三、邸のひみつ
薄汚れた戸の前で、二人は立ち止まった。
「これだ」
白鷹はそっと息を吐くように言った。その半歩後ろに立つ梔子の君はごくりと喉をならす。
「これですか」
兄である銀杏の君に促され、白鷹は梔子の君を連れて邸を回っていた。何を見ても、へぇ、ほぉ、と感じ入ってくれるのが嬉しくて白鷹はどんどん進んでいった。
この邸には、銀杏の木が三本並んで植えられていて、秋には美しい黄色の葉と美味しい実が拾われている。そのため、銀杏の邸と呼ばれていて、それで銀杏の君と名付けたのだろうと言うのが白鷹の兄の名に対する考えだった。梔子の君もそうに違いないと白鷹に頷いた。
頷いてくれたものだから、白鷹はつい噂話をしてしまった。女房たちがこそこそと話し合っていたのだ。
『銀杏の邸の宝が隠されたところ』についてだ。
女房たちの話では、三つまで宝の隠しどころをしぼったらしい。その話に梔子の君は目を輝かせて確かめたいと白鷹にねだった。
何故か白鷹は梔子の君には逆らえない。顔に熱が出てきて、胸がばくばくするのだ。赤くなった顔を心配した梔子の君に、白鷹は正直に梔子の君の時だけにそうなることを話した。もちろん、逆らえないことは白鷹にとっては面白くないことなので黙っておく。
他の人には顔が熱くなったり胸がどくどくすることがないということで、二人は首を傾げ、兄たちに病ではないのかと確かめようということになり後回しにした。その話を大人たちに暖かいまなざしで聞かれ、病ではないが病でもあるという、なんとももやもやとした答えしかもらえないのは、まだ先の話だ。
「通称、開かずの間」
梔子の君を横目で見ると、白鷹は手を伸ばした。戸に手をかける。
「い、いくぞ」
「はい、白鷹様!」
ぐっと右へと戸をひく。ひくが、開かない。両手でひくも、開かない。
「さ、さすが開かずの間ですね」
「手伝え梔子!」
二人の手が戸にかけられて、顔を見合わせ、頷き合う。
「せーの、でいくぞ」
「はい!」
せーの、で踏ん張るが、開かない。二度、三度とせーの、で踏ん張るが、開かない。
「諦めよう!」
「はい、蒼嗣兄上にお願いしてみましょう」
「そうだな、蒼嗣なら開けられるだろう」
「次へいきましょう!」
二人は諦めが早かった。ぐずったりしない。出来ないものは出来ない。出来そうならば良いやり方を練ってからすればいい。今すぐに開ける必要は無いのだから。
「次はあっちだ」
「はい白鷹様」
二人は連れ立って歩いていく。
その場に残された薄汚れた戸は、何故だか寂しげだった。
たどり着いたのは東の対の端の端。宴のときに灯りをともすくらいにしか使われないような人の出入りのないところだ。空は晴れているのに、なんとなくどんよりとして見える。
白鷹が戸に手をかけてがたがた揺らすと、すき間ができた。今度は開くかも知れないと二人はほっとする。
「よし、一気に開けるぞ」
「えぇ!宝を探しましょう!」
気合いを入れるように拳を握る梔子の君に頷き返し、白鷹は戸をひく。
闇に光が入っていった。きらきら光る埃が舞い上がった。外の光が入っても、十分には中を照らしきれていない。
「行くぞ」
「はい」
葛や行李など、箱が並んでいるので物置として使われているようだ。見回してから、梔子の君は桐箱の後ろに気配を感じ、ひゅっと息を吸い込んで白鷹の半尻の袖を掴んだ。
「え、どうしたの梔子」
「何か」
指を差す。その先を白鷹が目をしかめて覗き込む。
しゅっと白い塊が飛び出した。
「うわ!」
「きゃあ!」
二人は抱き合って倒れ込んだ。しかし、倒れたときの痛みしかなく、そろそろと目を開けて視線が合うと、どちらともなくそろそろと身体を起こした。しっかりと握りあった手は汗で濡れていたが、二人は気にしている余裕などない。
「あん!」
投げ出された二組の足の先に、白い塊の正体がいた。寸足らずで肉付きのよい、ふわふわの毛の子犬だ。黒く艶めく瞳が二人を見つめ、丸まった尾がぶんぶん左右に触れている。
「かわいい!」
「犬ではないか!」
「あん!」
