二、わらわの仕事
髪をみずらに結ってもらった。それだけで梔子の君は男の童になった気になる。盥に入った水に映そうと身を屈めようとすると、やんわりと肩を押さえられて姿勢を正される。
「半尻は他のお色、ないの?」
「あら、萌黄のお色はお嫌いですの?」
「よくお似合いですわ」
半尻の揺れる袖を持ち上げてみて、梔子の君は少しだけ不満だった。二人の兄はほとんど水干を着て過ごしたと言う。半尻なんて、廃れ始めていると考えていた。この姿で銀杏の君の弟君に友にしてもらえるのだろうか。
「梔子、どうだ?」
「あ、お待ちください若様!」
止める女房の声も聞かずに上の兄が入ってくる。もしも着替えているところならばどうする気だったのか。
しかし、その事に梔子の君は気が付かない。知らない人ではなく、兄に多少肌を見られたところで何も無いことがわかっているし、それこそもっと幼い頃は夏にはほとんど裸で兄たちと遊んでいた。あとで叱られはしたが、楽しかったという思いしかない。
肌を見せるのがいけないなら、裳着の前とはいえ、妹の前でも平気で衣をはだけさせている兄たもいけないはずだ。だらしがないという思いはあっても、恥ずかしいとは思わなかったのだ。
「蒼嗣兄上、水干の方が良いですよね?」
「いや、これは良いな!かわいらしいぞ梔子」
「そうでしょうか」
「なんだ?不満か」
いやがっているのがわかるのか、梔子の君は笑われた。上の兄はなだめるように梔子の君の頭へ大きくごつごつした武人の手を置いた。
「銀杏の君の弟君はな、半尻をお召しだ」
「合わせたんですか」
「弟君は半尻しかお召しになれないご身分だ、合わせなさい」
それなら梔子の君が水干を着てしまえば銀杏の君の弟君はいやな気分になるかもしれない。弟君の着られないものを着ていけば弟君も欲しくなり、欲しくなっても身分のために弟君には着られない。それはかわいそうだ。
はぁい、と梔子の君は返事をしておいた。
「よし、では行くか」
梔子の君は、銀杏の君の弟君と友になることになっている。ところが友になるには大変な政に関わってしまう事柄があるため、女のままではいけないそうなのだ。その話を銀杏の君から聞いているときの兄二人は、苦いものを噛み潰したようなくしゃくしゃな顔をしていた。頭の良い下の兄だけでなく、上の兄までそのような顔だから、よほど女が関わってはいけないことなのだろう。だから、大人しく梔子の君は頷いた。
「銀杏の君はどの辺りにお住まいなのですか?」
「うん?あぁ、どこだったかな」
牛車に揺られながら上の兄へ確かめたが、答えはない。鼻の穴が大きく開いているから、なんとか誤魔化そうと、梔子の君へ嘘をつこうとしていることがわかる。教えられないならばそう言えば済むのに、上の兄は余計なことをする。
仕方がないのでたずねるのはそこまでにしておいた。あまり詳しくは言えないのはわかっている。そもそも銀杏の君のお名前さえわからないのだ。隠されていることで梔子の君に困ったことがあるわけでもない。高いご身分だと思われる銀杏の君に気安くお声がけしたいただいたのだから、下手に知ってしまえば同じようには付き合ってくださらないかもしれない。
世の中の人には優れた兄二人の印象が強いため、それぞれその道のご高名な博士や華やかな貴族家とも兄たちは付き合いがある。付き合いから、大納言家にお招きもある。そうすると、梔子の君はご挨拶に駆り出されたり、招かれた博士の師弟などと問答をしたり、貴族の子と弓の競い合いをしたり、蹴鞠で遊んだりしていた。その付き合いの中では、童だとか女だとか、それこそ身分だとかは気にかけてはいなかった。
ものごころつく頃にはその付き合いは始まっていたので、梔子の君は物怖じしない姫となっていた。それこそ身分の上下に対しては、言葉を噛み砕き、受け入れ、考えることが等しくできなくなることがあるため、気にかけないようにしていた。そんな梔子の君だから、銀杏の君についてはもう知ろうとはしない。
「はぁ……何故牛車なんですか?歩いた方が早い」
「俺だって歩いた方が早いのはわかるが見られたら困るのだ」
前後左右上下に揺られて気持ち悪くなってきた。上の兄もお務めには歩いていっているから牛車に慣れていないのか顔色が悪くなっている。
「それも政のためですか?」
「俺と一緒にいる童が誰なのか調べられてみろ、隠したのに女だとわかってしまう」
「あぁ、そうですね、それなら白鷹様にお越しいただけるようになりませんか」
「護衛が要るからな」
無理だと苦笑される。友になるというのも大がかりだ。
