手をつないで -はるか火星への旅路-
ボクたちを乗せた巨大な宇宙船が、周りの人たちのカウントダウンが始まると同時に、白い煙を勢いよく吐き出した。大量に出てくる煙が不思議で、ボクはたまらず座席のすぐ左側にある小さな窓越しにその様子を観察する。窓から見える煙は外をほとんど覆いつくし、きれいな青空も、宇宙港の長い路面も見えなくなっていた。
やがて、カウントダウンがゼロをつげる。それとともに、宇宙船は地面をゆっくりと離れ、空へと飛んでいく。ボクの周りにいる大人たちは、喜びとも不安ともつかない声を上げていた。
「やあ、流星くん。久しぶりだね」
すぐ右側からボクを呼ぶ声が聞こえた。振り返ると、そこには父さんの仕事仲間の立花さんが立っている。小さい頃から見知っている立花さんは、頭のてっぺんからつま先まで白い宇宙服に包まれており、大柄な身体も相まって、映画に出てくる宇宙人みたいだった。ボクは、そんな立花さんへ一言、こんにちは、と応える。
「これからすぐに大気圏に入る。危険だから、宇宙ヘルメットと、シートベルトをちゃんとしてなきゃだめだよ」
「分かりました」
そう返事したボクは、すぐさま座席に付いていたシートベルトを手にとって、腰の前で填める。かちっ、と小さな音がする。それから、うすい藍色をした宇宙ヘルメットをしっかりと被る。
ボクが宇宙ヘルメットとシートベルトをしっかりとしたのを見届けた立花さんは、満足そうに宇宙船の前へと歩いて行った。立花さんの向かう先は宇宙船の操縦室。きっとこれから、ボクの父さんと一緒に宇宙船を操縦するのだろう。ボクはぼんやりとそんなことを考える。
宇宙船が地上を離れてから一分ぐらいで、宇宙船は白い雲の中へ入ったかと思うと、あっという間に雲を通り抜けた。窓をとおして、ボクの視界に夜の黒い闇が広がる。さっきまではきれいな昼間の空が見えていたのに。
ボクが窓から見える景色に圧倒されていると、宇宙船のアナウンスを告げる短いコールが三度鳴り渡る。コールが終わると、流暢な英語で話す男性の声が、宇宙船の隅々に伝わった。
「こんにちは、船長のバルト・クレーターです。人類初の巨大宇宙船『ウーラノス』に乗船された皆様、いかがお過ごしでしょうか。ただいまの世界標準時は、西暦2208年2月22日、14時48分です。地球に続く人類の新たな故郷・火星まではおよそ5600万キロメートル。到着予定日時は、世界標準時で西暦2208年8月26日、17時15分の予定です。本船は間もなくオゾン層を通過し、宇宙への一歩を羽ばたこうとしています。オゾン層では、地球の重力および地球軌道上の塵の影響により強い揺れが発生する場合がありますので、乗務員の指示があるまでは必ず宇宙ヘルメットとシートベルトを着用してください。繰り返しお知らせします。本船は間もなくオゾン層に入ります。宇宙ヘルメットとシートベルトをまだ着用されていない方がいらっしゃいましたら――」
船長の長いアナウンスを聞きながら、ボクは窓の外を見つめる。すると、ボクの眼下に巨大な地球の景色が広がり、その先に黒い闇と瞬く星々が見えた。
ボクの目の前にある地球は、写真で見るよりよっぽど壮大で、美しい。くすんだ緑や黄土色の地表の周りに、大きな青い海があり、その両方を白い雲が所どころ覆っている。ボクの脳裏に、二百年前の偉人の言葉がふいに思い起こされる。
「地球って、本当に青かったんだ」
ボクは、思わず口に出しながら、しばらくの間、地球と宇宙の景色に見とれていた。
***
やがて、宇宙船はオゾン層を抜けた。宇宙ヘルメットとシートベルトを外しても構わない旨のアナウンスを聞いたボクは、すぐさま宇宙船をあちこち見て回る。
離着陸時に集う客席を離れ、食堂や乗務員室、機関室。乗務員室などは父さんたちの関係者しか入れないため、その入口を素通りするだけにとどめたボクは、一度自分の客室に入った。小ぢんまりとした客室の中心には大きなベッドが置かれ、その側には小さな照明が置かれたナイトテーブルがある。ベッドの足元から一メートルほど離れた先には、オーディオ機器やパソコンが据えられたデスクがあり、部屋の一角にはトイレとシャワールームが配置されていた。
ホテルの一室とさほど変わらない雰囲気に心地よい雰囲気を感じ取りながら、ボクは父さんが事前に用意してくれた荷物を簡単に整理して、再び部屋の外に出る。客室前の廊下では、何人もの大人が忙しく右往左往しており、みんな分厚い窓から見える宇宙の光景に興奮しているようだった。
