一、大納言家の子のこと
いずれの帝の御時にか、とある姫がおりました。姫は大叔父に左大臣、父に大納言を持つ高い身分の姫でした。大納言の父はお子が授かりにくい方でしたが、なんとか男児を二人、姫を一人授かったのです。
男児は北の方の腹でしたが、姫は違いました。出奔した大納言の妹姫のお子なのです。出奔したのはよいものの、身を寄せた寺に居合わせた前の帝の三番目の親王の、子を孕んだのです。三番目の親王は身体が弱く、『枯蔓の皇子』とあだ名されていました。手足が細く、背は高い、ひょろひょろと長い様を、病気がちの蒼白い顔色に当てはめた、ずいぶんと意地の悪いあだ名でした。
しかし、この枯蔓の皇子は強欲な者たちに利用されないように、寺へと引きこもったとも言われています。皇子はたいへんな勉強家で、政や語学に秀でていたのです。
大納言の妹姫は身を寄せた寺で、皇子から手解きを受け、皇子の子を孕みましたが、皇子は宝玉が散りばめられた懐剣を腹の子へ授けると、産まれるのを待たずして冬の寒さに耐えられずにみまかりました。大納言の妹姫も、子を産んで七日、ひだちが悪く、儚くなりました。
寺の者たちは生まれた姫を育てるにも、この場よりも大納言家に託した方が幸せだろうと、葬儀を行うことを含めて左大臣へと使いを出したのです。
左大臣は末の姫を可愛がっていたため、出奔したような姪姫やそのみどりごを引き受けようとはしませんでした。それをみた大納言は、妹姫の葬儀のために寺へとお金を送り、家臣を共に連れて形見の品と遺児を引き取りに行きました。
これは大納言の北の方が、娘を欲したから引き取られたとも言われています。北の方は実の娘として育てたため、二人の男児たちも妹姫をたいへん可愛がりました。
上の男児は武勇に優れる貴公子に、下の男児は学に優れた貴公子に育ち、兄として妹姫へとそれぞれ得意なことを教え育てました。
そう、これが残念な姫の育成へとつながるのです。
「ちぃ兄上、先日お借りした漢詩集ですが」
薄暗がりに白湯を飲んでいた女のような顔をした若い狩衣姿の男が、顔を上げた。透き通るような白い肌は真上に光る陽に、少しだけ自ら輝いたように見えた。
その様子に梔子の君はため息を漏らした。
「またこんな暗いところで……」
「昨日遅くまで必要な書を探してたんだよ、それで?漢詩集がどうしたの?」
すっと扇で差されたところへと座る。梔子の君にとって二人の兄のうち下の兄は、知りたがりの蟲が取りついているのではないかと思えるほどに学問に傾倒している。かといって武術に疎いのかと言えばそうではない。いかに上の兄を有利に勝負させるか、もしくは上の兄が完膚なきまでに相手を追い詰められるように考えを廻らすことの方が好きなようだ。どういう仕組みで武器を扱うことができるのかを知ることでそれらを思い付くそうなので人並みに鍛えている。
美しい兄の顔は表情に乏しく、仲が良い者でないと、怒っているのか笑っているのかわからない。それでも漢詩集の話を持ち出したところで、ほんの少しだけ口の端が持ち上がったのを梔子の君は見ていた。
「あの、これ、もう少しだけお借りしてもよろしいですか?」
「珍しいね、これくらいすぐに読めるだろう」
「読み終わりはしたのですが、紙が挟んであったのです」
「紙が?」
不思議そうに言う兄は知らなかったのかと安堵した。わざとならば、いつもの通りに貸した書の内容を理解しているかどうかの確認として問答が始まるところだった。
懐から一枚の紙切れを出す。指二本分ほどの大きさの小さな紙だ。
「こちらです、ちぃ兄上の手ではありまんよね」
手を伸ばして受け取った兄は文字に視線を走らせたあと、裏返したり透かしたりして念入りに調べたあと、首を振った。
書かれた文字は流麗で、高い教養と穏やかさを持っているものと思われる。だから、兄の手跡でもおかしくはないと思ったのだ。
もちろん、何となく女文字に見えるので違うだろうとも思っていた。ただ、漢詩集に挟んであり、紙の上に漢字が並ぶさまを思えば、女が書いたとは思いにくい。
「やはりそうですか……」
「なかなか良い詩だねぇ」
「はい、もう少し詩を勉強しようと思いました」
「終わったら添削してあげるよ、大学寮でも課題にできそうだから」
「あぁ、いいですねそれ」
下の兄は大学寮にて文章(文学)、算法、明法(法律)の学生をしている。算法にいたっては歳上の学生を押し退けて、得業生(≒大学院生)にまでなっている。そんな兄もこの紙に興味があるようで、調べてみたいのだろう。
