微笑が消えるとき
沖中美紀は、ローマから直接、沖中直美のパスポートを使って日本へ帰国した。行きの香港からはマフィアに金を払って偽造パスポートでイタリアに入ったが、帰りはデルフィーノ神父が一緒だったためリスクを避けたのだった。
空港からタクシーで都心へ向かう社内で、美紀は渡辺に電話をかけた。
「もしもし」
「沖中美紀か!警察が来た。引き抜きの件は失敗したのか。石原美里はどこにいる」
「質問攻めはやめて。まあ日にちが開いたから仕方ないか。ストキャスのマネージャーが手強くてね、この前の作戦は失敗。石原美里は死んだわ」
「死んだ?どういうことだ」
「殺したのは…」美紀は相手が悪魔だと説明するのは、話がややこしくなるので止めた。
「私にも詳しいことは解からない。でも契約は続行するから。次の手段はもう考えてあるわ…。また連絡する」
電話を終えた美紀は、警察が絡んでいる事を考慮して、行き先を帝大ホテルへ変更した。
向山は、自席で桜野翔とのツーショット写真をにやにやしながら眺めていたが、それを遮るように着信音が鳴った。レスポールの渡辺だ。
「向山警部、今沖中美紀より連絡がありました」
「何ですって?彼女の居場所を聞きましたか?」
「いえ、ただ契約は続行すると…。であればストキャスに何らかの形で接触すると思います。それから石原美里は死んだとも言っていました」
「え!死んだ?どういうことです」
「詳しいことは解かりません。あの女がそう言っていただけです」
「…。そうですか。ありがとうございます。また何かあったらこちらからも連絡します」
向山は電話を切ると、畦地を呼んだ。ストキャスの事務所、いや桜野翔に張り付いて沖中の接触に網を張る考えだ。更に内線電話をかけた。
「向山です。科学捜査班を編成します。至急です」
畦地が駆けつけた。
「畦地と私は桜野翔に付きます。後の者は科学捜査班とレスポールエンターテイメントへ向かって」
再び内線を取ると「管理官ですか。一刻を争います。民間の各通信事業社への協力要請をお願いします」と言い、向山は自ら覆面パトカーに乗り込んだ。
運転するのは畦地だ。向山は桜野翔のマネージャー濱崎綾子に電話をかけてアポを取った。
「警視庁の向山です。沖中美紀が動き出しました。そちらに接触してくる可能性が高いです。今から翔君いや桜野翔さんをマークさせてください。仕事の邪魔にならないようにいたします」向山は電話を切った。
「警部。桜野翔は今どこです」畦地が訊いた。
「お台場です」
覆面パトカーはハンドルを切って、お台場方面へと向かった。
向山からの電話を受けた濱崎綾子は、沖中美紀の名前を聞いてさすがに動揺した。
「どういうこと?確かに殺した筈…。隠した魂は…。確かにある」目を閉じて、どこかを検索した綾子は、ますます解らなくなった。
「まあいいわ。面白い…。出方を見ましょう」そう呟いて、収録中の桜野翔に視線を戻した。
三十分後、向山と畦地はお台場のテレビ局へ到着した。バラエティ番組の収録中だったため相当数の芸能人が出演していた。
「あ、あ、あれ椎葉君じゃない?あ!あっちは大崎君」
「警部~。またですかあ。ミーハーもいい加減にしましょうよ」
「何言ってんの。こんなチャンス滅多にないのよ。それにこっちは保険。手はちゃんと打ってあるわ」
「保険ですか。じゃあ…」
そう畦地が言い掛けたとき、濱崎綾子が声を掛けてきた。
「向山警部、畦地刑事、ご苦労様です」
「濱崎さん」畦地は綾子の美貌に、鼻の下を限界まで伸ばした。
「畦地、あんたこそデレデレするな」向山は畦地にツッコんだ。
「沖中美紀が接触してくるって本当ですか?」
「ええ、ヘッドハンターの仕事を再開したようです。今日依頼人の渡辺さんに彼女から連絡があったそうです」
「今日ですか…。連絡は本人から?」
「…ええ。渡辺さんがそう言ってました」
「なるほど」
「何か気になることでも?」
「いえ。何でもありません」
綾子は誤魔化したが、向山はこの短いやり取りの中に潜む意図を鋭く感じ取った。そしてミーハーから一気に刑事の顔になった。
「濱崎さん、五月二十一日、オフの石原美里さんが行方不明になった日ですが、その夜あなたは何をなさっていたか聴いてもよろしいですか」