ボクは、そんな大人たちから少し距離を置くようにして、再度宇宙船の探検を再開した。客室の廊下を離れ、レクリエーションルームの前に差し掛かったところで、ボクの視界に紺色のワンピースを着た少女の姿が映る。
「ねえ、そこの君」
ボクは、おそらく自分とさほど年の離れていない少女に向かって、英語で声をかける。呼びかけに気づいた少女は、栗色の長い髪を揺らしながら、ボクの方に顔を向けた。白く張りのあるきめ細やかな肌に、ビビッドブルーの大きくきれいな瞳が印象的な、可愛らしい女の子だった。
「なに?」
少女は、どこか不機嫌そうに応じる。そんな彼女の態度にボクは戸惑いながらも、せいいっぱい笑顔を作って挨拶した。
「こんにちは。ボクは大空流星、十一歳。日本から来たんだ。父さんの仕事の都合で火星に向かってたんだけど、同年代の子がいなかったから、少し不安だったんだ。よろしく」
そう言って、ボクは右手を少女へ差し出した。
少女は、そんなボクの手と顔とを交互に見合わせると、小さく吹きだした。続いて、彼女は流暢な英語で答える。
「へえ、きみ、日本人なの。下手な英語だと思ってたけど、どうりで」
少女の言い方に、ボクは少なからずむっとした気持ちになる。去年から英語を勉強し始めたから、多少拙い話し方だったかもしれないけど、初対面でこの言い方はないだろう、と思った。
「何だよ、その言い方はないだろ」
「あら、気を悪くしたらごめんね。私はスージー。スージー・クレーター。あなたと同じ十一歳。アメリカから来たのよ」
少女――スージーが口にした、『クレーター』という聞き覚えのあるファミリーネーム。最近の記憶を思い起こしながら、ボクはスージーに質問する。
「スージー、きみってもしかして、クレーター船長の」
ボクが言い終わるより前に、スージーは満足そうに頷いた。そのまま、半ば興奮気味に告げる。
「そう。パパはこの船の船長なの。みんなを火星まで連れて行くよう、指揮を執っているのよ」
スージーはそう言って、レクリエーションルームの扉の前に移動すると、あらためてボクへ向き直る。
「ねえリューセイ、知ってる? このレクリエーションルームは、単にレクリエーションだけを目的としたわけじゃないわ。私たち学生の教室でもあるの。明日から授業が行われるわ」
「うん、知ってる」
ボクが淡々と応じてみせると、スージーは少し頬を膨らませた。これを提案したのはパパなのに。そう彼女が呟いた瞬間、ボクとスージーの身体がふわりと浮き上がった。
両足が硬い床を離れ、宙に浮かぶ。ボクは戸惑いながらも、同じく困惑した様子のスージーの手を取った。ボクとスージーの手が触れたところで、宇宙船にアナウンスが鳴り響く。今度は、船長ではなく若い女性の声だ。
「ただ今、船内で無重力が発生しております。乗船している皆様におかれましては、怪我のないよう注意して行動してください。また、体調が優れなくなったら、すぐに近くの乗務員や医師に相談してください」
アナウンスの声を聞きながら、ボクは無重力となった廊下を泳いだ。ふわふわと浮かぶこの空間を漂っていると、まるで本当の宇宙飛行士になったような気分になる。ボクの父さんも、今の仕事を始めたときはきっとこんな感覚を抱いたに違いない。
そう思っていると、ボクの身体とスージーの身体がとん、とぶつかった。無重力のおかげか、互いにそれほど強く打ち付けることはなかったけど、ぶつかった勢いでスージーのワンピースがふわりと浮き上がる。
すると、一瞬だけ、見えた。紺色のワンピースと、彼女の白い素足に混じって見えたそれを前に、ボクは思わず顔を逸らす。一方のスージーは、ボクへ顔を向けるや否や、白い顔を一気に紅潮させた。
そして、彼女は自分のワンピースのスカートを押さえながら、怪訝な顔つきでボクを見つめる。
「ねえ、リューセイ。今、見たでしょ」
スージーの発する低い声に、ボクは少したじろいだ。もし本当のことを言ったら、ホラー映画に出てくるエイリアンみたいに目を不気味に輝かせる彼女に、きっときついことをされるに違いない。
ボクの頭は器用にその場しのぎの言葉を選んでは、すぐに声に出していった。
「見たって、何を?」
「とぼけないで。その……わ、私の。ぱ……ぱ」