素早く身をお越し、二人は子犬を覗き込んだ。恐る恐る撫でている白鷹とは違い、梔子の君はがしがし力強く撫でている。子犬は文句なく撫でられている。
「どこから来たんだ?」
「銀杏のお邸の子犬ではないのですか?」
「うん、聞いたことがない」
「お前のお母様は?」
「あん!」
梔子の君が子犬に話しかけているのを、白鷹はわかるわけがないと決めつけていたが、子犬は返事をした。え、と白鷹が目を見張ると、子犬は転がるように走る。
「あ、待って!」
「あん!」
桐箱の前で止まり、振り返ってから一鳴きすると、子犬はがりがりと箱を引っ掻いたり、桃色の鼻で箱の蓋を押し上げようとする。二人は無言で桐箱へと近付くと、箱の裏を見て他に犬がいないことを確かめた。
「中に閉じ込められたのか?」
「開けてみましょう」
二人がかりで端と端を持ち上げ、覆い被さる蓋をずらした。そのまま箱の横へ蓋を落とす。
「いないな」
「これは、鞨鼓ですかね」
箱を押さえていてくれ、と白鷹に言われて梔子の君は上から押さえる。紐を緩めてはあるが、とても美しい塗りの鞨鼓を白鷹は手にした。鞨鼓は黒に白い絵が見える。犬だ。首に紅白の紐を結んである。
「どうしましょう」
「兄上に飼って良いか聞いてみよう」
その事ではなく、梔子の君は鞨鼓のことをたずねたつもりだったが、白鷹は鞨鼓を脇にかかえ、もう一方の手で梔子の君の手をとり、片付けもせずに歩き始めた。廊下へ出ると、くるりと振り返り、命じる。
「そなたも参れ。兄上と蒼嗣に会わせてやろう」
「あん!」
白鷹と梔子の君は、返事をして廊下に転がり出てきた子犬に微笑み、歩き出した。鞨鼓は白鷹と梔子の君の身体にとっては大きく、白鷹は何度も抱え直す。
「あの」
「これは俺が持つんだ!いいな!」
「はい、ありがとうございます白鷹様」
二人で持つとか、渡し合って持てばいいのに、何故か一人で白鷹は持とうとする。もしかすると宝を横取りすると思っているのかもしれない。そもそもこの邸は白鷹が住む邸なのだからいくらなんでも奪っていったりしないのに、と梔子の君は悔しかった。
梔子の君が振り向くと、相変わらず白い子犬はころころ走っているが追い越そうとはしない。ちゃんとついてきている。
「兄上、こちらですか」
「蒼嗣兄上、梔子です」
はじめのところへ戻ってきた。出てきたのは残された女房だった。
「尾長!兄上は?」
「いらっしゃいます、さぁ、お二人ともこちらへ」
「あ!この子も良いですか?」
「うむ、兄上に会わせたいのだ、よいだろう?」
「犬?いったいどちらで……」
「あん!」
「手がしびれてるんだ、早く尾長」
目を丸くした女房を促し、中へ入ると銀杏の君も蒼嗣も座り込んで何やら話をしていたようだ。入ってきたことに気が付くと、銀杏の君は二人を見て微笑んだ。
「お帰り、早かったね」
「戻りました。ですがまだ終わってません」
「そろそろ梔子の君も帰る時間だろう」
白鷹は銀杏の君の前へすたすた歩いて行くと、ぺたんと座った。もちろん、手を繋いだままなので梔子の君も一緒に座る。すると、白い子犬ははじめて二人よりも前へ出て行き、お座りすると銀杏の君を見上げて鳴いた。
「あん!」
「これはどうしたのだ」
「それをお話ししたくて参りました」
白鷹は抱えた鞨鼓を膝の前へと差し出した。それを指しながら、二人でどこで何をしていたのかをかいつまんで話していく。梔子の君は、さらさらと事柄を並べていく白鷹に驚いていた。とても高い学があるのだろう。そういえば蒼嗣について銀杏の君が大納言家へ訪れたときに、朱景も白鷹へ教えていると言っていたような気がする。妹として、同じ朱景という師をもつ者として負けられない、と梔子の君はこっそり誓った。
最後に、梔子の君とは話をしていないけれども白鷹が考えたことを銀杏の君へと一言話した。
「その鞨鼓の犬が母犬とでも言うような」
「ふむ、なるほど」
「それで、あの……」
繋いだままの手がぎゅむと握られた。白鷹が緊張しているのだと梔子の君は思った。
「この犬を飼いたいのです。お願いいたします兄上」