梔子の君は兄のもとを辞すると、そのまま庭へ降りた。
池の中を泳ぐ魚を目で追いながら、懐へしまい込んだ紙をそっと触ってみた。かなり良い質の紙である。厚く、花に結ぶには適当ではない。書の習いに使うにも良すぎて筆が運ばずに書きづらい。男女の恋文にしてみても、美しく色をつけたり花をすいてあるのではなく、ごわごわして柔らかい板のよう。
どうしよう、と梔子の君はため息を池へと落とした。
「ん?そこにいるのは梔子か?」
はっと振り返ると、西の対の廊下から大きな体躯の美丈夫が、赤い狩衣をだらしなく襟元を広げたまま梔子の君を見下ろしていた。
これでも都の姫君の間では一、二を争う人気の貴公子だ。武に長け、優しく、高位貴族の継嗣なのだ。お近づきになりたいと考える者も多いことだろう。
家の中ではただだらしがないだけの男だけれど。
「兄上、お帰りだったのですか」
「宿直だったのだ、今帰った」
「お務めご苦労さまでございました。おかえりなさいませ」
「うむ、それは良いのだが、早く庭から上がりなさい」
「え?」
上の兄が気まずそうに頭の後ろへと手をやった。そして、そのまま視線を横へ流す。
つられて見たそこには、若草色の狩衣をまとった男が立っていた。にっこりと笑いかけられて、慌てて頭を下げる。
「お客様がお見栄とは知らず、ご無礼を!」
「蒼嗣、これが噂の妹か?」
「はい、お目にかけようとは思っておりませんでしたが……」
うつむいたまま、やってしまったと後悔する。まだ裳着を済ませていないとはいえ、年ごろの娘が易々と庭へ降りるなど、高位貴族はしない。陽の当たらない奥で教養をつけ、白い肌に艶やかな髪、そして儚げな美しさを身に付けるのが良いとされている。これでは大納言家において梔子の君のせいで悪い噂がたってしまうかもしれない。
「おいで梔子、紹介しよう」
「はい、兄上」
優しい声色で呼ばれたが、梔子は震える声で返事をして、今さらだが大人しく見えるようにとしずしずと兄の近くの段から廊下へ上がった。
「妹の梔子です。梔子、こちらは……」
「吾のことは『銀杏の君』と呼ぶように」
明らかに隠された名にかなりの身分の方だと思われる。何故よりによってそんなにも高いご身分の方が大納言家へ、と梔子の君はくらりと目が回った。しかし、ここで倒れるのが普通の姫君なのだが、梔子の君はわかっていない。だから名を聞いても倒れないことでさらに興味をひいてしまったことに気が付いていない。
「承知つかまつりました」
「ふむ、梔子の君、顔をあげてくれぬか?話しにくい」
不敬ではないかと横目で兄は確認すると、頷いたので諦めて顔をあげた。ふーん、としばらく梔子の君の顔を見つめたあと、にやり、と笑った。ぞくりと背中に寒気が走り、とっさに兄へ助けを求めて見上げたが、兄も銀杏の君を見て顔をひきつらせている。
「さぁ、梔子の君!蒼嗣の部屋へと案内いたせ!色々話がしたいのだ!」
がしっと腕が捕まれた。今日は三枚の重ねの女の格好をしているのに、軽々と掴めるなんて。思わず、ひぃっ、と声が漏れた。
「お待ちください!梔子は……」
「何を言う!姫こそとても良く使えるだろう!」
梔子の君の頭の上で、焦ったように梔子の君の前に割り込もうとする兄と、それをはね除けようとする銀杏の君の声が響く。どう見ても身分の高い銀杏の君のせいで梔子の君も動けない。
と、バタン、と板戸が跳ねたような音が身体を震わせた。
銀杏の君も、上の兄も動きを止めて原因を探る。
向こう側の廊下に、美しい鬼が立っていた。いや、下の兄が立っていた。
目は冴えざえと冷たく光り、こちらを睨み付けている。白い肌が浮世離れしていて、本当に鬼のようだ。
板戸が、庭に割れて落ちていた。
「あ……緋景」
「何をしてらっしゃるのです?蒼嗣兄上」
足音を立てず、普段のゆっくりとした下の兄とは比べられないほどの早さで廊下を渡り、ここへやって来た。それこそ、この世の者ではないような早さだ。三人の前に立つと、下の兄はちらりと銀杏の君を見やった。
「ほう、何故あなた様が吾らの姫に手をかけていらっしゃるのか」
問いかけるでもなく、抑揚のない声は梔子に鳥肌を作った。
弾かれたように銀杏の君は梔子の君から手を離すと、ぴしりと真っ直ぐに立った。
「や、やぁ緋景殿!吾、銀杏の君の策に梔子の君を取り入れようと思ってだな!」