「ああ、見てないよ。ボク、そういうの興味ないから」
「うそ。絶対見た。そうやって興味ない風に装う男の人ほど、本当はとんでもない変態だって、パパが言ってたもん」
スージーの言葉に、ボクは心臓をぐさりと刺されたような気持ちになった。女の子からまじめな口調でそう言われると、いっそう現実味が感じられるのはなぜだろう。ふと過った疑問を頭の片隅に追いやりながら、ボクはスージーを見つめる。無重力空間に浮かんでいる彼女は、頬を赤らめながらもスカートの隙間をしっかりとガードしていた。
「そう言われても、見てないものは見てないよ」
「ほんとう? あの体勢で見てないって言うには苦しいわよ」
「だから、見てないってば。スージーの白いクマさん柄のパンツなんてっ」
刹那、ロシア人形のようにきれいなスージーの青い目が、十一歳の女の子とは思えないほどに異様な輝きを放った。それと同時に、ボクは心の中でああ、しまったと思った。だけど、後悔しても遅い。蛇に睨まれた蛙のごとく、ボクは鬼気迫るスージーを前に逃げ出すことができない。
「ねえ、リューセイ。私たちの国で、こんなことわざがあるの、知ってる? 『愚かなダチョウは頭を砂の中に埋めてしまえば、見つからないと思っている』というの。意味はそのまま、言葉通り。今のあなたはまさしくそのダチョウよ。そのことわざに出てくる愚かなダチョウはね、その後捕まってひき肉にされちゃうの。だから、リューセイみたいな変態ダチョウには、きっと酷いお仕置きが待っているんでしょうね」
スージーが、ぼそぼそと呟いたと思ったその瞬間、彼女はボクに向かって勢いよく突進した。とっさに身体を翻してよけたものの、無重力空間で巨大隕石のように突進してくるその様は、とても恐ろしい。
ボクは、そんなスージーからどうにか逃げようと、無重力の中を泳ぐ。両手足を必死でかき、彼女から少しでも距離を取った。だが、スージーもまたボクを追いかける。こうして、ボクとスージーの無重力の中での追いかけっこが始まった。
***
ボクとスージーは共にふわふわと浮かびながら、船内をあちこち忙しなく動き回った。食堂でコックさんの周りをぐるぐる回ったり、展望台や客席で逃げ回っては大人たちに怒られたり――そうしてさまざまな場所を経て、船長室の近くまで来たところで、ボクはある人の姿を視界にとらえる。立花さんだ。
立花さんは、彼より一回り程背の高い白人の男の人と何やら揉めているみたいだった。ボクは、二人のやり取りの内容が気になって、そっと聞き耳を立てる。すると、ボクの後ろにどん、と衝撃が伝わる。振り返ると、ボクの目と鼻の先でスージーがにこにこと笑顔を湛えていた。ボクがスージーの名前を口にする前に、彼女の平手打ちの音が辺りに響いた。
「観念しなさい、リューセイ」
「ま、待って。スージー。今はちょっと、ほら」
ボクは、わずかに痛みが残る左頬を押さえながら、右手で立花さんたちの方角を示す。ボクの右手が示す先にあるものに気づいたスージーは、ボクの手を引っ張って、廊下の壁に隠れた。突然の彼女の行動に、ボクは思わず唖然としながらも、小声で彼女に質問する。
「ねえ、どうしたのスージー。急にこんなところに隠れて。あそこにいる日本人のひとは立花さんといって、ボクの知り合いの――」
そこまで言いかけたところで、スージーがボクの口の前に右手の人差し指を持ってきた。静かにして。そう告げる彼女の目線は、立花さんと、背の高い男の人に注がれていた。
ボクは、スージーの態度が気になったのと、立花さんがどんなやり取りをしているのかが気になり、彼女に倣って二人の会話を聞くことにした。半ば感情的になっている立花さんに対して、背の高い白人男性は終始冷静な態度を貫いている。
「立花さん、落ち着いてください。国連やNASAは、何もあなた方が地球へ帰還できないと言っているわけではありません」
「そりゃ、お偉いさん方はみんなそう言うさ。だが、本当のところはどうだ。僕たち――この船に乗った全員が、火星の居住区開発に向かうわけだが、それはいつ終わる? いつ地球に帰れる? 僕は生まれ育った地球で一生を終えたい。遠い火星で一生を終えるだなんて、いやなんだ」
「立花さん、お気持ちは分かりますが。あなたもこの火星開発プロジェクトのスタッフの一人です。スタッフとして任命されたからには、あなたはその義務を果たすべきだ」