しばらくして、牛飼いからそろそろ着くので気を付けるように外から声がかけられた。止まるときにがくんと前のめりになることがある。もちろん、そっとゆっくり止まることもある。そこはもう、牛飼いというよりは牛のご機嫌次第だ。
今日の牛は上の兄が飼っている黒星丸だ。真っ黒な毛色だが、おでこに白いひし形がある。男牛の中では大人しい方だからか、ゆっくり止まってくれたので、いれていた力を抜いて、兄妹は顔を見合わせて笑った。
どうやら、どこかのお屋敷のお庭へと着いたようで、牛が離され、車が前へと傾いた。兄に続いて車を降り、沓をはくと、梔子の君は大きく伸びをした。両腕が天へと突き上げられる。
「おや、済まないね梔子の君、疲れただろう」
「あ、銀杏の君!」
廊下からこちらを見下ろして微笑んでいる銀杏の君が手にした扇でおいでおいでをした。ちらりと上の兄を見上げると頷いたので、階の段の下へと近付いた。
「銀杏の君、ごきげんようにございます」
「ごきげんよう梔子の君」
そばに控えていた女房に兄妹の沓を頼むと、二人を促して銀杏の君が廊下を歩いていく。
「着いて早々だが、白鷹に会いに行こう」
「おや、本日はお部屋に?」
「命じた」
上の兄に短く答えた銀杏の君の声は固かった。兄も何も言わないので、梔子の君もだんまりになる。兄の指貫から見え隠れする足をしっかり見て、迷い子にならないようについていく。
「ここだ」
着いたところは東の対に近い、つつじが赤い花を咲かせる壺の前だった。銀杏の君は大きく息を吸い込んでは吐く、を繰り返している。何度もするのを上の兄は心配そうに見ている。とうとう、前を見据えて言いはなった。
「白鷹、兄が参ったぞ」
すぐに女房が出てきて開けてくれた。その女房に銀杏の君は、白鷹のみを残して出ていくようにと言うと不安そうに下がっていった。ぞろぞろと五名出ていったあと、最後の女房を捕まえた。
「尾長、残りなさい」
「はい」
また中へと引き返す女房に続いて、兄妹も入っていった。
そして、目を見張る。
書物や巻物がところ狭しと散らばっている奥に、みずらの童が横向きに寝転んで巻物を横に見ていた。梔子の君と同じ半尻だ。こちらへちらとも目を向けない。
どすどすと歩いて銀杏の君が近付いていく。廊下は静かに歩いていたから、わざと音を立てているのだろう。
「白鷹!」
叫ぶように名を呼び、屈んで巻物を取り上げる。やっとのろのろと起き上がり、挑むように銀杏の君を睨みあげた童は、いやそうに言った。
「ご用ですか」
「客だ」
「白鷹様、ごきげんようにございます」
はっと弾かれたように上の兄を見付けると、嬉しそうに微笑んだ。梔子の君は惑う。銀杏の君と話す様子とはずいぶんと違う。急に変わるものだから、面白い。
「蒼嗣!馬の稽古に付き合え!」
「これからは吾の兄妹がお相手いたします」
「兄弟だと?」
目が合った。そして、眇められた目は、梔子の君を見下していた。
「この小さい童が?」
「吾と緋景が赤ん坊のころから教え鍛えております。大学寮の頭をはじめとする各寮の博士たち、衛門や衛府の方も面白がって色々と教え込みましたからな」
「そんなもの、この童が会得したとは思えぬ」
「あぁ、自分ができないことは他の者もできないと決めつける、頭が固くて博士たちがもっとも嫌うお人でしたか。通りであなた様の名を皆様からお伺いしたことがないはずです。教えを請おうとも博士たちから避けられるなど、恥でしかありませんものねぇ、隠した方がよろしいですよ、みっともない」
哀れむように首をふってみせる。
梔子の君は怒っていた。銀杏の君が優しいお人柄で、梔子の君にも丁寧な様子の方だったから、白鷹にはがっかりした。そして、梔子の君を蔑むことが、兄二人の力をも蔑むことになるとわかっていない。
ぽかんと口を開けて梔子の君を見ている白鷹へとさらに言いつのる。
「それに武に優れた蒼嗣兄上、学に優れた緋景兄上には教える力は無いと申されるか。兄上たちを阿呆扱いするなど、吾はゆるしませぬ!」
そうして、白鷹を睨みあげる。
白鷹はもう口を閉じていた。そして梔子の君を見ていた。睨むのではなく、じっと見ていた。
くっ、と苦しそうな息が漏れ出たので、つい、白鷹から目を離した梔子の君は震える銀杏の君を見つけた。袖で顔を隠しながら、うぐっとか、ぐふっとか聞こえてくる。
「あのう、銀杏の君、素直に笑う方が嬉しいです」
進言したところ、銀杏の君はたがが外れたように響き渡る声をあげた。
