともできない。ただ、穢らわしい。


「それより、本日は吾をご指名とおうかがいしましたが」

「うむ、これが白鷹の寝所の下から見付かった」


 袂から木片が取り出され、差し出された。押しいただいて、緋景はその木片を見た。人形の胸のあたりに、死と呪という文字が書かれている。よくある呪いの人形のようだ。


「これが、五十枚ほど見付かった」

「床下ですか、ご苦労なことです」


 尋常ではない数の人形が埋まっていたとなると人目につきそうなものだが、それらしい人がいなかったのだろう。なぜなら、この邸は銀杏の君がその母の手を逃れるために家移りしたのだ。信じられる者しか連れてきていない。


「陰陽寮の(つて)を頼ってみます」

「そうしてくれ」


 緋景は立ち上がった。すぐに梔子の君が気付く。駆け寄ってくる。


「ちぃ兄上」

「悪いが梔子、兄は銀杏の君から仕事を仰せつかった。あとで牛車で帰っておいで」

「梔子の君はきちんと送り届けるゆえ安心いたせ」

「はい、ちぃ兄上。銀杏の君、ありがとうございます」


 瞳が揺らいだが、梔子の君は物わかり良く頷く。銀杏の君は白鷹へも声をかけた。


「そろそろ算学ではなかったかな?」

「はい。行こう梔子」


 白雲を抱き上げ、銀杏の君と緋景へと頭を下げる梔子の君を待って、白鷹は部屋へと歩き出す。それを呆れた目で見送り、息をつく。


「いつ女の童と気付くだろうな」

「気付いているかもしれません」

「本当か!?」

「あれだけ真っ赤で気付かない方がおかしいですよ」

「そうか今度……半尻(はんじり)を着替えさせようかな」

「白鷹様は襲いかかるかも知れないのでおやめください」


 否とは言えず、口を閉じる。しくじったのだ。思った以上に、白鷹が梔子の君を気に入ってしまったからだ。それが男の童の姿だから、元へ戻したとき顔を真っ赤にしている思いとは溢れ出すものとなるだろう。はじめから女の童であれば梔子の君の性格をわかった上でうまく心が育って付き合えたのかもしれない。

 しかし、梔子の君の立場は複雑なのだ。母がなく、大納言家で暮らす姫は、白鷹に近付けるわけにはいけない。左大臣の末姫がいるのだ。もしも漏れ伝われば左大臣の力で梔子の君などどうとでもなる。


「左大臣の末姫か……」


 今の力関係から考えるに、銀杏の君が退いて白鷹を推すには左大臣がもっとも使いやすい。ただ、それには末姫が白鷹にまとわりつく。あの好き嫌いがはげしい白鷹がわがまま姫を受け入れるわけがない。梔子の君を知ってしまった後ではなおさら。


「その前にどのように破棄するかだのう」


 誰もいなくなった部屋に、ふぅ、と息が落ちた。




 あまりのことに、梔子の君は口を閉じるの忘れてしまった。白鷹は梔子の君と同じように蒼嗣と緋景に教えを受けただけでなく、聞く限りでは最高とも言えるような師を向かえている。それなのに。


「九九も覚えていらっしゃらないとはなにごとですか!」

「嫌いなのだ」


 とても単純な理由だが、もっとも厄介である。覚えるだけのことに好きも嫌いもないし、梔子の君は九九の表の美しさがとても好きだったので白鷹の言う嫌うわけがわからない。


「白鷹様とは合いませぬ」

「え?」

「幼い童でも九九くらいできましょう、それができない方と机を並べても為になりませんから」


 梔子の君はにっこりと笑ってみせる。わかってきたことがある。白鷹は今まで、甘やかされてきた。それは女房の尾長(おなが)を見ていればわかる。尾長は白鷹のしようとすることをすべて先回りして代わりにしてしまうのだ。だいたい、文台(ぶんだい)を持ってくるのも墨をするのも人にしてもらうのではなく(おの)れでおこなうべきだ。特に墨をするという、時が止まる感じはたまらない。それが、すべて尾長が先回りしてしまうことで白鷹の知らぬこととなっていた。そのことを尾長へやめるようにと言ったのだが、そうそう治るものではないらしい。


「お、おいどこに行くのだ」

「あちらです。どうぞお一人で九九をさらってくださいませ。こちらで平方をいたします」


 梔子の君が下の兄から出された課題は平方で長さを求めるものだった。これには九九くらいできていなければできるものではない。文台を両手で持ち上げた梔子の君はそのまま廊下へ出ようとした。


「待って梔子!」


 待ちません、と答えようとして、梔子の君は立ち止まった。ほっとした様子の白鷹が立ち上がって梔子の君のもとへ寄ろうとする。


「来てはいけない!」


 梔子の君は叫んだ。白鷹が足を止める。

 もう一度、梔子の君は両手に持ち上げた文台を廊下へ付き出した。


「な、何をしているのだ」

「これより先に出られないのです」

「何!?」

「まるで結界のような……」


 持ち上げていた文台を屈んで足元へ置くと、硯箱(すずりばこ)の置いてあるところへと戻る。白鷹はそれを目で追いかけているだけだ。硯箱の蓋を開け、墨の欠片をつまみ上げる。それを、投げた。