「銀杏の君など吾はしりませぬ」
下の兄は梔子の君の顔を覗き込んだ。
「他には何もされていないかな?」
「えぇ、ちぃ兄上」
表情に変わりはないけれど、目は心配そうに梔子の君を映していたから、肩から力を抜いて微笑んだ。
「うむ、よいな、白鷹に……」
「ですから!」
「白鷹様が何か?」
兄二人は白鷹という名に覚えがあるようだが、梔子の君はわからない。
「ちょうど良い、緋景殿も蒼嗣と梔子の君と共に来るが良い」
その場の了承など取らず、一人で渡っていく。
「兄上、早くあの方を追いかけてください、吾は女房たちを下がらせます」
物音に集まり始めた女房たちはざわつき、壊れた板戸におののいている。それらを見やってから上の兄は遠くを眺めた。
「あ、あぁ、済まんな、宿直明けに捕まってな……」
話し方からしてあまり歓迎しないお客様だったのだと推測する。疲れているだろうに上の兄はのしのしと追いかけていった。
「ちぃ兄上は銀杏の君をご存じなのですか?」
少しだけ考える素振りを見せたが答えてくれた。
「知ってはいるが梔子に何をさせるのかわからない。危険なお役目の方だから、近付いてもらいたくない」
「危険な……」
「兄上が捕まったのも武芸を見込まれてのことだろうね」
梔子の君は言葉を失って、上の兄が歩いていった先へ顔を向ける。危険なお役目の銀杏の君が、武術に秀でた上の兄を必要とするようなことを、起こそうとしているということか。優しい上の兄が何かに巻き込まれる。
突っ立っている梔子の君を置いて、女房たちへと指示を出しに行っていた下の兄は戻ってくると背を押した。
「まぁお聞きしないことにはわからないから」
そんな慰めを受けても、梔子の君に芽生えた気持ちは消えない。
上の兄、一人を巻き込ませる訳にはいかない。兄の妹として、頼まれたのならばお務めしなければ、大納言家の名折れだ。
どんなお話にしろ、上の兄が断れないことが銀杏の君のご身分からしてわかるから、これはもう決めごとだ。
兄と共に行く。
「……梔子の君、なんだか顔が変わったかな?」
「どうしたんだ梔子」
梔子の君の様子に銀杏の君も上の兄も首を傾げて出迎えた。きりりと引き結んだ口許は、幼さを残すもとても凛々しいものだった。
「まぁ、良い。梔子の君には、吾の弟と友になってほしいのだ」
「どの弟君ですか?まさか先程の?」
下の兄は家族構成までご存じのようだ。
「うむ、吾とは母が違う。名は白鷹と申す」
「白鷹様、は男の童ですか?」
「そうだが、そなたと歳は変わらぬはずだ」
そう言って銀杏の君は兄たちへと視線を送る。上の兄が頷いた。
「白鷹様は妹のひとつ上ですな」
「あの白鷹様が素直に友になどなりますか?」
「出来ずとも良い。吾には話などしてはくれぬからな、蒼嗣も緋景殿も白鷹とは話ができるだろう?」
「話など……槍や太刀の使い方や馬の遣り方をお教えするだけです」
「吾は学問や鷹の扱い方を」
はぁ、と大袈裟に俯いて、銀杏の君は嘆き始める。
「お教えするだけだって?吾には一度も請いに来たことなどないわ!それらをされているだけそなたらは慕われておるのだぞ!吾は、吾は……」
しくしくと、袖を濡らし始めてしまった。
つまりは、兄弟仲があまりよろしくないのか。しかし、兄たちとは接することもあるということだから、もしかすると母が違うことで銀杏の君へ気を使っているのかもしれない。
「大丈夫ですよ!兄上様の銀杏の君に引けめを感じてしまっているのかもしれませんし、銀杏の君がこんなにも親しみを持てる方だとご存じないのかもしれないですし、吾がその事を白鷹様へきっとお聞きいたしましょう!」
「ちょ!」
「梔子!」
「まことか梔子の君よ!」
「はい!」
キラキラとした笑顔で梔子の君は安心していた。下の兄が怖いことを言ってはいたが、優しい兄上様の銀杏の君が母違いの弟君を心配しているというとてもよい話だった。これなら上の兄が危なく無さそうだし、梔子の君も友が出来るのだから問題などない。高位貴族ならば、母違いということが権力争いの種になることもあり、銀杏の君も簡単には弟君を庇えない事情があるのだろう。
懐でかさりと乾いた音がした。
「あっ……ちぃ兄上、先程の紙を銀杏の君へご覧いただいてもよろしいでしょうか、良い紙ですからご存じかも」
「梔子は……気ままでよいな」
疲れたような、恨めしげな眼差しで下の兄が言うが、梔子の君は首を捻るだけだった。