「だが、それでも……僕だけじゃない。僕よりも若く、未来ある子どもたちはどうなる。子どもたちがこれから、二度と地球に足を踏み下ろすこともできず、火星という不安定な環境で生きていかねばならないというのがどういうことか。大事な娘さんを持つあなたならご理解できるはずです、クレーター船長!」
立花さんの言葉を聞いたボクは、思わず息を呑んだ。側にいるスージーは、両手を口の前に持ってきて、その手を小さく震わせていた。一方、立花さんの目の前にいるクレーター船長は、眉一つ動かすことなく、淡々と応じる。
「プロジェクトのためなら、仕方ないことでしょう。私の方策は、娘をただ一人地球に置き去りにするよりはよっぽど良心的です。それに、私のこの考え方には、あなたの友人の大空さんも賛同してくれましたよ」
クレーター船長の口から、父さんの名前が出てくる。そのとき、ボクは何だか胸が締め付けられるような思いがした。船長の言葉を受けた立花さんは、何も反論しないまま黙っていた。
二人の長い沈黙を陰から聞いていると、突如スージーが立ち上がり、静かにその場を離れる。ボクは、スージーの後ろ姿を黙って追いかけた。
***
宇宙船の最上部に設置された展望台の壁は、四方が巨大なスクリーンで覆われており、スクリーン越しに外の景色が映っていた。リアルタイムで映し出される外の宇宙では、一等星から六等星まで、あらゆる星々が瞬きを繰り返している。先ほどまで眼下に見えた巨大な地球も、今では高さが十メートルほどのスクリーンに収まるほどに小さくなっていた。
スージーの姿を探して、ボクは周囲をきょろきょろと見渡す。すると、展望台の隅で両膝を折り曲げながらぷかぷかと浮かぶ少女の姿が見えた。ボクは、すぐさま彼女に向かって近づき、なるべく穏やかな口調で声をかける。
「スージー」
ボクの呼びかけに、スージーはこちらを一瞬だけ振り向いたかと思うと、何も言わずにすぐに両膝のあいだに顔を埋めた。彼女が顔を動かしたとき、彼女が流した涙の粒が舞い、ふわふわと宙を漂う。
ボクは、スージーにかけてやる二言目を心の内で探す。けれど、何を言ってあげれば良いのか分からず、ただ時だけが過ぎていく。そうして、どれぐらい経ったか分からなくなった頃、スージーが嗚咽交じりに口にする。
「知らなかったの、私。パパがそんなこと、考えてたなんて。私最初、パパから火星へ一緒に行くことができるって聞いて、とても嬉しかった。けど、なんだろう。今は何だか、それが悲しくて、辛くてたまらないよ……」
そこまで言って、スージーは声を押し殺して泣き始めた。ボクは、そんな彼女を見てどう声をかければいいのか分からなかった。出会ってから間もないけれど、彼女の気持ちが理解できる気がした。ボクも、スージーと同じような気持ちを抱きつつあったからだ。
初めは立花さんたちの会話の内容をボク自身はっきりと飲み込めなかったけれど、スージーが口にした途端、その意味をあらためて悟ってしまった。たぶんそれは、今のボクたちが知ってしまうにはとてつもなく重たいもので。それを受け入れるのは、とっても怖いことで。
ボクは、そうした気持ちに押しつぶされそうになるのを拒むように、目の前の少女の手を取った。ボクの思わぬ行動に驚いたのか、スージーの顔がボクに向けられる。透明な彼女の涙が舞い、ボクの頬を濡らす。
スージーの手は、とっても温かかった。まるで元気をもらっているみたいだ。ボクは、彼女の手を強く握ったまま、小さく声に出す。
「だいじょうぶだよ。きっと、だいじょうぶ」
この言葉に確証なんてない。これから空気を掴んでやろう、とでも言うかのような根も葉もない慰めの言葉だ。けれど、ボクがスージーに投げてやれる言葉は、これ以外には何も思いつかなかった。
自分の浅慮を心の内で悔やんでいると、スージーがボクの手を強く握り返してくれた。ボクと彼女の手が、互いに紅潮する。ボクがスージーの顔を見つめると、彼女はもう一方の手で目元を拭いながら、ボクに微笑みかけていた。
「リューセイ……ありがとう」
それからボクたちは、スクリーン越しに見える宇宙を眺めていた。これから先、この広い宇宙でどんな困難が待っているのか、誰にも分からない。
けれど、そんな中でもボクは、いっしょに手をつないでくれた彼女の手をはなすことはないだろう。これから先も、ずっと――。
手をつないで -はるか火星への旅路-/Fin.