「……跳ね返ったな」

「こちらの外へはどうでしょう?」


 廊下ではなく、(しとみ)を開けてみる。いや、開かなかった。ふるふると頭を振って白鷹を見る。


「どうしましょう」

「声を出してみようか」

「わかりました」


 二人は胸いっぱいに息を吸い込む。


「あにうえー!」

「銀杏の君ー!」

「尾長ー!」

「誰かー!」


 叫び終えて、しばらく耳を澄ます。白雲が二人の足元でくんくん鳴いている。風のざわめきはよく聞こえるが、人を探す声や足音は聞こえない。

 そういう音ではない音を耳が拾う。ぎしぎし、みしみしと天井が鳴る。


「白鷹様、白雲を!」

「わかった」


 白雲は抱き上げられて、天井を見上げていた。このあやしい音に耳を向けているのか、鼻をひくつかせてにおいを確かめようとしているように見える。

 ぴしり、とひび割れた天井は一気に土煙とともに落ちてきた。




 ぽーん、と鳴った。そこにあるのは鞨鼓(かっこ)だから鳴るのはそんな音だろう。ただ、誰もいないのに鳴ったのだ。銀杏の君は気のせいだと鞨鼓から目を離して、読んでいた書へ向き合った。

 しかし鞨鼓はそれを許さない。立て続けにぽーんぽーんと鳴り始めた。銀杏の君は立ち上がったが、鳴りやむ気配がない。音は間を詰めてぽんぽんと鳴り始めた。誰かを呼ぼうにも口が渇いて声がでない。

 ずどん、と邸が揺れた。ふらつく足を止めながら音のした方へと顔を向ける。


「え」


 風が走り抜けた。白い風だ。震える身体をなんとか鞨鼓へと向ける。鞨鼓から母犬が消えていた。そこには塗りの鞨鼓が肌をさらしていた。




 夢でも見ていると思いたかった。そこにいるのは化け物だ。口から(よだれ)を垂らし、白目のない真っ黒の目が艶やかに光っている。長い爪に長い牙は白く光っている。


「ね、こ」

「白鷹様、後ろへ」


 呟く白鷹の声に吾に返った梔子の君は両手を広げて一歩前へと出た。戦っても、今は玩具みたいな飾りの護り刀しか手元にない。部屋から出られなかったのはこの猫の化け物のせいか、それともこの猫の化け物をけしかけるためか。


「あぉーうあうん!」

「白雲!駄目だ!」

「静かに!お願い!」


 まだ目がこちらを向いていなかった猫の化け物が、じっとこちらを見た。まさか遠吠えをするなんて知らなかった。違う。知っていたけれど、白雲が鳴くなんて考えていなかったのだ。梔子の君は白鷹と白雲を背に庇い、猫の化け物と向かい合った。

 猫は笑うように口を引き結んだかと思うとにちゃりと涎をきらめかせて口を開いた。牙ではない歯も鋭く尖っている。梔子の君は懐刀を急いで紐解いて袋を落とし、鞘を振り払った。勝てないけれど、あらがうしかなかった。

 ゆっくり覆い被さるようにして猫が赤々とした口を近付けた。


「ぐゎう!」

「ぎゅあー!」


 猫が暴れた。思わず目をつむる。何かが猫に起こったようだが、だん、ばたんとぶつかる音が怖くて、背を向けて白鷹と白雲に被さってかがみこむ。猫が叫ぶ。いっとう長い叫びが聞こえ、消えていった。

 静かな部屋に童たちの息が聞こえる。そっと頭を起こしてみると、左目に白い塊が見える。


「あん!」


 梔子の君と白鷹の下から白雲が飛び出した。あ、と手を伸ばした先にいたのは大きな白い犬だった。童など軽く乗せて運べそうなほども大きく、屈んでいる二人は見上げるように口を開けた。


「もしかして、白雲の母君か」

「あんあん!」


 白鷹が呟くのに答えるように白雲は鳴く。母犬へ甘えるように前脚へと絡み付いている。それを見て、あの化け物がどこにいってしまったのかと、猫がいなくなっていることにようやく気が付いた。どたどたと廊下に足音が響く。


「白鷹!梔子!」


 銀杏の君が現れた。


「兄上!」

「銀杏の君!」

「良かった、無事か」


 飛び付いた二人を抱いて、銀杏の君は安堵のため息をついた。抱きしめられながら、白鷹は起きたことを話す。


「兄上!猫の化け物が現れました!部屋からも見えない壁が張られて出られなくて、梔子が懐刀で戦おうとしていたところへ白雲が母君を呼んでくれたのです!」

「うむ、白雲の母を吾も追いかけてきたのだ」


 そう言って銀杏の君は白い犬を見た。つられて二人も見る。じゃれつく白雲を気に止めずに母犬が左へ顔を向ける。そちらには白と灰の縞模様の猫が横たわっていた。左目に噛みつかれたのか、血が固まっている。そこに白鷹はあるものを見付けた。


「兄上」

「うん?」

「あの猫は兄上の母上様のお使いの女房の猫です」


 首に巻かれた紅葉のような紐は、よく似合っていた。


「……そうか」


 梔子の君は黙っていた。銀杏の君に聞いていたからだ。銀杏の君と白鷹は母が違うと知っていた。だから、白鷹が化け物に襲われたわけを考える。


「それより、白雲の母よ、また鞨鼓へ戻るのか」

「わふ」

「そうだな、その方がよい。そなたは大きすぎるゆえ吾らは良くとも他の者が怖がる」


 銀杏の君は頷く。梔子の君は考えても今は考えがまとまらず、わからないので素直に頭を下げた。


「あの、白雲の母上様ありがとうございます」

「ありがとう、助かった……白雲も鞨鼓へ戻るのか?」

「わふ」


 白鷹と梔子はその返事に肩を落とす。笑って銀杏の君は二人を諭す。


「これ、仕方ないであろう、この母子は仲が良いゆえ一緒にさせてやろう」

「はい、銀杏の君」

「わかりました兄上……」


 二人には母がいない。仲の良い母子を前に、酷なことだと銀杏の君は背をさすってやった。


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