ぽん、と肩に手が置かれて仰ぎ見ると、上の兄がげっそりとした様子で見下ろしていた。
「梔子、兄のために申してくれたのは嬉しいがもう少し言い方をだな……」
「友になるのにですか?それから何故銀杏の君は楽しそうなのです?」
首を捻る梔子の君に、上の兄は呟いた。緋景も連れてきたらよかった、と。それを聞いた銀杏の君はさらに声をあげて笑った。
「そなた、何故兄上を銀杏の君と呼ぶのだ?」
梔子の君はまだ白鷹を許してはいない。キッ、と睨み付けると白鷹は思わず仰け反った。
「申し遅れました、大納言翠彬が三子、梔子にございます。あなた様は?」
「あ、あぁ、そなたの兄が言うたように、白鷹と申す」
「白鷹様ですね、では白鷹様」
戸惑う白鷹に梔子の君は畳み掛ける。
「まずは先ほどの白鷹様のご発言、そして吾の言葉をどう思われましたか」
驚いたように視線をさ迷わせた白鷹だったが、上の兄も、笑いが治まった銀杏の君も、銀杏の君に押さえられて手を延べられない女房も、誰も助けてはくれない。少しだけ小さな声で俯いて答えるしかなかった。
「……梔子の言う通りだ」
「言う通りとはどういうことですか?」
「そもそも吾はそなたを知らぬ。知らぬのに決めつけた。吾よりも低い身分だと思ったし、童だったから……」
梔子の君は、へぇ、と驚いた。わかっているようだ。
「では怒ったのは何故かわかりますね」
「うん、見下した。蒼嗣も、緋景も、そなたも。済まない」
「はい、わかりました、許しましょう。また同じようなことはしてはなりませんよ、よいですか?」
「わかった」
顔をあげて、しっかりと頷いた白鷹を見て、よし、と梔子も頷いた。見ていた女房は涙を流しているようだ。
「先ほどの問いについては、兄上様におたずねください。銀杏の君というお名前しか吾は知らないのです」
「うむ、銀杏の君と呼ぶように申したのは吾だ」
「何故ですか」
白鷹は銀杏の君を見てたずねた。睨むのではなく、いやそうでもなく、素直にたずねた。そのことに銀杏の君も女房も蒼嗣も驚いたが、白鷹も梔子の君も気が付かない。
銀杏の君は優しく白鷹を諭した。
「吾の身分は梔子の君と話をするのに要らぬ」
「あ、そうか、そうですね、邪魔になる」
「だからそなたも白鷹という名の他は梔子の君には不要のものだろう」
「えぇ、兄上」
「うむ、白鷹、梔子の君を連れて邸を案内しなさい。仲良くするのだぞ」
「白鷹様、梔子をよろしくお願いいたします」
二人に頼まれ、白鷹は梔子の君を見た。
梔子の君はにこにこ笑っている。頬が薄く色づき白い肌をより白く見せている。長いまつ毛に縁取られた下がる目尻は優しげだ。先ほどの強い言葉が出てきたとは思えないかわいらしい唇をしている。髪は黒々とし、豊かでみずらの輪がつやつやと光を放つ。
ふいに梔子の君が首を傾げた。
「白鷹様?」
「う、あ、え」
顔が熱い。白鷹はよろけて、躓き尻餅をついた。
「どうしたのだ白鷹」
「お熱ですか?」
銀杏の君と女房が顔を覗き込むが、白鷹はどくどくと脈打つ胸を止められなかった。横目で梔子の君を盗み見ると、目を見開いて驚いている。
急に恥ずかしくなってきた白鷹は、誰の手も借りずに立ち上がり、ぴしりと手足を伸ばし、廊下へ出て、ぎこちなく振り返った。
「ゆ、ゆくぞ梔子」
「あ、はい」
不思議そうに返事をした梔子の君は、礼儀正しく挨拶をした。
「それでは銀杏の君、白鷹様にお連れいただきます」
「楽しんでおいで」
「蒼嗣兄上、行って参ります」
「失礼の無いようにな、今さらだが」
ついでに銀杏の君の後ろに見えている女房にも頭を下げると、ふんわりと微笑んで頭を下げてくれた。優しそうな人だ、と梔子の君は気分が良くなる。
「お待たせしました、参りましょう」
「う、うん」
そうして、何故か強ばったままの白鷹と、物珍しげに辺りを見回す梔子の君は、邸の中を進んでいった。
出ていった二人を微笑ましげに見送った銀杏の君は、あ、と声をあげる。
「どうかされましたか?」
「梔子の君は姫だと教えるのを忘れた」
「え、梔子様は姫君様なのですか!」
女房は銀杏の君を見上げて確かめたが、銀杏の君は困ったように頷くだけだ。その様子に呆れたように蒼嗣がたずねる。
「……まことにお忘れだったのですか?」
「当たり前だろう!白鷹の友が女の童だと知っているのは吾とそなたと緋景と……尾長、それだけだ。良いな?」
「尾長殿は乳母殿でしたかな」
「さようでごさいます蒼嗣様」
手をつき頭を下げる尾長を、気の毒に思う蒼嗣とは反対に、楽しそうに見ている銀杏の君は扇を広げて風を起こした。