銀杏の君は目を丸くした。そして、手にしていた扇をぽとりと落とした。
蒼嗣もその光景を驚いて見ていた。不思議そうに見ている梔子の君は何も知らないから仕方がないが、こんなことは今まで一度も無かったのだ。
銀杏の君と白鷹は母となった人が違う。それこそ銀杏の君の母の家には敵となる家の姫だった。だから銀杏の君の母は、その姫が幼い白鷹をのこして亡くなったのを喜んだ。それを見た銀杏の君は、愛と言う名の母の醜さに愛想をつかし、母が亡くなり勢いを無くした家に残される幼い白鷹を哀れに思い、家を離れて白鷹とその周りの者を祖父に当たる人が残した銀杏の邸へと引き取ったのだ。
すくすくと白鷹は身体は育ったが、ずいぶんひねくれた。幼いながらも母の違いや自らの立場を恨み、兄を認めようとしなかったのだ。そのため、話が出来ないと梔子の君へと訴えたのも間違いではない。
それが今、兄弟としての近さで、なんの嫌味もなく、淀みなく話をしている。さらには、銀杏の君に対して白鷹が欲したのだ。
「し、白鷹、今、兄になんと申した?」
銀杏の君は真ん丸の目のままに白鷹に問い、息をつめたように聞き耳を立てる。
「いけないでしょうか、この犬を飼いたいのです。お頼みいたします」
白鷹は不安そうに頭を下げた。梔子の君も一緒に頭を下げる。
「蒼嗣、私は夢でも」
「現です」
「そうか、そうだな、現だな」
ごほん、と咳払いをすると、銀杏の君は面をあげさせた。
「飼うのはかまわぬ、白鷹が世話をするのだぞ」
「ありがとうございます兄上!」
「よかったですね白鷹様!」
「うん!梔子もいつでもこやつに会いに来てかまわぬぞ!」
「はい!」
おや、と銀杏の君と蒼嗣は気が付いた。
子犬が飼いたい訳は、梔子の君なのか。梔子の君と遊ぶと言えずに子犬が飼いたいのか。二人は嬉しそうに子犬を撫で回していて、その片手はしっかり繋がれている。
ちらり、と蒼嗣は銀杏の君をうかがった。視線に気が付くと銀杏の君はにんまりと笑ってみせる。やはり今日は朱景を連れてきたらよかった、と蒼嗣は悔やむ。
撫でていた白鷹は名付けをしたようだ。
「名は白雲だ!」
「ふわふわしてますものね!」
兄たちの様子など気にせず、二人ははしゃいでいる。ふと梔子の君が横にある鞨鼓を見やった。
「銀杏の君、こちらの母犬の鞨鼓はいかがしましょうか」
「うむ、私のところへ置いておく。白鷹は母犬の鞨鼓のところへ一日に一度は白雲を会わせに来なさい」
少し嫌そうに白鷹は、撫でる手を止めて目をしかめる。
「それなら私のところに置いた方がよいのではないですか?」
「白雲と遊べば、鞨鼓が壊れそうとは思わぬか?」
白雲はお尻を撫でられながら、がりがりと蒼嗣の座る藁蓋の端を引っ掻き、噛んでいる。苦笑しながら蒼嗣は白雲の顎を持ち上げて止めさせたが、何本か編み込んだ藁が跳ねている。
「確かに壊しそうですね、わかりました」
「わぁ、これからいろいろ白雲に教えなければなりませんね」
「うん、手伝ってくれるか梔子」
「えぇ、是非!」
白鷹は引き下がったが、それさえも梔子の君と共に行うらしい。藁蓋を噛めなくなった白雲にぺろぺろと手を舐められながら、蒼嗣は天を仰いだ。家へ帰って、どのように父母と弟へ、妹と白鷹の仲の良さについて話をしようと悩む。
これは大納言家としての立ち位置を見極めなければならない。銀杏の君の母の家に睨まれることになり、立ち行かなくなることだけは避けなければ。今のところ強くても、銀杏の君がいつ母の家に屈するかもわからない。
いつもの白鷹を知っていれば、梔子の君など要らないと言われて、退けられる予定だった。それは朱景とも話しことだ。そして思った通りに白鷹は梔子の君を退けた。しかし、思ったよりも梔子の君はしっかりしていた。なんでもこなせる姫に、と兄二人がこぞって教え込んだのだ。今さらだ。
白鷹と会わせない、というのも銀杏の君に命じられてしまえばくつがえせない。逃げ道はない。これからの付き添いは朱景に頼もう、と楽しそうな童たちと、嬉しそうな銀杏の君を見ながら蒼嗣はため息をついた。