「アリバイですか」
「いえ、形式上のことです」
「……。事務所で仕事をしてました」
「証明してくれる人は?」
「いません。一人でスケジュールの取り纏めをしておりましたから」
「そうですか」
綾子は、「なかなか鋭いな」と思い、向山は「もしかして石原美里を殺し、沖中美紀を殺したか拉致監禁してるな」と思った。
「ところで、アイドルにはスキャンダルは禁物ですよね。噂では桜野翔さんがある女優と交際していたという週刊誌ネタがあるようです」向山は探りを入れた。
「まさか。翔は交際している恋人はいません」
「事務所に知られると、面倒なことになると考えている人はいるでしょう。ましてや彼は売れっ子のトップアイドルです」
「ありえません。彼のことは全て把握しています」
「マネージャーというのはプライベートまで管理してますか?二十四時間365日?」
「…そこまでは。でも概ねそうですね」
「彼も健全な若い男性です。恋人の一人や二人欲しいと思ってもおかしくないでしょう。彼が事務所を含め、徹底して交際を隠していたとしたら、その女優さんとお付き合いしていたとしても、さすがの濱崎さんも分かりようが無いんじゃありませんか」
「どうしても、翔に恋人がいることにしたいのですか?」
「芸能レポーターの真似事はしたくありませんが、もし差し支えなければ彼に直接訊いてもいいですか」
綾子は、悪魔の力を使って桜野翔の記憶を一部消したが、この向山から根掘り葉掘り訊かれることによって、記憶が甦ってしまうかもしれないと思った。
「お断りします。彼は今や売れっ子のアイドルです。変な波風を立てられたくはありません。それに彼は本当に石原美里とは映画の共演以外面識は無いんです」
「……石原美里?」
しまった 綾子は思った。
「濱崎さん、引っ掛かりましたね。桜野翔さんの噂の相手がどうして石原美里さんと考えたんでしょうか。私は一度もその名前を言いませんでした。何か隠してますね」
「…黙秘します」
「言いませんでしたけど、レスポールの渡辺さんは、沖中美紀から連絡があったとき、石原美里は死んだということも告げられたそうです。それが事実ならあなたに署に同行していただき、話を聴かなければならない」
次の瞬間、いつも微笑みを絶やさず、聖母のような雰囲気の綾子が突然消え、その代わり何か禍々しい瘴気を纏った綾子が出現した。その目の色は青く変わり、足元には黒い空気が漂っていた。
「何事!」向山はただならぬ気配を感じて、一歩後ずさった。そのとき…。
「姉貴!」綾子の後ろから、アイドルタレントの松木潤一が綾子を呼んだ。
「潤一…」綾子は潤一を振り向き、何か目で合図を交わしていたが、すぐに向山を向き直った。そしてその雰囲気は元の彼女のものに戻っていた。
「向山警部。分かりました。任意出頭したします。ただし明後日にしてください。忙しいもので」
「……分かりました。ではよろしくお願いします。お仕事の邪魔はしませんので、私たちはこのまま引き続き桜野翔さんをマークさせてください」
「ご勝手に…」
綾子は無表情にそう言うとスタジオのセットの方に去っていった。
「はあ はあ」向山は全身に汗をかき、片膝をついた。畦地の姿を探したが、瘴気に中てられとっくに気を失っていた。
「あれは…、人間じゃない。さては…、魔物か」
向山は気力を振り絞ってスマホを取り出し、電話をかけた。
「向山です。そっちの成果は?」
「突き止めました。場所は帝大ホテルです」
向山は、科学捜査班をレスポールエンターテイメントへ派遣し、渡辺の携帯から沖中美紀の携帯番号に発信し、相手が電話に出た時は、GPSによってその場所を特定することを試みたのであった。ラッキーにも沖中美紀は電話に出て、場所の特定に成功した。
「よし、異例ですが捜査員は一名とし、現地に行って沖中美紀の存在を確認しなさい。接触はせず確認だけでいい。外出しても尾行はするな。ただチェックアウトの気配があったら連絡して」
向山は電話を切ると、ふらつく足取りで畦地を抱き起こし、背中に『渇!』を入れた。
「沖中美紀。とうとう尻尾を掴んだわ。あなたに纏わる多くの謎、必ず暴いてやる。そして…。あなたも」
向山はスタジオの中、遠くに見える濱崎綾子に視線を向け、決意を新たにした。